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【短編小説】Pain de seigl―囚人の王女と牢番の少年―

1 馬車と新天地

 秋が深まり色付く森の中、一台の馬車と護衛の兵士が乗った数頭の馬が走る。

 道は二台の馬車がやっとすれ違えるくらいの広さに踏み固められた古い街道で、馬車は二頭立ての立派な箱型だ。

 その金細工で紋章の装飾が施された車体の中で、侍女が窓の外を覗いてはため息をつくのを、王女アデールは見ていた。

 宝石で飾ってまとめた銀色の髪、そして繊細な幼さが残る顔立ちに水色の大きな瞳が印象的なアデールは十三歳で、ひたすらに走る馬車の中では他にすることがない。
 長いレースで袖口を飾ったガウンと、ゆったりとしたフレアスカートを幅広のベルトで締めた青い絹のドレスを身体にまとい、アデールはただ黙って振動に揺られていた。

「姫様を捨てた挙句、こんな都から遠く離れた貧しい田舎の年寄り領主に嫁がせるなんて、陛下は本当に冷たい方です」

 アデールの侍女であり乳母子でもあるノエラは、憎々しげにつぶやいた。
 その視線は小さな窓の向こうに広がる椎の木の森に注がれていた。

 日の傾いた空は赤く、陽光は二人の座る車内をまぶしい光で満たす。

「ノエラはことあるごとに陛下の悪口を言いますね。私は別に都に心残りはありませんが」

 アデールははっきりと意見を言い過ぎる侍女を嗜めて、窓の外の一見穏やかな森の風景を眺めた。

 確かに道行く途中で見た農村は荒廃しており、ノエラの言う通り都から離れれば離れるほど人の暮らしが貧しくなっているのも事実である。
 だが風に揺れて茂る見知らぬ森も、人々の思惑が絡まり合う生まれ育った城も、今のアデールには安らげないという点ではどちらも同じだ。

 しかしノエラは聞く耳を持たず、黙っていれば可愛らしいはずの顔をしかめて恨み言を続ける。

「いいえ、姫様。亡き先々代の国王陛下がお父上である由緒正しいお生まれの姫様には、この辺境はふさわしくありません。陛下が何とおっしゃろうとも、姫様は王妃の座を諦めになるべきではなかったのです」
「ですが王国の平和のためには、和睦の証として陛下が講和条約を結ぶ国の姫君を奥方に迎える必要がありました」

 アデールは淡々と、自分が幼いころに結ばれた婚約が解消され、辺境の地に嫁ぐことになった理由をノエラに言い含めた。

 亡きアデールの父テオフィルは、この王国の国王だった。

 テオフィルにはアデールの他に遺児がいなかったので、彼が没した後は王弟トゥーサンが王位に就き、その息子であるシルヴァンがアデールの許婚となった。
 それは国の都合で結ばれた婚約ではあったが、アデールは十歳年の離れた従兄弟のシルヴァンを兄のように慕い、シルヴァンはアデールを妹のように愛してくれた。

 しかしトゥーサンが没し、シルヴァンが新たな王として即位すると状況は変わった。王国は長年隣国と領土をめぐる戦争を続けていたが、隣国でも王が崩御したことがきっかけで和平交渉が進んだ。
 その結果成立した和睦の条件として、若き王であるシルヴァンは隣国の姫を王妃に迎えることになった。

 そうしてシルヴァンとアデールの間に結ばれていた婚約は解消され、存在を持て余されたアデールは辺境の老領主マルトノに嫁ぐことになった。
 アデールが子孫を残せば、将来王位争いを招く可能性がある。だから子を成すこともなく、何も残さずに政治の邪魔にならないよう一生を田舎で終えるのがこれからのアデールの役目だった。

 この事情は幾度となく説明してきたので、ノエラも頭では理解しているはずである。
 しかしノエラはすべてを受け入れたアデールの代わりに腹を立ててくれているらしく、アデールの処遇に対して憤った。

「政略も大事ですが、そのために姫様が犠牲になるのは間違っています。姫様はもっと陛下に対してお怒りになるべきです」

 ノエラはアデールに、感情的になることを強いる。
 だがアデールはノエラと同じようには、国王として婚約の解消を決めたシルヴァンを憎めなかった。

「私は別に、陛下に裏切られたとは思っていませんから……」

 小さく肩を落として、アデールは俯いた。

 シルヴァンが一国の主として責任のある選択をしなければならないことは、年少のアデールにもわかっているつもりだった。アデールの知っているシルヴァンは心優しい思い遣りのある青年であるので、きっとアデールのことを蔑ろにしたかったわけではないはずである。
 それゆえにアデールは、シルヴァンが自分以外の人間と結婚してしまうことそのものには、怒りも悲しみも感じなかった。

(だけどだからこそ、私のことでシルヴァンが後ろめたさを感じているでしょうことが、私は悲しいですが)

 アデールは塞いだ気持ちで、じっと馬車の板張りの床を見つめた。
 都を旅立つアデールを見送るシルヴァンの笑顔は昔と同じように優しかったが、瞳は暗く翳っていた。そのときのシルヴァンの想いを考えれば考えるほど、アデールの心は苦しくなる。

