見出し画像

【短編小説】بقلاوة―カリフと宰相―

1 退屈な国政会議

 太陽が金色にまぶしい極暑のある日。
 国土の大半が砂漠であるアズラク帝国の夏は毎年灼熱の天候で、宮殿のある都も例外ではない。

 午前中でもうすでにじりじりと暑い広間の玉座に腰掛けて、帝国の第十四代目のカリフであるムフタールは目の前で行われている国政会議を眺めていた。

 正方形の部屋には大臣や書記官などの国家の中枢を担う者たちが集まっており、星と正六角形の文様で彩られた壁に沿って置かれた椅子にそれぞれ腰を下ろしている。彼らは外交や交易など様々な問題について話し合い、政治を進めた。

(暑くて、疲れた……)

 熱気で意識がまとまらない中、汗がムフタールの額を流れていく。
 大柄なムフタールが着ても裾の余るぶかぶかの長衣に大きく重いターバンを被ったカリフの正装は、風通しの良い布地で仕立てられてはいても肩が凝った。

 十七歳という年齢に起因する未熟さを差し引いてもあまり優秀な君主ではないムフタールにとって、学識のある臣下たちの話し合いは小難しく退屈なものだった。

 しかし他にすることもないので、聞いてもそうたいして意味が分かるわけでもないのだが、会議の内容に耳を傾ける。
 どうやらちょうどある議題が一段落したところのようで、ムフタールの最も近くの席にいる若き宰相のサレハが新しい羊皮紙を片手に話を切り出していた。

「では次の議題に入ります。ハサン大臣」
「陛下の忠実な下僕ハサンが奏上いたします」

 サレハに命じられた大臣のハサンが、形式上はムフタールの方を向いて語り出す。

 玉座のひじ置きに頬杖をついて、ムフタールはハサンの話を聞いた。

 長々と詳細であるために所々理解できない個所もあったが、ムフタールが把握できた範囲で話をまとめると、どうやら西部の沿岸地帯であるイレクス地方で異民族であるザキ人の反乱が起きているようだった。

 薄茶の服を着た初老の大臣ハサンは、恭しく報告を続けた。

「反乱軍は亡きファーイズ王子の遺児を真の指導者と称し、人心を集めています」

 王子ファーイズはムフタールの腹違いの兄の一人であり、生母はザキ人という出自であるはずだった。もう死んですっかり過去の人になってしまったと思っていたので、ムフタールはその名前が出てきたことを少し意外に思った。が、特にそれ以上の感情は生まれない。

「現在は都督が指揮を執って対処しておりますが、いかがいたしましょうか」

 ハサンが質問の形で話をまとめると、宰相のサレハが結論を下す。

「ヘイダル将軍を司令官にして軍を率いらせて鎮圧に向かわせましょう。陛下もそれでよろしいですよね?」
「ああ。サレハの言う通りに」

 静かに響くサレハの声に尋ねられたムフタールは、いつもと同じように賛同した。ムフタールには政治はわからないが、サレハの決めたことなら間違いはないはずだからだ。

「ありがたき幸せでございます」

 会議の出席者の一人であったヘイダル将軍が、与えられた役職と任務に感謝の言葉を述べた。

「必ず反逆者《ハーイン》とその仲間の脅威を取り除いてから戻るように。では……」

 サレハがムフタールの代わりに、ヘイダルに命じる。

 そして議題は次のものへと移り、ムフタールは暑さで次第に再び会議への集中力を失っていった。

(早く昼食の時間にならないだろうか)

 サレハに会議を任せきりにしながら、ムフタールは会議の後に待っている昼食について考えた。

 議題一つ理解できないムフタールが帝国の全土を統治するカリフに即位したのは、ちょうど半年前のことである。

 先代のカリフであるサッタール王はすべての親征において勝利した歴代でも最も輝かしい業績を持った人物であると同時に非常に好色家で、多数の側女を持ち大勢の王子を産ませていた。
 ムフタールはその数多くの王子の中の出来の悪い末子として身分の低い母から生まれ、文武に優れた同腹の兄の影で何も期待されることなく育った。

 サッタール王は何人もの大臣を輩出した名門ヤフヤー家を皆殺しにするなどして、カリフに権力を集中させた。
 その反動でサッタールが死んだ後の跡目争いは激しいものとなり、ムフタールの兄たちはカリフの位を巡って殺し合った。彼らはそれぞれ母親の出自である土地の勢力を味方につけて優位に立とうとしたため、内紛は国中に広がり国土は戦乱により荒れ果てた。

