神喰いの花嫁/虐げられた少女(前篇)
1 クリーム色の自動車
西都の歴史ある伯爵家のご当主の妾だった母は、革張りの寝椅子に腰掛け、透明な宝石みたいなロックグラスで洋酒を飲んでは、娘である桜良にいつも甘い声で語りかけた。
「知れば知るほど、こわいものが増えていく。だから勉強なんかしないで、ばかな子でいるのが一番よ。かわいい女の子は、ばかで許してもらえるんだから」
酔っ払った母が花柄のワンピースを着た幼い桜良を膝の上に置き、深緋のマニキュアを塗った手で小さな娘の可愛らしい顔を撫でる。
まだ数年しか生きていない桜良には、母が何を言っているのかよくわからない。でも母の手に触れられていると安心するので、母の言うことには素直に頷いた。
「うん。わたし、ばかな子でいる」
桜良は背中を丸めて、派手な夜会服姿の母親の、甘い香水の匂いがする胸に頭を預ける。
その後、本当に自分が馬鹿な子でいられたかどうかについては自信がない。だが桜良が自分の知識を増やすことに興味がないまま成長したのは、その母の忠告があったからだと思う。
若くして桜良を生んだ母・杉下ハルはいわゆるモガ——モダンガールと呼ばれる種類の人であり、艶やかな黒髪は耳の下のあたりで切りそろえてあって、ドレスは黒地にパールが光る袖無しのフラッパー風だった。
指なしのレースのロンググローブと巻下ろした薄い絹の靴下を身に着けた手足は細く長く、常にヒールのあるパンプスを履いているから立ち姿は必要以上に背が高く見える。
「わたし、着物って見てるだけで息が詰まっちゃうんだよね」と、彼女は家のリビングで呉服店のカタログをめくってはよく目を細めて苦笑していた。
だから普通の既婚女性が着るような留袖や浴衣は、彼女のクローゼットには一枚も入っていない。彼女は海の向こうの映画女優のような、派手でまぶしい装いがよく似合う人だった。
当然化粧も、目元を彩る灰紫のアイシャドーに優美な弧を描く鮮やかなルージュ、肌をほの白く整えるおしろいに耳まで赤く塗られた頬紅などで、とびきり濃く仕上げられていた。厚化粧をしていても美人だとわかるはっきりした顔立ちは華やかだけどさみしげで、いつも泣き出しそうに見える顔で笑っていた。
また、こうして皇国らしい伝統の文化とは縁遠く生きていた母を、妾として溺愛していた伯爵家の当主である父も、異国の趣味にかぶれた酔狂な人物であった。
桜良の父・俊作が若くして後を継いだ久世月家は、神々が住まう聖域の神在森に入ることを許されるほど高位ではないが、何百年も前から帝に仕えて皇国を守護し続けている、馬鹿にはされない格式のある武家である。
だが好奇心が強く常識に囚われない気風を持って生まれた俊作は、皇国の歴史を尊重することよりも、異国の文化を消費することを好んでいた。
そのため彼は伝統的な様式を受け継ぐ先祖代々の屋敷の敷地内に、外つ国から招いた建築家に設計を任せた別邸を構え、妾であるハルとその庶子の桜良を住まわせて、舶来の品々に囲まれた生活を送らせた。
別邸は濃緑の軒や瓦と、白いモルタルの壁のコントラストが美しい木造の洋館で、窓には円弧や直線が優美な模様を描いたステンドグラスがはめられていた。
邸内の装飾も天井は豪奢な放射状の石膏装飾が施されている一方で、床にはすっきりとした幾何学的な文様が描かれたカーペットが敷かれていて、テーブルやソファなどの家具も上品で洗練されたものが揃い、綺麗に設えられていたことを桜良は覚えている。
母は洋酒を飲んでいないときにはだいたい、その洋館の風通しの良いベランダに出て煙草を吸った。長いシガレットホルダーを手に紫煙をくゆらせる母の瞳は、青い芝生が広がる天気の良い日の家の庭ではないどこかを、ぼんやりと見つめていた。
