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小説 ふじはらの物語り Ⅰ 《侍従と女官》 41 原本

お上は、今回のお遊びのために、梅壺御殿、すなわち、凝華舎(ぎょうかしゃ)にまでお渡りである。

お供は、平侍従と家春であった。

どういうわけであろうか、家春にとり、これが尚侍を知る初めての機会であった。

さしもの寵姫(ちょうき)である尚侍について興味を覚えない者がこの宮中に居るべくもない。

家春は、そのお方について大変気になっていた。



皇太后様が尚侍らに対し藤壺以北への住まい更(がえ)をお命じになった当初、その落ち着き先としては「皆」の念頭に梅壺御殿が上(のぼ)っていた。

そこはかつて前中宮のお子さま方がお暮らしであった場所である。

当然のことながら、尚侍は、お住まいとして雷鳴(かんなり)の壺*、すなわち、襲芳舎(しほうしゃ)に落ち着くことを皇太后様に願い出られたわけであった。

*梅壺御殿よりも北奥、内裏の西北の隅に位置する。


これらの流れは予め「皆」が心得ていたものであり、これを経ずに物事が進展しないと目されていたところでもあった。



お上が後宮に尚侍をお訪ねになる際、“雷鳴の壺にまで”というのは体裁が悪いというので、その折りは梅壺御殿が用いられたのであった。



弘徽殿の女御は、大納言の娘、しかも、しがない家からの養女が更衣から尚侍となり、かてて加えて、その住居を雷鳴の壺に構えるに至り甚(はなは)だお怒りである。

ただでさえ、こうであるのに、弘徽殿と塀を一つ隔てた凝華舎でお上とあの女らが何やら楽しげにうち興じているのかと思うだに、ますます怒りが増幅してくるのである。

その思いは尚侍方も重々承知しており、藤内侍はじめ女房衆は、つとめて梅壺及び藤壺の東側の廂(ひさし)、そして、お廊下になど、よほどでなければ立ち入るまいと心がけていたものである。

そして、お上と尚侍らの凝華舎におけるご学問やお遊びは、専ら日の当たる西のお部屋で行われていた。

経世済民。😑