 そして気づいてみると、最後に残ったのはどの兄よりも知性で劣り政治の才能を持たないムフタールだった。優秀な王子同士が兄弟で争った結果、誰からも忘れ去られた存在であったムフタールだけが生き残ってしまったのである。

(俺は馬鹿でカリフに向いていない。でもサレハがいるから、こうやって会議中も昼食のことを考えていられる)

 王の次に上等な宰相の長衣を着て会議を取りまとめるサレハの才知のある横顔を見ながら、ムフタールは人の向き不向きについて考えた。

 政務中はターバンでまとめられているがサレハの髪は非常に美しい金色で、顔立ちは大理石を彫ったように白く整っている。
 その月のように輝く美貌と凛として目を惹く立ち振る舞いは、もしも女性に生まれていたら必ず王の寵妃になっていたと思われるほどだ。

 幼いころからのムフタールの教育係だったサレハは、ムフタールがカリフに即位したことにより二十代半ばで帝国の宰相になった。幸いなことにサレハは、美しさだけではなく宰相を務める上で十分な賢さも持っていた。

 ムフタールは父王や兄たちから愚かで政治には向かないと言われ続けてきた。しかしサレハさえ側にいれば、自分がカリフであっても問題ないのだと、ムフタールは信じていた。

2 会議後の昼食

 正午になると会議は終わり、やっと食事の時間になった。

 椅子や机が広間から片付けられた後に座布団や脚の低い円卓が用意され、大臣や書記官はそれぞれの定席に坐る。
 ムフタールとサレハの前には一つずつの小卓が置かれ、その他の出席者は何人かずつに分かれて円卓を囲んだ。

 席の準備が整うと、白地の服を着た給仕人は一品ずつ料理を運んだ。
 献立は薄焼きのピタパンに羊肉と茄子の炒め煮、米と扁豆のスープ、そら豆のオリーブオイル和えというもので、各品ごとに立派な陶器の皿に載せられて、円卓の上の木製の大きな盆に置かれた。

 待ち望んだ昼食を心置きなく食べるために、ムフタールは隣に坐っているサレハに午後の予定について尋ねた。

「昼食のあとはもう俺、いなくてもいいんだよな」
「はい。あとは我々で書類を作成するだけですから」
「わかった。じゃあ、後はもう任せた」

 あぐらをかいた膝の上に白布を広げながら、サレハは答える。

 後も何もずっとサレハにすべてを任せっぱなしであるのだが、ムフタールは態度だけは君主らしく振る舞った。

「はい、承知しております」

 サレハは出会ったときから変わることのない丁寧な物腰で頷いた。サレハのこうした返事を、ムフタールは数えきれないほど聞いてきた。

(それじゃあ俺はじっくりと、食事の時間を楽しむとしよう)

 食後の予定の確認を済ませたムフタールは、政治も経済も一切忘れてピタパンを手に取る。周囲の大臣や書記官の雑談には一切耳を貸さずにパンをちぎり、ムフタールの食事が始まった。

 ムフタールはちょうどよい大きさにしたピタパンで、羊肉と茄子の炒め煮をすくって食べた。
 サフランの黄色にコリアンダーの緑が映える炒め煮はイチジクや干ブドウも入った甘めの味付けで、酢でやわらかくなった羊肉と油を吸った茄子が熱々の旨みを口の中に届ける。パンに染みた素材の味が凝縮された煮汁も、とても味わい深かった。

(甘酸っぱい羊肉もいいし、このそら豆も美味しいな)

 イチジクと干しブドウの甘みに引き立てられた羊肉の風味を堪能したムフタールは、次はそら豆のオリーブオイル和えを食べた。上質なオリーブオイルをまぶされたそら豆はほくほくと香ばしく、粗塩だけの簡素な味加減がほど良い。

 米入りのスープは、あっさりとした琥珀色のスープの中でふやけた米と扁豆がやわらかく優しい味わいだ。

 また汁物を食べるのに使っているピタパンは、水牛の乳から作られた半生のクリームとナツメヤシの蜜をつけて食べても甘くて美味しかった。

(うん。これならつまらない会議に耐えた甲斐がある)

 そうしてムフタールは礼儀上最低限に食べ残しながら、皿をほぼ空にした。

 特にそら豆は残すのが嫌になるほどに気に入ったので、サレハからも分けてもらった。サレハは成人の男にしては線が細いせいかかなり小食で、皿の上の料理はあまり減っていなかった。