(おかあさんは、なにを見ているんだろう)
近くにいるのに遠い横顔を見上げて、桜良は母の頭の中のことについて考えていた。その目が本当は何を映しているのか気になるけれども、訊いてはいけない気がして押し黙る。
もしかすると母には行きたい場所があったのかもしれないが、そこがどこかなのかは今はもう知ることができない。
塔に閉じ込められたおとぎ話のお姫様みたいな切なさで、母は聞き取れない歌を口ずさむ。しかし娘の桜良が知っているかぎり、母は籠の中の鳥ではなかった。
母は特に理由もなく街に出かけていて、たまに桜良を連れて行ったときには、百貨店で可愛らしいが値が張る子供服を何着も買った。
また父も、母と二人でよく遠出をした。
父には男児と女児を一人ずつ生んだ正妻がいて、公の集まりには正妻を伴ったが、私的な外出には必ず妾である桜良の母を相手に選んだ。
子供の桜良から見ても正妻と妾のどちらが愛されているかがはっきりとわかるほどだったので、二人の女の間にはそれなりの確執があった。だが正妻を母に持つ嫡出の兄妹と庶子の桜良の関係は必ずしも悪くはなかった。歳も近く同じ場所に住んでいる三人は、小学校にあがる前はよく屋敷の敷地で遊んだ。
だからそのよく晴れた弥生の月のある午後も、桜良は腹違いの兄の和頼とその妹の明里の三人で、春光が暖かな離れの裏庭にいた。
「この花は、あかりのだよ」
「じゃあおれは、この枝をもらう」
明里の小さな手がしっかりと濃い黄色のたんぽぽの花を何本か折って、和頼が太めの枝を手にして振る。
芝生が綺麗な表の庭と違って、裏庭は木々や草花が茂っていた。
ふくふくとした丸顔の明里と、幼くとも凛々しい顔立ちの和頼は、母親は同じでもあまり似ていない。しかし兄妹であるので服装はだいたい同じで、簡素だが仕立ての良い木綿の肩上げした着物を着た二人は、草や花をちぎったり埋めたりして、子供らしくたいした目的もなく過ごしている。
一方着物ではなく母親に買ってもらったギンガムチェックのジャンパースカートを履いた桜良は、兄と妹が植物をもてあそんでいる横でしゃがんで小石をいじっていた。
「さくらは、石が好きなんだな」
和頼が横目で桜良を見て、話しかける。
「うん」
別に石にこだわりがあるわけではないのだが、否定するほどのことでもないので桜良は適当にうなずいた。
小さな石の尖りや冷たさは嫌いではないが、桜良は別にそれが金属や樹脂でも構わなかった。
兄の和頼が桜良に話しかけてもあまり気にしていない様子で、明里は一人でたんぽぽの花弁をちぎっていた。だがやがて何かに気づくと、彼女は顔を上げた。
「父さまのくるまのおとだ」
耳の良い明里がつぶやくと同時に、離れの玄関の方からエンジン音が響いた。それは明里の言う通り、父・俊作が愛車を玄関ポーチに横付けした音だった。
全員揃って父親と会う機会がいつもあるわけではないので、三人は無言でうなずきあって玄関の方に出た。
三人が家の影から顔を出すと、ガラス張りの庇が陽光をやわらかに遮る玄関ポーチには、淡黄色の自動車が止まっていた。ひと目で輸入車だとわかる、大きくて派手な自動車だ。
運転が好きな父は、榛色のゆったりとしたスーツに白と焦げ茶のツートンカラーの革靴を履いて、車の外で迎えに来た相手を待っている。
「今日は三人も見送りがいるのか」
子供たちが来たことに気づくと、父は手を広げて笑顔を見せた。
しっかりとしたあごと太い眉が印象的な桜の父は、髪を後ろになでつけていてもどこか大人になりきらない雰囲気があって、実際に家長としてはまだ若かった。