 そんな思考にアデールが囚われ続けていると、走っていた馬車が急に停止した。

 まだ街道の途中であるので、アデールは不思議に思って窓の外を覗いた。すると向かっていた領主マルトノの城がある方角の空に、煙が立ち昇っているのが見えた。

 また人の怒鳴り声も、すぐ近くから聞こえてくる。

「どうかしたのでしょうか」
「わかりません。外の様子を見てみます」

 アデールが何か悪い予感を感じながらつぶやくと、ノエラが馬車の扉を開けた。

 しかしノエラが外を見ようと身を乗り出した瞬間、一本の矢がノエラの深緑色のローブを着た胸を射抜いた。

 突然の攻撃を受けたノエラは、直前の不安げな表情が張り付いた顔のまま車外の地面へと倒れた。

「ノエラ……?」

 落ちていくノエラの身体を追うようにして、アデールは馬車の外に出た。

 そうしてアデールの視界に入ってきたのは、夕刻の真っ赤な光の中で街道の森に立ちはだかっている暴徒たちだった。
 その光景を見て、アデールは馬車が止まった理由を理解した。

(これは、農民たちの蜂起……)

 何十人、いや何百人かもしれない城や都の住民とは違う貧しく汚れた身なりの農民たちが、鍬などの農具や狩猟用の弓などで武装し支配者であるアデールたちのいる方へと押し寄せている。
 彼らの表情は正気を失っており、その向けられた怒りや憎しみの感情のあまりの濃さにアデールは空気が震えているかのような錯覚を覚えた。

 見たところ、もうすでに馬車の護衛の兵士は暴徒たちとの戦闘を始めていた。
 しかし戦うことを職業にしている兵士ではあっても、多勢に無勢で勝てそうには見えなかった。

「旦那たちを殺せ!」
「貴族たちを倒せ!」

 目に熱を浮かべた農民たちが、叫びながら進んでくる。

 喧騒の中で、アデールは侍女の死体の傍らで立ち尽くした。

 アデールは以前に、戦火と重税により疲弊した農民が武器を手にして貴族である領主を殺すことがあると、城の家臣たちから聞いたことがあった。
 そのときの説明によれば農民は最も貧しい最下層の民であり、他の職を持った者とは比べようもないほどみじめな存在だから反乱を起こすらしい。

 都にいるときは単なる遠い土地からの報告としてしか知らなかった農民反乱が今、アデールの目の前で起きている。アデールはその状況の意味するところは理解はできても、すぐには実感は持てなかった。

 だが自分という存在がどこにいても歓迎されないことだけは、嫌になるほどにはっきりとわかった。

2 放り込まれた牢獄

 それからしばらくの出来事は、アデールは断片的にしか覚えてない。

 護衛の兵士たちは皆殺され、ノエラの死体は切り刻まれた。
 一人生き残ったアデールは、暴徒たちに捕らえられた。残念なことにアデールは、乱暴に扱われても殺されることはなかった。

 アデールが嫁ぐはずだった領主マルトノも殺したのだと、暴徒のうちの誰かが言った。
 だが王族のお前は人質なのだとまた誰かが言って、アデールは麻袋に押し込められて運ばれた。

 そうして気付いたときには、アデールはドレスから薄汚れた粗末な衣服に着せ替えられて、月明かりに照らされた狭い石造りの牢獄に入れられていた。

(ここは、本当はノエラと来るはずだった城でしょうか)

 薄着で石の床に投げ出され仰向けに放置されたアデールは、身震いをして我に返った。

 平民の家とは思えないほどの重々しさから察するに、アデールはおそらく持ち主が殺され占領された領主の城にいるらしかった。

 牢獄は高い塔の上にあるようで、手の届かない高さに設けられた採光窓からは夜烏が飛んでいるのが見えた。
 下の階へと通じる落とし戸は頑丈な鉄格子の向こうにあり、抜け出すことは絶対にできそうになかった。

 髪飾りをむしりとられた髪は乱れてもつれ、小柄な身体に対して過剰に重くかせられた足枷がアデールから自由を奪う。
 たとえアデールが一国の王女ではなかったとしても、それはみじめな姿だった。

 秋の夜の冷え込みに凍えたアデールが這うようにして暖を取るものを探すと、部屋の隅には藁が積んであった。どうやらそれが、寝具の代わりであるらしかった。

 アデールは恐るおそる藁にもぐり込み、枕もなく再び石の床に横になった。牢獄は狭かったが、人が一人寝起きすることができるくらいの面積はあった。ごわごわとした感覚は慣れなかったが、暖かくなったことには違いはなかった。

 しかしそうした最低限のものが用意されているということは、少なくとも当面の間はアデールに死は許されていないことを意味している。

(どうか、何かの間違いでありますように……)

 今までまったく経験することがなかった突然の苛虐に、アデールは自分に降りかかった不幸を嘆くこともできないまま目を閉じて祈った。
 これが現実であるのなら、もう目覚めてしまいたくはなかった。

3 鎖に繋がれた出会い

 しかし残念なことに、アデールには翌朝がやってきた。
 アデールは肌をちくちくと傷つける藁の中で目を覚まし、ため息とともに覚醒した。

(やはり、夢で終わってはくれませんでしたか)

 アデールはのろのろと藁から抜け出て起き上がり、淡い朝の光に照らされた牢獄の中を見回した。
 改めて明るくなってから見ると牢獄は思ったほどは不衛生ではなかったが、どう好意的に見てもあまり人道的とは言えない拘束の厳しさが、蜂起した農民たちの恨みの深さを物語っていた。

(私は舌を噛んだりして死ねるほど強くはないのですが、どうしましょうか……)

 何も抵抗できそうにない状況に、アデールは途方に暮れた。
 本当に最悪の状況になればアデールにも相応の覚悟ができるというものだが、そこまで決定的なことはされていないのが生殺しのようでつらい。