 一方ムフタールは長身で体格の良いわりに体を動かすことは苦手で、一年中宮殿に引きこもって常に食べるか寝るかの生活を送っている。しかし太りにくい体質なのか、父や兄の生前も外見で馬鹿にされたことはない。

「俺の数少ない美点の一つは、肥満とは無縁で健康なことだ」

 臣下の分の食事も食べながら、ムフタールは安心して思い切り食べられることに感謝した。
 するとサレハは会議のときとは違うやわらかい声でムフタールに言った。

「陛下には他にもたくさん美点がありますよ」
「昔からそう言ってくれるのは、お前だけだけどな」

 ムフタールはサレハただ一人しか自分を評価する人間がいないことを、ただ事実として受け止める。同情や嫌味の可能性といった複雑なことを考えるには、ムフタールの思考は単純すぎた。

 そのうち他の食卓も含めてだいたいの食事が済むと、最後に甘味と飲み物が運ばれてきた。砂糖がたっぷりと入った甘い紅茶の入ったポットと共に用意されたのは、糖蜜の染みた多層の薄焼き生地で堅果を挟んだバクラヴァと言う焼き菓子だ。

 ムフタールはバクラヴァが非常に好物であるので、とても嬉しい気持ちで円卓の上に新しい皿とカップが置かれるのを見ていた。

「今日のバクラヴァには、ピスタチオが入ってるみたいだな。緑色が綺麗だ」

 じっくりとよく観察しながら、ムフタールは小さな四角に切り分けられて金属皿に並んだバクラヴァを手に取った。どんな些細な違いも見逃さないほどに、ムフタールはバクラヴァにこだわりを持っていた。

 こんがりと焼けた生地は糖蜜で艶やかに光り、胡桃やピスタチオがぎっしりと詰まった切断面はピタパンと惣菜で満腹になったはずの食欲をそそった。
 その宝石に匹敵するような美しさを十分に見つめると、ムフタールはそのまま一口で菓子を食べた。

 すると上品な甘さに焼けた生地が口の中でしっとりと崩れて、中に挟まれた胡桃やピスタチオがざくざくと香ばしい食感で舌を楽しませる。
 ムフタールは思わずにっこりと微笑んで、一番の好物の菓子を味わった。

「陛下は本当に、バクラヴァがお好きですね」

 隣で小さな金属製のカップに注がれた紅茶を飲んでいたサレハは、そうしたムフタールの様子をくすくすと笑った。その綺麗な深緑色の瞳は、ムフタールに暖かな視線を注いでいる。

「だって美味しいからな。お前は好きじゃないのか?」
「私も嫌いではないですよ」

 ムフタールが二つ目を口に放り込みながら尋ねると、サレハはムフタールとは違って品よく割って分けてバクラヴァを食べた。

「そうだよな。誰だってバクラヴァは好きに決まっているよな」

 一人で納得して、ムフタールは三つ目、四つ目のバクラヴァを食べた。いくらだって食べられそうなほど、バクラヴァは甘くて美味しかった。

 その後甘味の時間が終わると、食卓や座布団は片付けられてまた会議のための椅子や机が並べられる。

 ムフタールは政務に戻るサレハや他の臣下たちを広間に残して自分の居室に戻り、午後は昼寝と双六《ナルド》をして過ごした。
 カリフが食べて寝て遊戯に生きても国が治まる仕組みが、このアズラク帝国にはあるはずだった。

3 カリフと宰相

 ムフタールは夜にはまた豪勢な夕食を食べ、さらに今日は食後もサレハを楼閣の部屋に招き、バルコニーに組木細工の椅子や小卓を出して飲み物や菓子を用意し休んだ。
 卓の上の器や皿にはザクロにデーツ、そしてもちろんバクラヴァが並ぶ。

「この夜の都の眺めは、いつ見ても壮観だよな」

 アラベスクの意匠が彫り込まれた白亜の手すりの向こうに広がる都の月夜を眺めながら、ムフタールはバクラヴァをかじった。それは香辛料がふんだんに堅果にまぶされており、昼に食べたものよりも甘さが控えめの味だった。