三人は父親の前にぞろりと並び、まず話しかけたのは年長の和頼である。
「今日もハルさんと出かけるの?」
「そうだ。今日は新しく浜の方にできた海浜公園に行くんだ」
桜良の母をハルさんと呼んで和頼が尋ねると、父が行き先も含めて答えた。その口ぶりは、まるで海浜公園というところが地上の楽園であるかのように、自慢げである。
だが三人は父に甘える習慣をもっていなかったので、「ふうん」とだけ言って、その場所に連れて行ってほしいとはねだらなかった。
(おとうさんのくるま、またあたらしくなってる)
海浜公園という場所には興味を持たず、桜良は目の前にある、新品に近い輝きの自動車を見つめた。
すると父は少年のように目を輝かせ、そっと車の窓の縁を撫でて、桜良に語りかけた。
「フローレンス風のクリーム色で注文した、インターナショナルモデルの新型自動車だ。エンジンは十二気筒で、スターターもヘッドライトも電気式。もちろん屋根付き。この国の首相が乗ってる車よりも良い車だぞ」
恍惚とした表情を浮かべて、父は自分の車の性能をひけらかす。
父が何を言っているのか、桜良にはまったくわからない。それはおそらく、桜良が子供だからではなさそうだった。
だが父があまりにも誇らしげなので、桜良は何か褒め言葉を返さなければならないと思った。そこで隣の和頼に助け舟を求めようとしたところで、玄関の扉が開いた。
外に出てきたのは、薄い鴇色のスプリングコートを羽織り、白い絹の帽子を被った桜良の母である。
「女の子にそんな自慢をしたって、絶対わかんないでしょ」
母は桜良に話しかけるときの甘い猫撫で声とは違う、落ち着いて少々冷めた調子の、それでいて聞く人に親密さを感じさせ魅了する声で、子供たちの父親であり自分の恋人である男をからかった。
すっきりと髪を短くした耳元に、銀の留め具に赤い瑪瑙の輪っかが揺れるイヤリングをつけた母は、咲きほころぶ春の花のように美しく、ちょっと眠たげな顔で微笑んでいる。
広告の画のように完璧なその母の姿には、父だけではなく桜良の隣にぼんやりと立つ兄妹も目を奪われていて、特に和頼の瞳には幼い憧憬以上の感情が宿る。
どんなときも人の視線を堂々と受け止める容姿端麗な母が誇らしくて、桜良は自分も背筋をのばした。
ゆっくりと車の近くに寄ってきた母の手をとって引き寄せ、父は嬉しそうにからかい返す。
「何回デートをしてもスーパーカーの浪漫をわかってくれない君よりは、この車の良さをわかってくれるかもしれないだろ」
そして父と母は子供たちがすぐ近くにいるのを気にもとめずにお互いの首に抱きつき、べたべたと愛撫したり口づけをしたりした。
遠慮なく睦み合う父親とその妾を前にして、和頼と明里は視線をさまよわせる。だがその光景を見慣れている桜良はしっかりと顔を上げて、くちびるを重ねる父と母を凝視した。
(おとうさんは、おかあさんのことがほんとうにすきなんだな)
いつも心がどこか遠くにあった母が、父を心から愛していたかどうかはわからない。
しかし父が母を真剣に想っていたのは確かで、どんなときでも少しでも長い二人の時間を求めていた。
やがて玄関の前でやるべきことを十分にやった二人は、今度は車に乗り込んで笑い合う。
「それじゃあ、父さんたちはちょっと出かけてくるからな。お前たちも大人になったときに後悔しないように、よく遊べよ」
今も十分に遊んでいるように見える運転席の父が、子供たちに助言を残してアクセルを踏んだ。クリーム色の自動車は低い音を立てて滑らかに走り出し、タイルで舗装された敷地内の道の上を進んでいく。