 幼いころから仕えてくれた侍女のノエラの死を思い出しても、悲しいと言うよりは羨ましいと感じてしまうほどに、アデールは人質として生かされる自分の運命が怖かった。

 どうやらアデールはこれまで飢えることもなくただ与えられ着飾って生きてきた代償に、王女として王国に向けられた憎しみを引き受ける必要があるらしかった。

 アデールは今日までの十三年という短い人生の中で、農民たちに恨まれるようなことを直接した覚えはない。農民たちを突き動かす憎しみも、農民ではないので理解することはできない。
 しかし農民たちを苦しめているのがアデールをこれまで王女として生かしてきた王国の仕組みであるのなら、彼らの復讐する権利を否定することはできなかった。

 だからアデールは、農民がアデールは死ぬ必要があると思うのならそれに従うべきだと思っていた。
 だが人質である自分の存在が脅迫に使われることで誰かを悩ませるとなると、話は別である。

(捕らえて閉じ込めたということは、農民たちは私を単に殺して終わりにするつもりはないでしょうね)

 そうして自分はきっとすぐには死なせてもらえないのだと結論を出すしかなくなったころ、鉄格子の向こうで落とし戸が開く音がした。

 アデールはその物音に、小さな肩をびくりと期待と不安で震わせた。どんな形であれ一人で思い悩んでいる時間が終わるのは望ましいことだと思ったが、これから自分が耐えきれないほどの苦痛を与えられる可能性もあるにはあった。

 しかし開いた落とし戸から梯子を上ってやって来たのは、想定していた屈強な大人の男の姿とはまったく違う、アデールとそう年齢の変わらないように見える少年だった。

 険しい表情に反してまだ子供らしさのある汚れた顔は日焼けしており、また身分の低いものがよく着ているぼろぼろの毛織のチュニックを着ていることから、少年も暴徒たちと同じ農民だと思われた。

 彼は食器の乗った盆を片手に梯子を上りきって牢獄の前に立つと、憎しみのこもった目でアデールを一瞥した。

「あなたは……?」
「俺は反乱軍の一員で、あんたの牢番だ」

 アデールが少年の役割を察しながらも尋ねると、少年は予想していた通りの答えとともに鉄格子の食器口を開けて盆を牢獄内の床に置いた。

 盆の上には、黒パンと水の入ったコップが載っていた。

 黒パンは見るからに固くて不味そうだったが、アデールはもらったからには感謝するべきだと思い、お礼と自己紹介を言った。

「ありがとうございます。私はアデールです。あなたの名前は?」

 そのままアデールが名前を尋ねると、少年は仕方が無さそうに嫌々と口を開く。

「……リュドだ。礼は言うな。俺は鍵を渡されてないから、気を引いても無駄だ」

 リュドと名乗った少年は、声変わり前の高く響く声で答えた。
 牢番とは言っても任されているのは食事の運搬だけでありそうなところを見ると、年相応に下っ端なのだろう。大人びた口をきいてはいても素直に受け答える言動に、アデールは自分が恨まれていることをわかっていてもリュドに好感を抱いた。

 どうやら普通に意思疎通は可能なようだと思ったアデールは、自分の置かれた状況を理解するためにリュドに質問を重ねた。

「私は人質なんですよね。私の命は、どんな交渉に使われるんですか?」
「詳しいことは、俺は知らない。だが使者はあんたの髪飾りを持って、都の国王の元へ向かったという話だ」

 リュドは自分の知る範囲の情報を、嘘のある素振りもなく話した。おそらく要求を飲まなければアデールを殺すというのが、シルヴァンに送られた使者の言葉だろう。

 しかしこのアデールの問いについてはさらにやや意地の悪い対応が用意されていたようで、リュドはせせら笑って続けた。

「王女とは言え、あんたに人質の価値があるかどうか怪しいものだけどな。あんたはそもそも都で邪魔になってこの地に送られた女なんだから、国王もあんたを見捨てるんじゃないのか?」

 リュドは自信満々な様子で、アデールの存在を馬鹿にしてみせた。そう言って怖がらせれば、アデールが死に怯えると考えているようだった。

 だがリュドの期待とは違い、アデールが真に恐れているのは死ぬことではなかった。アデールは死ぬよりも酷い目にあうことがあると思えるほどの想像力は持ち合わせており、また何よりも怖いのは自分の生き死にが誰かの負担になることだと考えていた。
 だからアデールはリュドの皮肉にも屈することなく、毅然と言い返した。

「ここから出られなかったとしても、見捨てられたとは思いません。それは国王陛下が適切な判断を下してくださった結果だと、私は信じます」

 それは強がりではなく真実本当のことだったので、アデールは自然にはっきりとした声色で言うことができた。

 思った反応が返ってこなかったことで、リュドは不機嫌そうにアデールを見下ろして言い捨てる。

「それならそれでお望み通り、救われずに死ねるといいな」
「はい。そう願います」

 足枷の重みに座り込んではいるものの、アデールは王女らしいふるまいを心掛けて頷いた。

 リュドはそうしたアデールの返答を愚かなものとしておきたいらしく、黙って鼻で笑うとまた落とし戸にかけた梯子を下って行った。
 だがやはりアデールは、リュドの態度や言動に傷付くことはできなかった。。

(何となくリュドは元々、人を憎むのに向いてない性格のような気がします)

 リュドが立ち去り一人になったアデールは、ゆっくりと黒パンの切れ端を手に取った。

 重税に苦しむ貧しい農民の一人として、リュドが王族としてのアデールを憎んでいるのは嘘ではないはずである。だがその言動には甘さが残っており、本来の優しさが隠しきれていないように思えた。