「そうですね。まさに平安の都という呼び名がふさわしい美しさです」

 やわらかな藍色の室内着を着て近くに座るサレハが、瞳に夜の色を美しく映して頷く。ごく私的な時間であるので、二人ともターバンを外してくつろいだ服装をしていた。

 アズラク帝国の都であるザバルガドは焼き煉瓦造りの白い円形都市で、四つの門と三重の城壁を持った円城である宮殿を中心に、商人や職人たちが暮らす居住区や市場が広がっている。
 満月のほのかに明るい夜空の下で規則正しく立ち並ぶ建物が白く照らされている眼下の様子は、幾何学文様のように綺麗だ。

「まあ、俺の知るものの中で一番美しいのはお前なんだが」

 ムフタールは都の眺望から目を離すとバクラヴァを持っていない方の手をのばし、すぐ側にいるサレハの金髪をさらりと撫でた。王族の一人として砂漠の民の血を濃く受け継いでいるムフタールと違って、サレハは髪も肌の色も明るかった。

 するとサレハは宝玉が転がるようにするりとムフタールの手から逃れて、間に線を引くように笑みを浮かべた。

「御冗談を。私は元はただの卑しい奴隷ですよ」
「だがお前は優秀だから身分を開放されて、今は自由の身なんだろう?」

 黒い巻き毛と褐色の肌を持つ自分とは逆のサレハの真白な美貌を見つめて、ムフタールは言った。

 サレハが奴隷として売り買いされ、人の所有物だった時期があることは皆が知るところである。
 しかし聖法による平等を重視するアズラク帝国では奴隷もすべての権利が制限されるわけではなく、また奴隷を自由の身にすることは主人の徳を高める行為であるとされている。
 そのためサレハのように世の中で活躍できる才能があれば、奴隷でも身分を開放されて自由人として生きることが可能だった。

「ありがたいことに、その通りです。ですがどんな立場を与えられたとしても、生まれそのものは変えられませんから」

 王族としては不自由でも奴隷としての不自由は知らないムフタールの眼差しに、サレハは控えめな態度で答える。
 ムフタールは今度はバクラヴァではなく、デーツを一粒食べて尋ねた。

「生まれそのもの、か。そういえば俺は、お前が昔は奴隷だったということ以外は知らない気がするな。お前はどんな子供で、どこから来たんだ?」

 当時もうすでに自由人となっていたサレハと出会ったのは、まだ父サッタール王が立派にすべてを支配し、兄たちも多少は友好を保っていたころのことである。

 それからムフタールは背が伸びて一応は大人になったが、サレハは美しいまま変わっていない。
 昔からずっと同じように側にいたので特に気にしていなかったが、ムフタールはカリフとして半年共に過ごしてやっとサレハにも自分と同じように子供時代があったであろうことに思い至った。

 そうした唐突な興味によるムフタールの問いに対して、サレハはごく短い言葉で身の上を淡々で説明した。

「ご期待されても、別に普通ですよ。私は成功を収めたものの他人の恨みを買って処刑された罪人の子です。しかし今の養父の家に奴隷として購入された後に教育していただき、小姓として宮殿に上がって働くことを許されました。その先のことは、陛下もご存じの通りです」

 サレハはとてもつまらないもののように、自分の半生について語る。

 だがムフタールの耳には、サレハの歩んできた人生の話はとても面白いものに響いた。もしかすると同情したり痛ましく思ったりするのが正しい反応なのかもしれないが、ムフタールはどちらかというと自分の臣下の波乱万丈な経歴にわくわくする。

「賢さと美しさを武器に奴隷から宰相になるなんてそれだけでお伽話のようだと思っていたが、生まれもまるで物語みたいだな」
「こんな生い立ち、ありふれた話だと思いますけどね」

 学問についての書物を読むのはは苦手だがお伽話を聞くのは好きなムフタールは、素直に瞳を輝かせた。

 そんなムフタールの反応に苦笑し、サレハは首を横に振って目を伏せる。
 しかし本人が否定してもなお、ムフタールはサレハは特別だと信じて言った。

「それならありふれたお伽話の忠臣みたいに、お前はこれからもずっと俺を守ってくれるか?」

 ただ馬鹿な末子として生きるならまた話は違ったであろうが、ムフタールがカリフであり続けるためにはサレハは絶対に欠かせない存在である。
 だがそうした必要性以上に、ムフタールは美しく優れたサレハが自分の臣下であることが誇らしかった。