助手席の母が「じゃあね」と口を動かして手をふるのを桜良は見たが、エンジン音で声は聞こえなかった。
残された排気ガスの臭いの中で、桜良は満開の桜並木の向こうへと車が消えていくのを見送る。
(さくらは、わたしのお花)
自分の名前の花であるので、桜良は桜の花が好きだった。
桜良の頭をぼんやりとさせる春の日差しが、白い桜もクリーム色の自動車もすべてを平等に暖かく染めている。
霞のように溶けていく景色を前に三人の子供はしばらく静止していたが、それからまた玄関の前のポーチを去って、意味を持たない庭遊びに戻った。
2 夢の終わり
夜、父の車が遠出から戻ってきて母を離れの玄関で降ろすときには、ドアの閉まる音や二人の話し声が桜良のいる子供部屋にも聞こえる。
その音が響くのが宵の口であれ夜更けであれ、父と母は桜良のいる屋敷に必ず帰ってくるはずだった。
だがその日は何も聞こえず、桜良は母の姿を見ないまま朝を迎えた。
「おかあさんは、まだかえってこないの」
白いフリルのついたパジャマから着替えずに、桜良が一階のキッチンに下りると、いつも面倒を見てくれている若い使用人の姐やが、フライパンで卵を炒って待っていた。
金縁の皿に盛られた炒り卵はいつもと同じように香ばしい匂いがしたけれども、姐やの表情は暗い。
姐やは桜良が下りてきたことに気がつくと、フライパンを火の消えた焜炉に戻した。
「お嬢様。お父上とお母上は……」
屈んで目線を桜良に合わせて、姐やが父と母が帰ってこない理由を説明する。
彼女が言うには、父が真夜中に母を車に載せて海沿いの崖を走っていたところ、ちょうどそのときに落石があったらしい。父は落石を避けようとハンドルを切ったが避けきれず、父の自慢のクリーム色の自動車は一瞬で巨大な岩の下敷きになった。
車の中にいた父と母は当然即死して、遺体もほとんど形が残っていないそうである。
(じゃあもう、おかあさんにもおとうさんにも、あえないんだ)
桜良は現実感のないまま、姐やに抱きしめられた。
自分を可愛がってくれた両親が死んだのだから、もっと悲しむべきだったのかもしれない。だが父と母はどこかこの現実の世界から浮いて生きていた気がしたので、一瞬で二人一緒に死んでしまえたのは幸せだったように思える。
(おかあさんは行きたいところに、行けたのかな)
ここではないどこかを見ていた美しい母のことを考えて、桜良は家政婦の姐やの胸元に頭を預けて悲しんでいるふりをする。何度も洗濯されたエプロンをつけた温かな姐やの胸元は、化粧をして香水をつけていた母とは違う、地に足のついた生活の匂いがした。
それから数日後に、伯爵家の当主であった父の立派な葬儀と、彼の妾だった母のささやかな葬儀が行われた。死んだのは二人一緒だったのに、葬儀や墓の場所が別であることは、二人が死んだことよりも悲しいことだと桜良は思った。
お斎の食事が並んだ大きな和室で、喪服を着た大人たちは大勢で今後のことについて話し合っていたが、桜良は一人で部屋の隅に座っていた。和頼と明里も離れたところにいて、彼らの母である正妻の隣で静かにしていた。
その後、両親の死後もしばらく、桜良は使用人の姐やと共に別邸で暮らした。
しかし死んだ二人の四十九日が過ぎた頃、別邸が突然の火事で全焼したので、母の記憶が残る場所での桜良の生活は終わった。
出火はちょうど姐やが桜良を連れ出していたときだったため、その火事で誰も死ぬことはなかった。
だがその夜空を赤く染める炎によって、父が母のために莫大な財産を投じて築いた瀟洒な洋館は、彼らと同じように灰に還っていく。