 だからアデールは昨晩暴徒に囲まれたときに比べるとまったく、自分が本当に憎まれているのだとは思えなかった。
 それどころかリュドと接しているとむしろ、ノエラや兵士を殺した人々も全員が悪人というわけではないであろうことの方が気になってくる。

(彼が言う通り、シルヴァンが私をちゃんと見捨ててくれるならいいんですけど)

 アデールは乾いて固い黒パンを噛みしめながら、今度はリュドではなく、都にいるかつての許婚だった従兄弟のシルヴァンのことについて考えた。

 父が亡くなった後のアデールはシルヴァンの両親に引き取られた形で育ち、二人は年の離れた兄妹のように育った。お互い恋愛感情があったかどうかはわからないが、長い時間を共に過ごした分の想いはそこにあった。

 だから婚約を解消して遠く離れることになったことだけであれほどの後悔を滲ませたシルヴァンが、アデールを見捨てた結果苦しまないはずがなかった。

(でもどんな条件かはわかりませんが、私への情で敵の要求を飲めば今度は国王として後悔することになりますし。シルヴァンには今は守るべき自分の国も、今後夫婦として人生を共にする奥方もいるんですから)

 アデールはパサパサの生地を水で飲み下し、ため息をついた。

 迷惑にならないために遠い土地に送られたはずなのに、結局重荷となるしかない自分の身の上が、アデールはただひたすらに後ろめたかった。

4 鉄格子を挟んで

 そうしてその後はしばらく、アデールは人質として牢獄で幽閉されて過ごすごとになった。

 アデールのいる牢獄は上り下りが大変な場所にあるようで、用もないのにわざわざ梯子を上ってやって来る者はいなかった。
 反乱を起こした農民たちの指導者らしき青年がアデールが本物の王女かどうかを確かめるためにやって来たこともあるが、戦争を進めるのに忙しいらしくそれも一度だけのことである。

 だから長い牢獄の時間の中で、アデールが毎日顔を合わせるのは小柄な牢番のリュドだけだった。おそらくもっと立派な大人は勢力圏の防衛などに回され、人質の見張りなどは案外優先順位が低いのだろう。

 リュドは最初の七日ほどはずっと、食事を持ってくるときと食べ終わった食器を下げるときにしか現れなかった。
 だが彼もまたアデールの牢番以外に任されることがなく暇なのか、ある日一冊の本を持ってきた。

「この城の書庫とかいう部屋からひとつ、持ってきた。あんた、これに何が書かれているのかわかるのか?」

 リュドは食器口から食器を下げると、入れ替わりに今度はアザミの葉の絵が型押しされた革表紙の本をまめだらけの手で手渡した。

 本を受け取ったアデールは、留め具をはずして中の言葉を確認してみた。ずっしりとした装丁の、重い本だった。

「はい。読める言葉ですね。手紙の内容をまとめたもののようです。何が書かれているのか気になるなら、読み上げましょうか」
「そうか。それならあんたの暇つぶしに付き合ってやらんこともない。俺はあんたが嫌いだが、あんたの面倒を見るのが俺の牢番の仕事だからな」

 リュドは自分は牢番として行動しているのであり、アデールへの敵意を忘れたわけではないことを強調して、鉄格子を挟んであぐらをかいて床に座った。

 おそらくリュドは本に興味を持っているものの文字が読めないために、アデールの所にやって来たのだろうと推測できる。
 だがアデールはリュドにとってあくまで憎むべき王族であるので、本当にそうだとしても本心を見せてはくれなかった。

「そうですか。それはありがとうございます。それでは、読みますね」

 リュドの意図がどうであれ気が紛れて余計なことを考えずにすむのはありがたかったので、アデールは頁をめくって読み上げた。
 それは遠い昔に生きた王とその寵妃の恋文のやりとりをまとめたものであるようだった。

「愛しい人へ。私は恋い焦がれる者です。あなたを想って私は毎晩死んでいます。あなたなしでは私の夜は明けませんし、あなたがいなければ私は息もできません……」

 熱烈に綴られる愛の言葉を、アデールは粛々と音読した。
 こうした書物にふれることで、恋に憧れる貴族の子女も多いのだろう。アデール自身には恋についての願望はなかったが、なかなか興味深い内容だった。

 しかしリュドの方は自分が選んだのが恋文についての本だとはまったくわかっていなかったようで、アデールが読み進めると不可解そうに尋ねた。

「あなたは私の支配者であり、私の太陽。私の……」
「ちょっと待て。それは何の本なんだ」
「ある男女の恋をめぐる手紙をまとめた本です」

 アデールが手短に答えると、リュドの冷静を装っていたはずの日焼けした顔がみるみるうちに赤くなる。

「わかった。もういい。あとは勝手に読め」

 文字が読めないゆえの自分の選択の失敗に気付いたリュドは、慌ててアデールの朗読をやめさせた。性愛に対する耐性は、あまり持ち合わせていないらしかった。

 もちろんアデールはリュドが恋について知りたかったわけではないことはわかっていたため、一人で狼狽するリュドの反応が面白く感じられた。

「わかりました。大切に読みますね」

 アデールは汚れた白い手で本を閉じ、リュドにわざと可愛らしく微笑んでみせた。

「勘違いするなよ。俺は本当に適当に持ってきただけだからな」

 からかうようなアデールの笑顔に、リュドはまだ顔が赤いまま必死な瞳でにらんで抗議した。反乱を起こした農民としてアデールを憎む姿勢を保ち続けることができないほどに、気まずさを感じているようであった。

(本当に、人を憎むのに向いてない性格の人なんですね)