「それは、そうですね。きっとご希望に応えてみせますよ」

 軽薄に信頼を寄せる主君の言葉に、サレハはひどく優しげな表情で微笑んだ。何よりも美しいサレハの深緑色の瞳は、いつもムフタールの心に深く残る。

 頭の悪いムフタールには、サレハが実際に考えていることのすべてを理解することはできない。
 しかしそれでもサレハが自分の頼みを承諾したことに満足して頷き、ムフタールはまたもう一つバクラヴァを掴んだ。

 砂漠の国の夜の冷えた空気は暑がりのムフタールには心地良く、またサレハの美貌は太陽の光よりも月や星の明かりの方が似合っていた。

4 変わらない日々

 それから雨季と乾季が何度か繰り返されて、気付けばいつの間にかもうムフタールがカリフになって七度目の夏になった。

(暑くて、眠い……)

 国政会議が開かれているその中で、ムフタールは即位したばかりのころとは変わらず、暑さに頭をぼんやりさせながら玉座に座っていた。
 装束も心構えもそのままで、ただ年を重ねたことだけが事実としてある変化だ。

「では次の議題に入ります。アリー大臣」

 同様に変わらない役割を果たし続ける宰相のサレハが、能なしの君主であるムフタールの代わりに会議を進める。
 最近大臣の一人に加わった若年のアリーは、不安げに俯いて話し始めた。

「陛下の忠実な下僕アリーが奏上いたします。ラーメ人の首領が率いる教団が、勢力を急速に伸ばしています……」

 ムフタールが流し聞いたところ、アリーの報告は異端の教えを広める教団についてのようだった。元々あまり良い話題がない会議だが、ここ数カ月は特にきな臭い話しかない。

 諸々の話を聞いていると、どうやらこの帝国にはムフタールが生まれるずっと前からすでにいくつかの問題があるようだった。

 王朝を打ち立てた砂漠の民であるハキーカ人と滅んだ大国の民であるラーメ人の対立は建国当時から尾を引くもので、その他の異民族の反乱も始まりを辿ったところでムフタールには理解できないほどきりがない。
 またさらに父王サッタールが栄光ある治世の中でたびたび行っていた臣下たちの粛清により、広い国土を治めるための人材が不足しているようでもあった。

(どうせ結局の原因も解決する方法も全部俺にはわからないんだから、考えるだけ無駄だけどな)

 ムフタールはあくびを堪えて、神妙に話を聞いている体で目を閉じた。
 ふりをしたところですでにムフタールが傀儡であることは周知の事実であるが、せめて建前を維持する努力だけはする。

 そうこうしていると、サレハの凛とした声がムフタールを呼んだ。

「陛下、それでよろしいですね?」

 優雅に羊皮紙を手に持ち、サレハはムフタールの方を見ている。
 ムフタールは自分が何の確認をされているのか話の流れを掴んでいなかったが、サレハに任せていれば間違いはないはずだと頷いた。

「ああ。サレハの言う通りに」

 何であれ答えは一つであるので、ムフタールは問いを知る必要もなかった。

5 娯楽とご馳走

 会議が終わった後、ムフタールはやはり食べて寝て遊んで過ごした。
 最近は双六《ナルド》だけではなく将棋《シャトランジ》もよくするが、特に強いわけでもなく成長はない。

(今日の大宴会は、どんな料理がでるんだろうか)

 遊戯を終えた夕方、ムフタールは小姓に服の準備をさせながら夕食について考えた。今日は週に一度の大宴会が開かれる日であり、普段以上のご馳走が食べられるはずであった。

 ムフタールは金襴の布地でゆったりとした仕立てられた前開きの上着を方形の帯で締めて、裾を細く絞った脚衣を履き、羽飾りのついたターバンを被って国政会議の時とは違う華やかな出で立ちになった。
 食べることに比べると着飾ることはそう好きではないが、嫌いということもない。

 身支度を終えたムフタールは、衣裳部屋から宴会が行われる大広間へと移動した。

 円形で広々とした造りの大広間は各国の使節をもてなす際にも使われる格式の高い部屋で、巨大なドーム状の天井は金箔や銀箔で螺旋状の蔓草が描かれた黒曜石のモザイク装飾が一面に施されている。
 燭台の光がモザイクに反射し昼間以上に明るく照らす光景は、この宮殿の中でも指折りで良い眺めである。

 布張りの台座の上に円卓が置かれる形でいくつも設えられた席には高官たちが坐ってくつろいでおり、隅では赤いショールを羽織った女奴隷がウードを弾いている。

 ムフタールが上座の自分の席へと向かうと、その横にはもうすでにサレハが坐っていた。
 銀糸で縁取られた紫色の長衣で装いを凝らしたサレハは、男の官吏であるとは思えないほどに美しかった。