最後に一際輝くように赤くまぶしい光を放つ屋敷からは、ぱちぱちと炎が燃える音や中で床や柱が崩れる音がして、黒煙の嫌な臭いが広がっていた。
せめて焼けていく屋敷を見上げて記憶に残そうと、外出から帰宅して火事を知った桜良は姐やの側から離れて庭に出た。そこで桜良は、先客がいるのを見る。
「あのひとは……」
人影に気づいたところで立ち止まって、桜良はぽつりと声をもらした。
主が去って雑草で荒れつつあった広大な芝生の庭に立っているのは、久世月家の当主であった父・俊作の正妻の都志子である。
夜の闇に溶けるような真っ黒な着物を着た都志子は、半分怒ったような笑顔を浮かべて、屋敷が炎に包まれていくのを眺めていた。
桜良がそばにいることに気づくと、草履を履いた彼女は上品な足取りで近づいてきて、冷ややかに見下ろした。
「あの人があの女と見た夢も、これでお終い」
炎に照らされた都志子の眼光が幼く小さな桜良を捉えて、無理して平常を装った声が朗らかに話す。
初めてまともに見る彼女の顔は、思慮深げで立派な大人に見えるのに、その裏にある感情が怖く思えた。
「あなたもこれからは、生んだ母親の身分に見合った生活を送りなさい」
都志子は夜風に冷えた手で桜良の体温が高い頬を掴み、物事を正すように妾の子を諭した。
有無を言わさない都志子の態度に、桜良は消え入りそうな声で「はい」と返事をする。
自分を愛さなかった夫を、そして夫を永遠に奪った妾とその子供を、都志子は憎んでいた。だが名家から嫁いできた彼女はその誇りの高さゆえに、恨み言をそのまま吐露することはない。
出火の原因については、都志子も他の大人も何も語らなかった。しかし誰も語らないということは、誰かに原因があるということでもあった。
(この人が、おかあさんとわたしのおうちをもやした)
別邸に火をつけたのが都志子であることは、桜良にもすぐにわかった。だが父も母も死んだ今は、そのことを口にしたところで何もかもが無駄な気がした。
それまでの桜良は、父と母の見ていた夢の片隅で、霞のように軽い幸福に包まれて生きていた。
その夢が終わり、今度はつらく息苦しい不幸の中で生かされることを、桜良は都志子の静かな憎しみを感じ取って子供ながらに理解した。
3 女中部屋の朝
生きては帰らぬ両親を見送った春の日から十一年後。
夢を見ることもない深く重い眠りから、もう子供ではなくなった十七歳の桜良は目覚めた。
小柄でやせ細った身体はまだ休息を求めているけれども、頭は毎日同じ時間に覚醒する。
暗闇の中で生暖かい布団から抜け出て、電灯の紐の引いて裸電球を灯せば、人が一人寝るのが精一杯の狭い女中部屋が薄明かりに照らされた。
突き上げ式の高窓はあるが、開けてもまだ空が暗い早朝であることはわかっている。
それでも桜良が起きて布団を畳むのは、亡き当主の娘ではなく、女中として久世月家に置いてもらっているからだ。
桜良がリボンの可愛いネグリジェを着てやわらかなベッドで眠っていたのは遠い昔のことで、今は使い古された長襦袢を着て薄くかたい布団で寝起きしている。
その落差を悲しもうにも悲しめないほど、暗く狭い屋敷の片隅で始まって終わる一日が、桜良にとっての現実だ。
桜良は部屋の端に置かれた小さな鏡台に生気のない顔を映し、結ったままにしてある髪のほつれを櫛で直した。そして長襦袢を脱いで肌着になり、壁に吊るした井桁絣の着物を手にとる。
二畳の女中部屋に押し入れはなく、身の回りには最低限のものしかない。
(あの人が言うには、これが生んだ母親の身分に見合った私の生活らしいけど)