 自分は本当の意味では憎まれていないと思うのは、傲慢なことなのかもしれない。
 しかし感情的になることを忘れてしまったアデールには、そのリュドの冷淡になりきれない未熟さがとても貴重なものに思えた。

 それからというもの、失敗を取り返すためなのか、リュドは牢獄から出ることができないアデールにときどき本を持って来るようになった。
 打ち解けたわけではないという体裁は保ち続けたが、リュドは結局親切だった。

 リュドが自分はただの牢番としてしか行動していないと主張するのなら、アデールはその気持ちを尊重したかったし、アデール自身もそれ以上の関係を求める気はなかった。だがリュドが何かと理由をつけつつも、結果的にはアデールを気遣ってくれるおかげで気が晴れることには感謝していた。

 だからアデールはお礼として、本を返すときにはその内容をリュドに軽く語った。

「ありがとうございました。これは、地方の医学について書かれたものでした。体に良い食べ物や薬草のことが、よくわかりました」
「そうか。これはそういう本なのか」

 リュドは決して「ありがとう」や「どういたしまして」という言葉は言わなかった。
 だが彼が絶えず本を持って来ることがすべてを語っているように、アデールは思えた。

5 安らぎと未練

 そんな本を通したリュドとのささやかなやりとりが始まってからは、アデールはそれまでよりもずっとのどかな気持ちで過ごすことができた。

 相変わらず足枷は重く、薄汚れた姿は自分をよく知る人々には見せたくないほどの情けなさだ。

 しかし獄中の寒暖差にも慣れ、穏やかな秋晴れの陽光が窓から差し込む天井の高い石造りの牢獄で一人本の頁をめくっていると、気分は自然と静かに落ち着いてくる。

(私は今までずっと、こうして生きてみたかったような気もします。不必要な王の遺児として存在を持て余された私には、ずっと本を読んで過ごすくらいの生活が身の丈に合っていたのかもしれません)

 本を読むことは昔から嫌いではなかった。

 また今はさらにそれに加えて、牢番と囚人としてのリュドとの関係の中にやっと、自分の居場所を見つけたような気持ちになることができる。
 だがそんな平和な時間が続くと、自分が本当に心から死にたいわけではないことを思い出してしまい、人質としての価値がなくなれば処刑される将来が嫌になる自分がいるのもまた確かであった。

(王女として国のために犠牲にならなければならないのなら、そうします。だけどこのままこの牢獄の中で満たされ続けてしまったのなら、私は王女らしく死ねる自信がありません)

 アデールは本を手に窓から覗く空を見上げて、都で王として国を背負っているはずの従兄弟のシルヴァンのことについて考えた。

 どんな条件が提示されたのかは知らないが、きっともうシルヴァンの所にもアデールを人質とした反乱軍からの要求が届いたころであると思われた。
 本来の反乱の目的は暴力ではないはずだが、彼らが王族や貴族に対して憎悪を抱いている以上、穏便な決着は望めそうにない。

 アデールはシルヴァンに立派な王でいてほしかった。
 だからシルヴァンが国王としてアデールに死を命じるなら、アデールはシルヴァンの命令に見合った誇りのある王女として死にたかった。

 だが実際のところはアデールはそれほど強い人間ではないので、死にたくなるような目に合わなければ死にたいとは思えない。

 本当のところは、自分のことを愛してくれる人や気にかけてくれる人がいるということを、アデールは幸せに思わなくてはならないのだろう。

 だからアデールはリュドがアデールを憎みながらも気遣ってくれることを、常に感謝したいと思っている。

 また侍女のノエラや夫となるはずだった老領主の死を本当に悼むのなら、残された者として相応の人生を歩むべきであることもわかっていた。

 しかしその一方でアデールは、もしも自分が不幸な死を迎えることで自分を想ってくれている人たちを傷付ける結果になるのなら、最初から誰からも忘れ去られた存在として死んだ方が気が楽だと感じる気持ちを捨て去ることができなかった。

 本当に何も与えられず死ぬしかない不幸な人にしてみれば、アデールの悩みはわがままで不遜なものなのかもしれない。
 だが自分で選んで王女として生きたわけではないのだから、それくらいの利己的な願いは許してもらいたいと、アデールは牢獄の中で一人思った。

6 処刑宣告

 しかしアデールが牢獄に放り込まれてから一カ月ほどたったある日に、リュドとの穏やかに過ぎていく日々は終わった。

 その日の夕方、リュドはいつもと同じように食事の載った盆を持って来たが、表情は重く何かを抱え込んでいた。

「大切な知らせがあるんですね」

 状況が変わったことを察して、アデールはリュドに尋ねた。
 狭苦しい牢獄の前に立ち、リュドは一瞬押し黙る。だがすぐに迷いを飲み込んで、簡潔にすべてを告げた。

「そうだ。国王との交渉が決裂したという知らせが入った。あんたは人質として用済みで、見せしめとして処刑される」

 声変わり前のリュドの少し上ずった声が、石壁に静かに反響する。

「そう、ですか」

 お前はもうすぐ殺されるのだと言われて、嬉しいわけではない。

 だがアデールはどちらかというとやっとその時が来たか、という気持ちでその言葉を受け入れた。自分は死ぬべきなのだという気持ちを本当に忘れてしまう前に終わりがやって来て、良かったとも思う。

 リュドの言葉はさらに続いた。

「あんたは斬首されて、首は国王に届けられる」

 リュドは暗く救いのない決定を語ると、牢獄内に食事を渡し入れてそっとアデールを見つめた。
 しかし首を斬られると言われても、アデールはやんわりとした受け答えしかできなかった。