「陛下。午後も楽しくお過ごしでしたか」

 澄んだ声で呼び掛けて、サレハがムフタールを迎える。

「ああ、今日は一勝三敗一引き分けだ。もう少しで二勝できるところだったぞ」

 ムフタールは気分よく腰を下ろし、将棋《シャトランジ》の成績について語った。すぐに負けることが多いムフタールには、一勝ですでにそれなりの成果だ。

「充実していたようで何よりです。私もいくつかの書類を片付けることができました」

 上機嫌な主君の様子に、サレハも微笑み返して政務の進捗について述べる。

「それならお前も今日は、気兼ねなく食べて飲むことができるな」
「はい。楽しみです」

 臣下の仕事内容は一切気にせず、ムフタールはただ食事をする気分だけについて考えた。
 サレハもまた、それ以上のことは言わなかった。

 そのうちに、給仕人が料理を運んできた。
 瑠璃や彩陶の食器に色とりどりに載っているのは、鱈のココナッツ・ソースがけや、子牛肉とマッシュルームのパイなどの、非常に贅を凝らした品々だ。

「では、頂きましょうか」

 濃厚に香る葡萄酒の入った硝子細工のグラスを手に、サレハがムフタールに微笑みかける。

「ああ」

 ムフタールもグラスを持ってサレハの言葉に応え、そのまま飲み干した。
 葡萄酒はとろりと甘い赤色で、飲むと気持ちが良くなった。アズラク帝国では表向きは飲酒が禁止されてるため、背徳感がより美味さを引き立てる。

(さて……こんなにいろいろ料理があると、どれから食べようか迷うな)

 ムフタールは目の前に並んだ皿を見回して、食べる順番について考えた。

 その結果めでたく一皿目に決まったのが、ひよこ豆とにんにくのスープである。
 花弁を模した装飾に縁取られた金属器に注がれたスープは淡い乳白色で、真ん中には香草の葉が二枚ほど浮かべられていた。

 そのなめらかにすりつぶされたピュレをちぎったピタパンですくって食べると、それはひよこ豆のほのかな甘味とにんにくの香りの強い刺激がレモンでさっぱりとまとめられた一品だった。さらりとしていながらも食べごたえのある、豆のほど良い重みが心地良い。

(これはすごく俺の好みの味のスープだ。が、他の料理もまだたくさんあるからな)

 ムフタールはくり返しパンをひたしてしまいそうになるのをぐっと堪えて、次はほうれん草と玉ねぎの和え混ぜを食べた。
 これは茹でたほうれん草と細かくとすりおろした玉ねぎをヨーグルトで混ぜ合わせたもので、チーズに近い味わいの塩気のあるヨーグルトが案外葡萄酒と良く合った。

 またこんもりと皿に盛られた一口大のパイは焼きたてで香ばしく、さくさくした生地の中には子牛の肉とマッシュルームを角切りにした具が肉汁たっぷりに詰まっている。

 青磁の器に白身が映える蒸した鱈は、ココナッツミルクを使った濃厚なソースが身に絡み、粗挽きの黒胡椒がアクセントになっていて美味しかった。
 ピタパンで鱈のソースを熱心にかき集めて、ムフタールはその味の良さに感動する。

「この魚のたれ、めちゃめちゃ旨いな」
「そうですね。濃すぎず薄すぎず、よい塩梅です」

 サレハは控えめに白身を口にしながら、同意した。
 大食のムフタールに比べるとやはり食べる量は少ないが、それでもサレハはサレハで楽しんでいるようであった。

(あとまだ食べていないのは、この鶏料理だけだな)

 あらかた手を付けた皿を満足して眺めた後、ムフタールは赤い宝石のようなザクロの粒が散りばめられた鶏の煮込み料理を取り皿に載せた。

 藍色の縁取りが目に鮮やかな彩陶に盛られた鶏肉はこってりとした茶色のペーストで煮込まれたもので、香辛料の良い匂いがしていた。
 熱々とまではいかないもののまだほんのりと温かい鶏肉をよそうと、空腹ではないはずなのに食欲がわいてくる気がする。

 そしてムフタールは器用に手で肉片をちぎり、煮込み料理を一口食べた。

(ん、旨い)

