【短編】作家と熱烈なファン
(さぁ……そろそろ書き始めるか)
立派なキッチンでコーヒーを淹れていた男は、マグカップを手に書斎へ歩く。処女作がベストセラーとなった新進気鋭の作家である。
(プロットはもう十分に作れたはずだ。さて、気合を入れるぞ──)
書斎のドアを、勢いよく開ける。
ゴッ!!
「あいったーぁっ!!」
「……はぁ!?」
内開きの扉は「何か」に激突した。
「え、何、誰かいる? 泥棒!?」
「ちっ違いますぅ! 私は先生を尊敬して」
「あーっ女泥棒!?」
男は恐怖の狭間でしっかりと侵入者を撃退しようとしていた。マグカップの熱いコーヒーが炸裂する!
「ギャーあっつー!!」
「──なるほど。あなたは僕の作品に感動して、エールを送るためにここまで来たと」
「はい……そうなんですぅ……」
しくしくと泣きながら女は、男から手渡されたおしぼりでコーヒーを拭き取る。辺りには、女が持ち込んだ男の著書や、想いをしたためたファンレターが散乱していた。
「って、納得するわけがないだろ! 警察に通報するからな!」
鼻息も荒くリビングにあるスマホを取りに行こうとする男を、女は必死に追いすがる。
「待ってくださーい! 私はただのファンです!」
「ただのファンがここまで来れるわけがないだろ! だいたい、ここ10階なのに……セキュリティもしっかりしているのに……どうやって、きた?」
男はだんだんと覇気のない声を出しながら、恐ろしい物を見るような眼で女に問い掛ける。女は言った。
「先生、窓を開けっぱなしでしたよ!」
「いやだからどうやって!?」
「そんなことより。私は先生に、どうしても申し上げたいことがあり、参上致しました!」
男に縋り付いていた腕を離し、女は深刻そうに語り始める。ゆらりと立ち上がった女に後ずさりしながら、男はごくりと喉を鳴らす。
「……な、なんだよ」
女はキリッとした瞳で、言い切った。
「先生の作品は、ミスが多過ぎます!!」
「はい?」
大事な執筆を控え、予想外の侵入者に出くわし、その侵入者は自分のファンで、初歩的なダメ出しを食らった男は、可哀そうに現実への理解が追いつかなかった。
事実は、想定を超えてくるものである。
①誤字・脱字
「あ、先生! ミスが多いって、謎が多いって意味じゃないですよ! ミステリーだけに」
「わかっとるわ!!」
急にボケをかましてきた女に、男は肩をコケさせながら返した。どうも先程から調子を狂わされている。
「まず、ここです! 『花よアラレよ』の第2章」
「えっ……それ処女作ですけど!?」
女は持参した本をパラパラ捲り、予め蛍光ペンでアンダーラインを引いた箇所を示す。
「ほら、ここだけ『恋人』が『変人』に!」
「嘘だー!!」男は絶望で頭を抱えた。
「それにしても、ベタなミスですね~」
「うう……あの頃はパソコンが壊れ、携帯も止められ、水道も止められた家で、原稿用紙に書き殴るしかなくって」
「ボンビーな時代が先生にも……うるっ」
②編集上のミス・データ送信ミス
「他にも気になるのが、受賞後のインタビューです」
「は?」「ほら、こちらの雑誌の」
男が確認すると、写真付きインタビュー記事だった。終始、男が受賞に対してしみじみと語っている内容だが、男が何かで爆笑した写真が、出し抜けのタイミングで添えられていた。
「……これ、僕のミスじゃないだろ?」
「これにクレームされているんですか?」
「いや、自分で読むの、恥ずかしくて」
③キャラクター名などの間違い
「あと最後に、作家デビューの記念に、雑誌への寄稿として発表された短編小説『Why』ですが」
「……まだあるの?」
てきぱきと該当箇所を探る女を、男はもはや眺めることしかできない。
「こちら、主人公が真犯人と知らずに会話する場面です。途中、一度だけ、なぜか犯人の名前が被害者になっています」
「マジか!? でも、僕には何も連絡やクレームがないんだが」
「あのー、私もイミフなんですけどー、どうやら読者は『これは後続小説へのフラグだ』『被害者の怨念が滲み出た』などと考察し、某チャンネルでは専用の討論スレッドが立てられました。つまり、エンタメ化されています」
「えぇ、──Why?」
「長文ともなると、執筆への手間暇・扱うデータの量・注ぎ込む集中力は膨大になるかと存じます。
でも! ならば自分の作品に惜しみない愛情を!
作品を送り出す前に、身だしなみチェックを!
時間がなければ、発表後でもいいんですよ!
どうかご自愛くださいっ!(キリッ)」
「……なぁお前、なんであっちを向いている?」
「皆様にも申し上げたくて!」「……いや、誰に?」
「……これで、私からは以上でございます。何か質問や、反論はございますでしょうか?」
「……いや……」
スッキリとした様子の女に対して、男はぐったりと疲弊した表情を浮かべていた。
(ファンにここまでダメ出しされるなんて……気力が、湧かない……)
男は息を大きく吐く。全身に力を籠めた。
(いや、今こそ踏ん張るときかもしれない!)
「わかったよ。自分の作品には、これまで以上に気を配ろう。僕はまだ駆け出しなんだ。もっと成長してやる」
気迫の籠った男の様子に、女はきょとんとしてから、安心したような笑みを浮かべた。
「それでこそ、先生です!」
女はごそごそと手荷物を整え、男に一礼した。
「先生、お手間を取らせました。私はこれで!」
「え……その格好で帰るのか?」
コーヒーの大きな染みを見ながら、男は問う。
「大丈夫です。目立ちませんから!」
にっこりと笑うと、女は書斎の窓を開け、ばっと身を踊り出す。そこにベランダはない。10階相当の空だ。
「えぇ───っ!?」
ぎょっとした男は、絶叫したまま窓にかじりついた。恐る恐る階下を覗くと、カラフルの風船上の物体が浮いている。それがパラシュートを真上から見たものだと気づくには、数秒の時間を要した。
「……は、びっくりした。目立ってるし」
無事に降り立ったパラシュートの近くに、黒いバンが停まる。パラシュートを驚くべき速さで片付けながら乗り込む女の姿が、なんとか見えた。
事実は小説よりも奇なり、である。
男はへたり込んで、書斎の天井をぼうっと眺めた。自分のファンだという女がそもそも何者なのか、黒いバンは何なのか、そして自分は何を書こうとしていたのか、わからなくなっていた。
しかし、時間は確実に過ぎていった。開きっぱなしの窓から、男は風の変化を感じ取る。
「もーいいや。頑張るしかない」
男はおもむろに立ち上がり、窓を閉める。そして、とりあえずできる簡単な仕事から取り掛かり始めた。
まずは零したコーヒーの掃除と、原稿の誤字脱字チェックを。
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