「わかりました。心の準備をしておきます」

 自分に待つ残酷な最期を知ってもなお、アデールは安堵していた。
 アデールの命と引き換えに何が守られたのかはわからないが、シルヴァンが王として下した結論なら無条件で受け入れたかった。

 首はシルヴァンに送られるというのはさすがに悪趣味すぎると感じたものの、やめてほしいと願っても無駄なことならせめて安らかな死に顔になるように努力するしかないと思う。

(だって結局は死ぬしかないのだから、後はどう死ぬかしか変えられないじゃないですか)

 民は憎むべき悪ではないが、彼らがアデールを憎んで殺すのが現実である。
 現実に逆らう強さのないアデールは、それが運命なのだと黙って従えるように強くなるしかなかった。

 しかしそうしたアデールの諦めた反応は、リュドには気に入らないものであるらしかった。
 リュドは鉄格子から手を離し、もつれた黒髪を苛々とかきむしって言った。

「よかったな。あんたはお望み通り死ねて」
「どうかしたんですか?」

 その声の意外なほどの鋭さに驚いて、アデールは慌ててリュドを見つめて尋ねた。
 リュドの瞳は、何故か怒りに震えていた。それは今までの強がりのような憎しみとは違っていて、どこかやるせなく思っているようでもあった。

「どうもするわけがない。俺は牢番だからな。あんたが処刑されるなら、それでさよならだ」

 状況を飲み込めていないアデールに背を向け、リュドは怒鳴って言い捨てる。
 その感情の高まりは、本人にも処理しきれていないように見えた。

「リュド、待ってください」

 アデールはリュドの後ろ姿に声をかけたが、リュドは何も言わずに落とし戸から降りて行く。
 鉄格子から手を伸ばそうとしたところで、足枷につながる鎖がじゃらりと鳴る。囚われ幽閉されているアデールは、一人追うこともできずに残された。

 そのときアデールは初めて牢獄に投げ入れられた時以上に、ある意味では孤独になった。

(リュドは私が考えていた以上に、私を気にかけてくれていたんですね)

 忍び寄る夕闇の中でしゃがみこんでリュドの言動を振り返り、アデールはかえって冷静な気持ちで答えを出した。

 リュドがアデールの考えをどれくらい理解していたかは、わからない。

 だがリュドは反乱に身を投じている農民として支配者を憎んでいるのだから、王族の一人であるアデールが死んでも結局は納得するのだろうと、アデールは思っていた。多少は心が通じたところがあっても所詮は牢番と囚人なのだと、軽く見ていた。

 しかしリュドはアデールが理解したつもりになっていたよりもずっと、アデールのことを大切に想ってくれていたらしい。
 だからこそ死に抗わないアデールが腹立たしく、その態度を許せないのだろう。

 アデールはリュドが泣きそうな顔で怒鳴ってやっと、そのことに気が付いた。

 だけどもう時は遅く、二人の間にはそもそも出会ったそのときから避けられなかったであろうすれ違いがあった。

 高窓から覗く空は、次第に暗さを増して夜を迎えている。

 アデールはどうするのが正解だったのかわからないまま、リュドが置いて行った不味い麦粥を惰性で食べた。

 もしかすると、都で食べていたアデールの食事が恵まれ過ぎていたのかもしれない。しかしそれにしても木の深皿に入った冷たい麦粥は、いつも以上に美味しくはなかった。

7 囚人の王女と牢番の少年

 それからほどなくして、処刑のときは訪れた。

 前日には水桶を持った女たちがやって来て、アデールは約一か月ぶりに体を洗うことができた。

 またぼさぼさに乱れていた髪もある程度は綺麗に梳いて結われ、服も元々着ていた絹のドレスに戻される。
 処刑を行う際には王女らしい姿である方が好ましいからだと思われたが、死ぬために身だしなみを整えられるというのは妙な気分だった。

(この服の色合いは気に入っていますから、最後に着るには悪くないですけどね)

 アデールは三つ編みに結われた銀髪をいじりながら、久しぶりに着飾った自分の姿を見た。

 ゆったりと華やかなドレスは狭く寒々しい石造りの牢獄には不釣り合いだが、深みのある青色の生地は一カ月の幽閉でより痩せてしまったアデールの体を鮮やかに隠す。

 鉄格子は閉ざされたままだが足枷は外されて、アデールはわずかだがそれなりの解放感を味わうことができた。

 そうしてアデールが服をなるべく汚さないように座って処刑場へ連れていかれるそのときに備えていると、落とし戸が開く音がした。

「それが、本当のあんただったんだな」

 冷たいふりをした声でそう言ってアデールの前に立ったのは、処刑が決まってからはほとんど口をきいてくれなくなっていたリュドだった。
 その手にはアデールの最後の食事なのか、黒パンが数切れとコップの載った盆が握られていた。

「別に、これまでが嘘だったってわけじゃないですよ。私は私です」

 アデールは一度怒らせてしまってからやっとリュドの声が聞けたことが嬉しくて、微笑んだ。
 しかしそれはそれでまた、リュドの心を傷付けてしまったらしい。リュドはアデールが笑いかけると、目に涙を浮かべて俯いた。

「あんたはそうでも、俺は……」
「リュド……」

 込み上げる感情に耐えきれなかったリュドは、言葉に詰まって肩を震わせた。

 大粒の涙がぽろぽろとリュドの汚れた頬を流れ落ちていくのを、アデールは何もできずにただ見ていた。その涙の理由がアデールであるがゆえに、アデールには名前を呼ぶことしかできなかった。