 想像していた通りの美味しさに、ムフタールは一人で頷いた。

 深い甘みのあるザクロのソースと細かく砕かれた胡桃でできたペーストの染み込んだ鶏肉はほろほろとやわらかく、素材の良さが一つに溶け合い凝縮している。新鮮なザクロの実と大きめに刻まれた胡桃が彩りよく載っているのも、味や食感に変化を与えていた。
 香辛料で辛めに仕上げられた味付けは、隣に添えられたバターと卵黄をまぶされた蒸し飯と食べても美味しかった。

(あと葡萄酒にもよく合うな)

 ムフタールはグラスに注がれた葡萄酒を飲むと、一息ついてまた鶏肉を取り皿に盛った。

 ふと目を上げると、蝋燭がいくつか消えて暗くなった室内には歌い手の女奴隷も現れ、高官たちの耳を楽しませていた。

 しかしムフタールは特に聞こえてくる歌には注意を払わず、料理を食べ続けた。

6 フィロ生地の焼き菓子

 やがて宴会も終わりに近づき料理に手を付けている者も減ったころ、給仕人が最後の甘味を運んできた。

 ムフタールはまだ鱈を食べていたが、サレハが歩いてくる給仕人の手元を見ながら言った。

「あと陛下のお好きなバクラヴァで終わりですね。残念ながら陛下はもう、お召し上がりにはなれないでしょうけど」
「いや、大丈夫だ。バクラヴァならあと三、四個は軽く食べられる」

 冷めても美味しい鱈の白身を頬張って飲み込み、ムフタールは自信を持って答える。

 そしてやって来た若い給仕人が慎み深く跪いてバクラヴァが載った皿を円卓に置くのを、ムフタールは期待に満ちた目で見つめる。
 今夜のバクラヴァはシロップが少なめのパイに近いもので、焼き色も香りもとても美味しそうだった。

 しかしそのとき、皿から手を離した給仕人の手元で何かがきらめいた。

「国を荒廃させた、暗君に死を!」

 若い男の給仕人は、そう言ってムフタールの胸に短剣を深々と突き立て引き抜き、また刺した。
 時が止まったような一瞬の後、ムフタールの着ていた金襴の衣が血に染まっていく。

 ムフタールは何が起きているのか理解できないまま、衛兵が慌てて駆け寄って給仕人を捕らえるのをただ呆然として見ていた。

 ハキーカ人か、ラーメ人か、それともまた違う異民族か。

 猿轡をかまされ言葉を奪われた給仕人の、生まれや思想はわからない。しかし彼は深い憎しみに満ちた表情で、ムフタールを殺す理由を語っていた。

(サレハに任せれば大丈夫だと思ってたけど、そうでもなかったんだな)

 国を治めるには決定的に頭が足りなかったムフタールは、殺されることになるその日になってやっと、自分が知らないところで暗君として恨まれていたことに気付かされた。

 胸を二度も刺されたのだから、傷はかなり痛かった。
 しかしその痛みはどこか現実感のない遠い出来事のようで、それがかえって確かな死を感じさせる。

 致命傷を負ったムフタールがふらついて倒れると、サレハがその短剣が刺さったままの体を抱き止めた。
 ムフタールは目を開けたまま、自分を覗き込むサレハの月のように美しい顔を見つめた。

 薄暗くなってきた視界の中にただ一人いるサレハの表情は、いつもと変わらず静かで穏やかなものだった。

 主君が刺されたのにも関わらず慌てず悲しんでもいないサレハの反応は、いくら冷静で賢い男だとしてもおかしいとムフタールは思う。
 しかしそれでも不思議と裏切られたとか、見放されたとか、そういった感情は生まれなかった。

「俺はこのまま死ぬのか?」
「そうです。貴方はここで死にます」

 ムフタールのかすれ声の質問に、サレハがはっきりと答える。

 突然の凶行に辺りは騒然としているようだが、サレハの腕の中のムフタールには遠い喧騒としてしかわからなかった。
 大柄なはずのムフタールも、今は華奢なサレハに子供のように抱かれている。血を失った体は重く冷たくなって、まるで自分のものではないようだ。