父の正妻であった都志子を、桜良は心の中ではいつもあの人と呼んでいる。
都志子は夫の死後、息子の和頼が成人するまでの間の後見人として伯爵家を取り仕切ることになった。
そして妾が溺愛され続けるのを夫が死ぬまで黙って耐えていた都志子は、両親が死んだ幼い桜良を庶子として認めずに女中部屋に住まわせ、家事労働をさせた。都志子の生んだ子である和頼と明里は高等学校や女学校に進学することができたのに対して、桜良は小学校にも満足に通えなかった。
だから桜良は子供らしく生きる時間を奪われたまま義務教育の年齢を終え、あかぎれだらけの手で毎日働いている。
(でも何も知らないほうが楽でいいって、お母さんは言っていた)
桜良は着物に着替えて襷で袖をたくし上げ、そっと静かに襖を開けた。自分の人生について考えれば辛くなるのがわかっているので、桜良は何も考えないようにして生きていた。
古く格式のある久世月家の本邸は白漆喰の壁に黒色の瓦屋根が立派な和館で、桜良の住む女中部屋は日の当たらない北側に位置し、部屋の前の廊下は台所と内玄関に通じている。
桜良はまず裏庭に出て外の水道から水を汲み、小だらいで顔と手を洗った。
雲が低く垂れ込んだ冬の早朝の空気は暗く冷たく、地面には薄く雪が積もっていた。今にも凍りそうな水で顔と手を洗うのは痛いが、女中の仕事には常に清潔さが必要とされている。
それから何度も洗濯をしてくたくたになっている割烹着を身に着けた桜良は、勝手口から台所のある薄暗くがらんと広い土間に入って、壁に取り付けられた電灯のスイッチを入れた。
久世月家の本邸は外観は古めかしいものの電化やガス化は進んでいて、台所にあるかまどや焜炉はすべてガスを使う最新式のものになっている。
だから薪で火を起こしている家庭に比べれば火加減の調節はだいぶ楽らしいのだが、他の家の台所を知らない桜良にはそのありがたみはわからなかった。
(だって炊飯の他にも、やらなきゃいけないことはたくさんある)
水道の水で米を研いで羽釜に入れ、マッチでかまどに点火をして屋敷にいる者全員分の飯を炊く。飯が炊きあがるまでの時間は豆腐と大根を切って味噌汁を作り、魚の内蔵をとって塩で焼く。
朝食が片付けばたらいと洗濯板で服を洗い、洗濯物を干した次は掃除。正午が近づけば昼食の準備と、女中の仕事には終わりがない。
その毎日の繰り返しの中で、桜良はただ与えられた仕事をこなすことだけを考えて、黙って手を動かしていた。
まずは朝食の準備を進めれば、だんだんと窓の外の空は白く明るくなっていく。
やがて味噌汁の味が整い、魚が焼き上がった香ばしい匂いがして、炊いた飯が十分に蒸らされたところで、台所にふっくらとした顔の少女が現れた。
「おはようございます。遅くなりました」
必要最低限の愛想で台所に入ってきたのは、久世月家で働く女中である絹江である。今日は遅くなったと言いつつ、絹江は必ず桜良が料理を終える頃になってやって来る。
「はい。おはようございます」
桜良は相手の調子に合わせた挨拶を返して、その他は何も喋らずにしゃもじで炊けた飯をかき混ぜた。
女主人の都志子に嫌われている桜良が他の使用人と親睦を深めれば、何かしらのひどい仕打ちを受けることになる。
そのことをわかっているから、桜良も絹江も積極的に言葉を交わそうとは思わない。
絹江は所在なげに台所に立って、目尻の下がった意思の弱そうな目でほとんど出来上がっている料理を見回した。
家事全般をやらなければならない桜良と違って、絹江は主家の人々の身支度の手伝いや外出の同行、来客対応など人に接する機会が多い仕事を任されている。彼女は中流の商家の出身で、家事よりも社交性を身につけることを望まれているのだ。