「俺は、あんたのことが嫌いだった。あんたたちがいるせいで、俺たちには良いことが何もなかったから」

 アデールが黙っていると、リュドは沈黙を埋めるように再び言葉を紡ぎ出した。

 半ばしゃくりあげながらリュドが話すのは、アデールが何となくは思い浮かべながらも直接ふれることはなかった、農民である彼自身の人生である。
 反乱軍の一員であるリュドに貴族や王族を嫌う理由があることはアデールも最初から知っていたが、本当に聞くのは初めてのことだった。

「俺の母さんは体が弱かったから、妹を生んですぐに死んだ。妹も母さんに似て体が弱くて、いつも病気で寝ていた。俺も父さんも頑張って働いて農地を耕した。だけど税は重くて貧乏だから、ほとんど寝たきりの妹には何もしてやれなかった。俺たちには学がないから、どうすれば妹が良くなるのかもわからなかった。それでそのうち、妹は七つにもならないくらいで死んだ」

 唐突に溢れ出るように語られるリュドの過去を、アデールは小柄な体でじっと受け止めた。素朴な言葉遣いの向こうにある悲惨な現実を想像すると、アデールは相づちもうてなかった。自分の生きてきた世界とは違う不幸に、肯定も何も許されない気がした。

 リュドは鉄格子に手を伸ばして握りしめ、怒りも何もかもがない交ぜになった感情を滲ませた声を絞り出した。

「王族とか貴族とかがいるから、母さんも妹も死んだんだって、皆言った。だから俺はこの反乱に加わって、あんたたちを全員憎んだ。死んでほしいと思った」

 そこまでが、リュドが生きてきた過去だった。
 それをすべて言い終えるとリュドの声色はより苦しげなものに変わって、彼はまたもう一つの本音を吐露した。

「でも俺はもう、あんたが死ぬのは嫌だ。妹に死んでほしくなかったように、俺はあんたにも死んでほしくない。それなのにどうしてあんたは殺されるくせに、ずっと笑ってられるんだよ」

 リュドはとうとう床に崩れ落ちるかのように屈みこんで、鉄格子の向こうで背中を小さく丸めて泣いた。

 それは貧しい農民としてアデールを憎まなければならなかったリュドが、今までずっと隠して忘れようとしてきた願いだった。
 結局はアデールを責めるしかないのも、自分の願いは絶対に叶うことはないと牢番として知っているからだろう。

 必死に泣き止もうと努力して嗚咽をもらしているリュドに、アデールはつい反射的に謝罪した。

「ごめんなさい。あなたを悲しませたかったわけじゃないんですけど」

 アデールは政治に疎いが、アデールの存在がリュドのような人々の犠牲の上に成り立っているというのは間違いのないことだと思っている。
 それが国であるといえば、それまでなのかもしれない。
 だが同時にリュドが目の前の人間を死なせたくないと感じるのも仕方がないことであり、アデールにはどうすることもできなかった。

 だが何とか声をかけた結果、アデールはより一層リュドを傷付けてしまったようだった。リュドは涙を止められないまま、再び声を尖らせた。

「あんたが俺に、謝る理由はないだろ」

 耐えることだけを覚え続けたアデールは絶対に持ち得ない激しい感情を、リュドは燃やし続けていた。リュド自身、自分でもどうしたいのか、またどうされたいのかわからないようであった。

(一体私はどう生きれば、誰も悲しませずにすんだのでしょうか)

 死を待つ自分のためにリュドがすすり泣いてくれる音を聞きながら、アデールはどこまででも上手く生きられない自分の人生にうんざりした。

 アデールもリュドと同じように、過去を語れば良いのだろうか。
 なぜ死ぬのが嫌だとは言えないのか、説明すればわかってもらえるのだろうか。
 アデールは様々な方法を考えた。

 しかし結局のところは、アデールの想いをすべて打ち明けたところできっと、リュドの気持ちが軽くはならないという結論に辿り着く。
 それどころかもしかすると、アデールの言葉はまたよりリュドを傷付けてしまうかもしれない。

 アデールはリュドが涙を流してくれるのは、殺されるのがアデールだからではないことはわかっているつもりだった。
 きっと多分、誰が死ぬことになっても泣いてしまうほどに、リュドは他人を思い遣る心のある少年なのだ。

(それでも私は、彼の涙に報いたかったですが……)

 やっと少しは涙がおさまってきた様子のリュドを見つめて、アデールは自分にできることを考え続けた。もしも鉄格子がなければリュドを抱きしめたいが、きっとそれも逆効果なのだろう。

 アデールはこれまで、多くのものを失ってきた。
 両親も、従兄弟との結婚も、乳母子だった侍女も、顔も知らない婚約者も失った。

 だから本来誰にも必要とされないのが正しいはずなのに、それでもアデールは生きても死んでも誰かを苦しめるしかないらしかった。
 リュドにもシルヴァンにも民にも、誰にも迷惑をかけたくないのに、どう転んでもアデールの存在は他人を困らせる。

(こんなことになるのなら、私はもういっそ最初からいない方が良かったような気もします)

 アデールはドレスの裾を握りしめて、目を伏せた。それでも涙は流れないのが、自分が何か欠けた人間であるようで嫌だった。

8 ライ麦のパン

 その時ふと、リュドが放るように牢獄の中に置いたままにしていた黒パンの載った盆がアデールの目に入った。
 これまでの食事の量から考えるとやや多めの数切れの黒パンは、無造作に白皿の上に載っていた。

 アデールはその黒パンを見て、牢獄に入れられてからの自分の食事について考えた。

(そういえば私は、もうずっと誰かと食事をしていないですね)

