小説 ふじはらの物語り Ⅰ 《侍従と女官》 29 原本
更衣をはじめ三人は、お上のこのご口上をお聞き申し上げて、まさに驚天動地の心境であった。
本来であれば、まず何より、しきたり通り、更衣が三人の代表として、お上に対し奉り謝意を申し述べた上で、この件につき丁重にご辞退申し上げるべきであるものを、日ごろ礼を失することなどあり得ない更衣は、暫しの間、何をお口に発されることも叶わず、すなわち狼狽していらしたのである。
二人の女房にしても、主人に追随していた。
ようやく我に帰った更衣は、お上のお目を見上げ参らせて、まず、ご辞退の旨を取り急ぎ申し述べた。そして、とりわけ、逐一その理由を強調しながらであったわけである。
「皇太后様、並びに、関白殿下と畏れ多くもお上がどのようなお話し合いをされて、いかなるご結論に至られたのかになど、私のような婢(はしため)がお口を差し挟むべきことにはまるでないことを、重々承知の上でなお、これだけは申し述べさせていただきますれば、私の実の父は、……。」
「それ以上申すな。そういったことどもをも勘案して、我らは、現況の打開のためには、そなたに尚侍の職を任せることが道理であって、多くの者がこれをよく理解するであろうと踏んだのである。
それに、関白がこのことを内諾したということは、藤原の出であるそなたは大納言の養女であることにまして、関白の養女でもあり得るというものである。すなわち『慣例』に則っておる。」
あまりなお上のご弁舌に更衣は胸が痛いほどであった。
「お上は、私めのことをなぜにさようにお買いかぶり遊ばすのでございましょうか。
私はこの宮中において未だ右左もよく弁(わきま)えませぬものを。」
この言葉にはお上も“はっ”とさせられた。
お上は、こう申された。
「余は、そなたの賢明さをよく知っておる。それは生来のものでもあれ、日々の研鑽にもよろう。
肝心なことは、その精神が偏(ひとえ)に他者への慈しみの心へと流れ着いているところである。
かような女(おなご)は、いや、かような者は、この宮中においておよそ見当たらない。
そのような聖(きよ)らかな火の明かりで、この雲居のような殿舎に住み慣わした人々の凍てついた心根を溶かしておくれ。」
更衣は少しうつむきながら、お上のお言葉を聞き終えた。
そして、次のように申し上げかけた。
「私めのごとく年若に過ぎる者が…。」
これを“遮る”というよりは、“引き取る”といった形で、お上はお声を懸けられた。
「余がおる。
母上も、そなたのことを大層気に入っておる。
『弘徽殿』のことはそなたが気を揉んではならない。
そして、そなたは、何よりも、立派な従者を抱えているではないか。」
お上は、二人の女房にお眼差しを投げかけられた。
年少の者を特に注視なさっては、笑みをお顔にお浮かべになった。
この場におけるお上の更衣に対しての叡慮の披瀝(ひれき)に先立ち、大納言には、閑院左大臣を通して内々に『ご沙汰』の趣が伝えられていた。
兎にも角にも、更衣は、“大納言に相談してのち、有り難い思し召しをお受けするかどうかをご返答致したき”旨を、お上に申し上げた。
それはお上に了承された。
更衣と二人の女房は清涼殿を後にした。
経世済民。😑