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思い出のSanFranciscoの町並みと英語の変化(その2)...2008年夏、ピジン英語、溢れるバイタリティー

その1)の続き(その2)です。2008年夏久しぶりに再訪したSan Franciscoの変化です。


すっかり変わった風景標準英語は影をひそめ非標準英語満開

San Franciscoは1960年後半から1970年前半は、誰でも受け容れ る自由な町として、アメリカ全土より若者が集まり、スマイルと花で 溢れたまさしく「花の]San Francisco(by Scott Mackenzie)でした。誰の顔からもスマイ ルと「Hi!」が自然に出てくる街でした。しかし、1992年と1993年に訪 れたSan Franciscoには、そんな友好的イメージは無くギスギスした 雰囲気が漂っていました。それを最後に、私はSan Franciscoを避 け、もっぱらWashington D.C.を中心に東部と南部に行くことにしま した。 今回は10数年ぶりのSan Franciscoでの滞在となりました。

Fremontの町は住宅や大型商業施設で埋まり、かつての田園風景はも はやありません。ただ東の方角の小高い山並みに広がる牧場は、今も 変わらずに黄色く夏枯れてCalifornia特有の風景を漂わせています。 以前より一層多くの人種が移り住んできたようです。若者たちの間で は人種単位の行動が際立っているものの、排他的ではなく買い物やゲ ームを楽しんでいました。町のガソリンスタンドやレストランの従業 員の多くは移民で、標準語が通じないこともしばしばです。10数年前 とは違うのは、みな親切で丁寧であるということです。セルフサービ スのガソリンスタンドの使い方が分からず困っていると、従業員が出 てきてベトナム訛りの英語で教えてくれました。ただし、何を言って いるのか半分くらいしか分からずに閉口しましたが、彼の親切な気持 ちは十分伝わりました。

かつてはこうした英語は東南アジアでしか聞かれなかったかもしれ ません。今や英語の本場であるアメリカ合衆国で飛び交っているので す。ある場所では非標準英語の方が大勢を占め、標準英語は ほとんど聞かれないのです。こうした英語を受け容れないと本場アメ リカでも不自由な思いをすることになるのです。1992年と1993年に 私の親友はこのような問題に直面していたのです。当時の彼はそれを 受け容れることができず戸惑いましたが、現在は、こうした変化を受 け容れて店の営業も順調に進んでいます。 私はかつてのEast Oaklandの14th Streetを車で走ってみました。 ここでも変化が起きていました。あのアフリカ系アメリカ人の大コミ ュニティーは、今では、ヒスパニック系と東南アジア系の移民の街に なっていました。

アフリカ系アメリカ人はどこに?

あれほど大勢いたアフリカ系アメリカ人はどこに行 ったのでしょうか。そういえば、San Francisco市内でもかつてよく 見かけたアフリカ系アメリカ人の数が少なくなったように思えまし た。左折して100th Avenueに入りかつての親友の家を見に行きまし た。ありました。白壁の家は昔と少しも変わっていませんでしたが、 窓にかけてあるオーナメントから察するにヒスパニック系の人が住ん でいるのでしょう。

そのままBerkeleyに入りUniversity of Californiaに行ってみまし た。今も昔の名声を保つ世界のトップ校です。1968年にリリースさ れた映画「卒業」 The Graduateでもこのキャンパスが出てきます。当時はもっとも 人気のあった大学で、全米から学生が集まってきました。私はその頃 にこの大学の図書館をよく利用しましたが、映画を見れば分かる通り 当時の学生の大部分は白人でした。今は、殆どがアジア系の学生で す。中産階級の子女が多くみな標準英語を話していました。

しかし、Berkeleyの街を出て隣のOaklandに入り、上述した14th Streetに戻ると、様々な国からきた移民が住む街の喧騒が続きます。 そこではまったく異質な英語が飛び交っているのです。ピジン、リン ガフランカという範疇に入れられない次世代の機能言語というか、と にかくバイタリティーを感じるのです。言語タイポロジーの研究では ピジンにはバイタリティーがないとの分析がありますが、とするとこ の英語はバイタリティーに富むのでピジンではないと言ってよいでし ょう。

標準英語は英語変種の一隅に、グローバル化された英語の将来像

現在の日本ではこのような状況はなく、基本的には日本語で日本人 だけを相手に生活できます。San Francisco湾岸で生まれた私の親友 も少年時代は白人だけを相手に生きていくものと思っていたようで す。グローバル化の波が日本だけを通り過ぎて行くとは思えません。 それでは日本が置いてきぼりにされてしまいます。親友が体験したこ とはいずれ私たちの子供たちも体験することになるでしょう。しか し、我々日本人はテクノロジーの変化には順応しましたが、制度や文 化の変化には不得手ですから、今のままでは順応できません。