だから絹江は実家で買ってもらった市松模様に梅が入った綺麗な銘仙を着ていて、襷もあまり使わず、本人も家事に対してはあまりやる気がないし、やる能力もない。
とはいえ、絹江は桜良を嫌ったり見下したりしているわけではないので、時間が余っていれば料理の盛り付けくらいは手伝うそぶりを見せる。
だからその日もとりあえず、絹江は食器をしまってある年代物の茶箪笥を開けた。
「あたしは食器を出しますね」
木製の黒い塗椀を鍋の横に並べて、絹江はささやかな作業を始めようとした。
しかしちょうどそのとき廊下に通じている障子が音もなく開いて、久世月家の女主である都志子が、髪も着物も一つの乱れもなく完璧な姿で顔を出した。
表情は温和で所作もたおやかな年相応の婦人である都志子は、何か頼みたいことがあるようで、絹江の名前を丁寧に呼んだ。
「絹江さん。ちょっと」
「何の御用でしょうか。奥様」
主人の登場にかしこまって、絹江は姿勢を正した。
頬に手を当てて首をかしげた都志子は、やわらかな声で絹江にたずねた。
「この前のお茶会で使った真珠付きの黒いべっ甲の簪を、どこにしまったのかわからないのだけども」
そして一瞬、咎めるような視線を絹江が手にしている塗椀に向けて、そっと忠告を与える。
「そういうお仕事は全部、桜良さんに任せておけばいいのよ」
優しく絹江を気遣うように、都志子は他の者が桜良に手を差し伸べることを禁じる。
その言葉を発している間、都志子は近くにいる桜良を一瞥もしなかった。
どんな些細な思い遣りであっても、桜良のためになる行為を都志子は絶対に許さない。
美しい笑顔で示される明確な悪意に怯えて、絹江は食器を急いで手放した。
「はい。かしこまりました」
中途半端に塗椀を鍋の横に並べたまま、絹江が簪を探すために都志子と二人で台所を去っていく。都志子の機嫌を損ねないことだけを考えているであろう絹江は、桜良のいる後ろをまったく振り返らない。
都志子は何事も器用な人で、本当は絹江がいなくても自分のことはすべて自分でこなしてしまえる。しかし絹江が桜良の仕事を減らさないように、あえて絹江にちょっとした用事を頼んでいることを、桜良は知っていた。
こうして桜良は結局、一から十までのすべてをやることになる。
(一人で残されるのは、もう慣れた)
桜良はため息をつき、絹江が途中で投げ出した食器を並べ直した。
それから自分の食事を先によそって箱膳に載せ、土間の隅に腰掛けて手短に味見を兼ねた朝食を済ませる。
(美味しいかどうかはわからない。でもいつもと同じ味かどうかは、比べることができる)
米のかたまりを箸で掴んで頬張り、桜良はそれを味噌汁で流し込んだ。
やわらかめに炊いた米は甘く、鰹節で出しをとり白味噌を溶いた汁はほんの少しだけ塩辛い。それが特に異常がないときの、毎日桜良が作っている料理の味である。
しかし都志子によって料理を褒められる機会も奪われた桜良には、自分の料理が美味しいかどうかはわからなかった。
(昔は料理が下手だとあの人によく注意されたけど、今は何も言われない。だから不味くはないはずだと、思うのだけれども)
魚の身をほぐして飯と重ねて、咀嚼し飲み込む。
美味しいとも思えない料理を作って食べる度に、桜良は虚無感に襲われる。
誰かが一言、美味しいとか不味いとか言ってくれれば、それが否定的な言葉であったとしても、桜良は美味しさについて考えることができるのかもしれない。