 元々そう食に興味がないために気にしていなかったが、アデールは自分が何十日も食事を一人でとり続けていたことを思い出した。
 するとこれが最後にするべきことなのかもしれないと、アデールに一つの考えが思い浮かぶ。

 それは小さなことだが、アデールとリュドにとっては大きな意味があるように思える行為だった。
 もう他に自分にできることはなさそうなので、アデールはその考えをリュドに伝えることにした。

「じゃあ少しだけわがままを言っていいですか」

 得た答えを胸に、アデールはリュドにそっと声をかけた。
 単なる諦めでも謝罪でもなくなったアデールの言葉は、やわらかく牢獄内に響いた。

「言いたいことがあるなら、さっさと言えよ。いちいちもったいぶるな、あんたは」

 やっと少しは傷付けないで済むような想いを見つけたアデールの変化に、まだ涙の乾いていないリュドもきまりが悪そうに普段通りに近い反応を返す。

 その聞きなれた憎まれ口にほっとして微笑み、アデールは最初で最後の願いを口にした。

「それじゃあ、言いますね。私はあなたが持ってきてくれたこのパンを、あなたと二人で一緒に食べたいです」

 リュドと二人で食事を分け合って食べること。それがアデールの望みだった。

「そんなことして、何になるんだ」

 突然のアデールの頼みごとに、リュドは困惑した様子で目をそらして答えた。
 どうやらアデールの願望がこうした性質のものだとは、まったく想像していなかったらしい。

 アデールは受け答える前に、皿の上からパンを一切れ手にするとそのまま半分にちぎってリュドに差し出した。
 牢獄を出てふれることができないのならせめて、一枚のパンを分け合いたいというのがアデールの気持ちだった。

「私がそうしたいからじゃ、駄目ですか。どうしても理由が必要なら、これまで本を持ってきてくださったお礼ということでどうでしょうか」

 大きく澄んだ水色の瞳に、アデールは真っ直ぐにリュドを映す。
 目を赤くしたリュドをじっと見つめていると、この牢獄でリュドと出会ってからの日々が少し早めの走馬灯のように思い出された。

 他の反乱軍の大人たちの前でリュドがどう振る舞って生きてきたのかを、アデールは知らない。
 だがアデールと心を通わせたリュドを知っているのは、きっとアデールだけであるはずだった。だからこそリュドは、最後にアデールへの想いをすべて明らかにしてしまうしかなかったのだ。

 しばらくリュドは何も言わずに黙っていた。だがやがて根負けしたように、鉄格子越しに差し出されたパンをアデールの手からとった。

「だから俺はあんたが嫌いだ」
「ありがとうございます。私の方はきっと、あなたのことが好きだったと思います」

 今回もまた口では拒みつつも結局は思い遣ってくれたリュドに、アデールはお礼を言った。
 するとリュドはさらに嫌そうな表情になったが、それくらいならきっと大丈夫なはずだとアデールは思った。

「じゃあ、いただきましょうか」

 アデールはそう言って、これまでは特に何も考えずに食べてきた黒パンをじっくりと見た。

 表面に押麦がまぶされた黒パンの色は焦げ茶で、それは王族であるアデールが昔から食べてきた白パンとは違う庶民のための粗食である。
 だけど今日は、リュドと分け合って食べるのだから何よりも特別だった。

「ああ。食べるぞ」

 アデールの呼びかけに、リュドが短く返事をする。

 そうして、ドレスで着飾った王族の少女とぼろぼろのチュニックを着た農民の少年は、囚人と牢番として向かい合って同じ黒パンを口にした。

(何となく美味しいような、気がします……)

 ほろ苦さとともに生地を噛みしめ飲み込むと、アデールは乾いて固いはずの黒パンにいつもとは違う美味しさを感じた。
 冷えてパサついていても麦本来の味わいは確かにそこにあり、ときどき感じられる押麦の食感もほど良い。普段は苦手だったほのかな酸味も、今日は好ましいものに思えた。

 そう心満たされるのは、誰かと食べる食事が久々だからなのかもしれないし、これが最後の食事だとわかっているからなのかもしれなかった。

「美味しいですね」
「そうだな」

 アデールが静かに喜びを口にすると、リュドもぶっきらぼうに同意する。
 見てみるとリュドの方も神妙な顔をして、ちゃんとそれなりに味わって食べてくれているようだった。
 本も食事も、誰かと分かち合った方が幸せなのだと、アデールはしみじみと思った。

 高窓から見えるよく晴れた青空から、まだ爽やかに心地の良い秋風が吹いて二人を包む。

 アデールは黒パンをもう一口食べて、小さく息をついた。
 重くて固いぶんよく噛んで食べることになるので、黒パンはやわらかい白パンより食べごたえがあった。

(これで少なくともリュドとは、綺麗に別れを迎えることができました)

 もつれた黒髪に半分隠れたリュドの不器用に優しい瞳をひっそりと見つめて、アデールは確かな満足を得た。
 陽光もいつも以上に暖かく感じられ、心はとても軽くなったような気がする。

 実のところはやはり、アデールは死ぬしかないのなら愛されるのはつらいし、愛してもらえるのなら生きたかった。だがそれでも死が避けられないのなら、幸福だった自分を伝えられる人に伝えるしかなかった。

(首を斬られて終わる人生だったとしても、最後に美味しく食べられればそれでいいですよね)

 アデールはもうあまり何も考えたくない気分で、黒パンをまたもう一つちぎった。

 処刑場で待つ人々や、都にいるシルヴァンに、アデールの一生がどう見えるのかはわからない。

 だが今、目の前で一緒にパンを食べてくれているリュドは、きっとアデールと同じ小さな幸せを感じてくれているはずだった。



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