 しかしサレハの落ち着いた深緑色の瞳が綺麗に見つめるので、ムフタールは妙に安心した気持ちでまた尋ねた。

「それでも、問題はないんだな?」

 するとサレハはゆっくりと頷き、今までもときどき聞かせてくれていたようなひどく優しい声でささやいた。

「はい。私が貴方の名前で命じて行った圧政により、この国はもう崩壊寸前です。今後再び始まる空の玉座を巡る争いの中で、この国は滅び去ることでしょう」

 サレハはムフタールの顔にそっと手を近づけて、大切そうに頬を撫でた。
 どうやらムフタールがわかっているつもりでいたよりもずっと、サレハの考えは複雑なようだった。

「それが貴方の父サッタールの偉大な統治によって父を処刑され、すべてを奪われながらも奴隷として生き延びた、ヤフヤー家の長子の私の復讐です」

 恋の詩を詠むように甘く饒舌に、サレハはムフタールの知らない物語の結末を語る。

 それは出来の悪いムフタールには理解するのが困難で、死にかけた頭にはなかなか内容が入ってこなかった。
 だがムフタールはその冷たくなった頬に触れる手の温かさを信じて、たどたどしく微笑み返した。

「お前の言うことは、難しくて何を言っているのかわからない。でもお前は賢いから、きっとそれは間違いじゃないんだろうな」

 消え入りそうな声で紡ぐ最後の信頼が、サレハに聞こえたかどうかはわからない。
 サレハはどうも、ムフタールが思い描いていたような人物とは少し違った。

 しかし彼が思い通りの人物であったとしても、それでムフタールの人生がもっと良くなるものでもないだろうとも思う。
 何にせよ望んだものが手に入らないまま死んでいった兄たちに比べればずっと、サレハがいたムフタールの一生は楽しかったはずなのだ。

 ムフタールの想いが届いたからなのか否か、サレハはほんの少しだけ切なげな表情になって、また口を開いた。

「いくら劣って誰にも顧みられない存在だったとはいえ貴方は王子の一人でしたから、私が即位させなければ内紛でもっと惨めに殺されていたはずです。これから私が貴方を非業の死を遂げたカリフとして丁重に葬りますから、それで貴方を守るという約束は果たしたことにしてもいいでしょうか?」

 やはりややこしくて結局何を言われているのかわからなかったが、どうやらサレハはムフタールに許可を求めているらしかった。
 優秀な宰相のサレハに良いか悪いか尋ねられたら、無能なカリフのムフタールが出す答えは一つしかない。

「ああ、サレハの言う通りに」

 ムフタールは喉に込み上げてくる血を飲み込み、これまで何千回と言ってきたその言葉を死ぬ間際にも言った。
 最後の最後はちゃんと伝わったらしく、サレハはゆっくりと頷いてムフタールの胸に刺さったままの短剣の柄を握った。それが引き抜かれた先におそらく、本当の別れがある。

 ムフタールは何も言わずに美しく微笑むサレハの顔をじっくりと見納めてから目を閉じ、自分の人生の終わりも全部サレハに任せた。
 すべてのことは、サレハの言う通りにすれば間違いないはずである。

 最後は恨まれて殺されることになったが、賢いサレハのおかげでムフタールは兄たちが殺し合う中カリフとして生き延び、美味しいものを食べて毎日を過ごせた。
 だから暗君として終わる自分の人生に悔いはなく、概ねのことは納得している。

 しかしムフタールには、ただ一つだけ心残りがあった。
 それは暗殺者に運ばれたまま誰も手をつけずに卓に置かれているであろう、胡桃やアーモンドを挟んでこんがりと焼けたバクラヴァのことである。

(できればあとはあのバクラヴァを、一つか二つは食べたかった。殺しに来てくれるのがあともう少し遅ければ、思い残すことなく死ねたのに)

 ムフタールはサレハがとどめを刺す瞬間を待ちながら、一番の好物である菓子のバクラヴァのことを考えた。
 確実な死を前にしても、その美味しさは諦めがたかった。

 ムフタールにとっては、国の行く末や民の幸福などのよくわからないものよりもずっと、バクラヴァの方が大事である。
 最後に目に焼き付けたサレハの微笑みは美しかったが、食べ損なったバクラヴァの代わりにはなりそうにない。

(せめて、一口……)

 それがアズラク帝国の最後のカリフとなるムフタールが、最後に願った言葉であった。



↓次章

↓各章目次

この記事が参加している募集

#スキしてみて

527,285件

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

記事を読んでくださり、誠にありがとうございます。 もし良かったらスキやフォロー、コメントをよろしくお願いいたします。 また下記のサイトに小説投稿サイトに掲載中の作品をまとめていますので、こちらもぜひ。 https://nsgtnbs.wixstudio.io/nsgt