例えば、日本の英語の教育は、アメリカやイギリスなどの英語圏で は誰もが標準語を話すことを前提としています。こちらが話しても相 手が話さないことを前提としていません。日本と同じようにアメリカ では画一的な文化と言語を共有しているという非現実を前提としてい ないでしょうか。英語がグローバル化して色々な変種が存在し、それ らが飛び交う英語の世界にもう少し目を向けるべきでしょう。 Lifelongに付き合う英語にはそのような視点が必要です。自分がどの ような英語を話すべきかだけではなく、世界がどのような英語を話し てくるかという視点も必要ではないでしょうか。

アリゾナ州に赴く、ナバホ族の言語状況の変化に衝撃

こんなことを考えながら、San Franciscoを離れてArizona州に行 き、Grand Canyonを抜け、目的のHopi族の居留地に行き博物館で Hopi族の資料を見に行きました。土地の保有を求めて当時のHopi族 の長老がアメリカ政府と交わした英語の手紙がありました。Hopi語を 翻訳したものですが、後に、人類学者かつ言語学者であるEdward Sapirが指摘している通り、あまりにも文化と価値観が違い、長老の 考えが正確に反映されているか疑問が湧きます。館長に聞いたとこ ろ、今ではHopi語を話せる人はいないとのことでした。ちなみに、こ こで会ったHopi族の人たちは全員標準英語を話していました。

私は、1968年9月この辺りをGreyhound Busで通ったことがあり ます。トイレ休憩中に待合室にいると、Navajo族の老人がやってきて 私にNavajo語で話しかけてきました。Navajo族にNavajo族と間違え られたのです。英語で日本人だと言うと老人も英語で答えました。 「同じ人種だね、同じ肌の色だ。兄弟だよ。」その英語はブロークン で普段は母語のNavajo語で生活をしていることを物語っていました。 しかし今ではHopi族の隣に住むNavajo族もみな英語の標準語を話し ていました。残念ながら予想したとおり、Navajo語はついぞ聞けませ んでした。ピジン化した英語は普段の生活では母語を話すことを想定 します。Fremontのガソリンスタンドの従業員は家ではベトナム語を 話していることを物語っています。それはよいことなのです。

50度近い砂漠の町であのNavajo族の老人にNavajoと間違えられた 時の快感を思い出しながら不安になりました。あれは幻であったの か、そういえばあの時あちこちに見えたプエブロはどこに行ったので あろうか?砂漠の蜃気楼であったのだろうか?その横をHarley Davidsonに乗った一団がやってきました。デジャブなのか、あの時 も確かこんな一団が通り過ぎる中、Navajo語と英語が耳に入ってきた 記憶がよみがえります。そして轟音とともに通り過ぎていきました。 60代のアメリカ団塊世代の一団でした。昔の記憶をたどる旅なのか明 日を求めての旅なのか。 いずれにせよアメリカは自由です。懐の広い国です。色々な事があ りますが、多くの国から移民を惹きつける何かを持っています。

数年 前にVirginia州のJamestownでインタビューしたPocahontasの末裔 のネイティブ・アメリカンのリーダーが、彼らが受けてきた不当行為 を放任したアメリカ政府を厳しく批判した後、ポツリと言いました。 「しかし、堂々と批判する権利を保障するこの国はいい国だと思 う。」失われつつある自分の文化を護りながら刻々と変わるアメリカ 社会で生き残ろうとする小集団グループのリーダーのことばは重い。


2024年後記

文頭に挙げたSan Francisco(by Scott Mackenzie)の歌のサビは、

”All across the nation, there is a strong vibration, people in motion. There is a whole generation with a new explanation, people in motion, people in motion." 国中あちこちで激震が起こり、人々が動いている!新たな生き方の世代がまるごと、動いている、動いている!

です。ベトナム反戦を掲げSan FranciscoやBerkeleyに集まった当時の若者世代の叫びを代弁したものです。その後1975年4月30日にサイゴン陥落とともに終結します。その時に大勢のベトナム、カンボディア、ラオスからの難民がboat peopleとして大勢アメリカに渡ります。並行してインド、中国、韓国などアジアの国々から、また、中近東の国々から、そして隣国メキシコはもちろんのこと中南米諸国からの移民が特にカリフォルニア州に集中的に定着したようです。San Francisco Bay AreaそしてLos Angeles Countyの各地を通ると種々の言語が飛び交い、ピジン英語は耳にしても標準英語などあまり耳にしない状態でした。多くが移民一世なのでしょう。

あれからさらに十数年2024年現在、今や2世、3世の世代になったと見え、現地のニュースなどから殆どが英語母語話者のようです。彼らの多くが大学教育を受け、Scilicon Valleyなどで活躍しているようです。一方では、California州全体に住宅費高騰で住む場所を失った人々が多くいます。大問題です。



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