しかし桜良が作った料理の味について誰かと話す機会はほとんどないので、今日も明日も美味しさとは何かわからないまま朝食を用意しなければならなかった。
4 かつての兄と妹と
朝食の配膳と片付けが終わった後も、桜良は洗濯や掃除などをこなし働き続けた。
都志子と絹江は運転手に車を出させて、昼前からどこかへ外出している。
屋敷には庭師の老人が一人残っていたが、とりたてて会話は生まれない。屋敷で働く男性たちは、そもそも桜良以外の者に対しても深入りしないように心掛けているからだ。
(最初から無関係な人しかいなければ、困ることはないのに)
午後には厚い雲に覆われた灰色の空を庭から見上げて、桜良は洗濯物を物干し竿から外す。幸い午前中は少々晴れていたので、どの洗濯物も冷たいが乾いていた。
庭師の姿は見えないものの、隅々まで手入れの行き届いた自然豊かな中庭の居心地は悪くはない。冬の今は寒さを我慢すれば、南天の赤い実や緑が曇天や積雪に映えるのを見ることができる。
だから桜良は、一人で庭にいる時間が嫌いではなかった。
ほんの少しだけ手を止めて、他人のために美しく保たれた庭の風景を楽しむ。
そうして寒空の下で桜良が一息ついていると、門の方から誰かが帰ってくる気配がした。
「ただいま。桜良」
明るい声で気兼ねなく桜良を呼び捨てにするのは、本来は腹違いの妹である明里である。
「おかえりなさいませ。明里様」
桜良は乾いた洗濯物を手に、会釈をして明里を迎えた。
近くの女学校に通っている明里は、薄紫色の菱文の丸袖と海老茶の女袴に革靴を履いていて、リボンで髪をまとめた姿はいかにも女学生らしい装いである。
丸顔で大柄な明里は決して美人ではないのだが、堂々とした態度で可愛らしい服装を着こなしていた。
明里は快活な笑顔で桜良に近寄り、学生鞄からしわくちゃの巾着を出して押し付ける。
「学校の授業で巾着を作ったんだけれども、私は上手にできなかったから桜良が作り直してちょうだいな。布の生地はとても、気に入ってるのよ」
その強引さは人に物を頼む態度ではないが、明里に悪気はなく彼女はそうした人間性を持って生まれ育っている。
女中の桜良は要求を拒まず「はい」と返事をして、失敗作の巾着を受け取った。
粛々と従順な桜良に、明里はさらに命令を重ねた。
「直芳さんへの贈り物を入れる袋にする予定だから、特に綺麗な仕上がりにしてほしいわ」
恥じることなく人に頼る明里が、笑みを深める。
直芳というのは明里の婚約者あり、帝の縁戚の由緒正しい家柄出身の青年である。親同士決めた縁談ではあるが、明里は直芳に惚れており、直芳も明里を気に入っているらしいと桜良は聞いていた。
好きな人物に贈るなら、真心を込めて自分で作り直すべきではないかと訊ねたかったが、立場を考えて桜良は押し黙る。
皮肉を返されたとしても、おそらく明里は意に介さない。しかし明里の母親である都志子は、桜良が生意気な口を利くことを許さないだろう。
「あなたには誰も相手がいなくて、気の毒ね」
開けた鞄を閉じながら、明里は軽くつぶやいた。
同じ男を父に持ちながら同じ幸せを得ることはない桜良に対して、明里は同情している。だがその哀れみは、無神経で温もりがない。
(本当に気の毒だと思うのなら、何も言わずに放っておいてくれればいいのに)
表情には何も出さずに、桜良は心のなかで毒づいた。わざわざお前は不幸だと言われるのは、幸せになることを諦めていても嫌な気持ちになる。
しかしそうした感情の機微に疎い明里は、何も気遣うことなく、またもうひとつの雑用を桜良に言いつけた。
「あと今から私、自分の部屋で宿題をするの。だからお茶とお菓子の準備もよろしくね」
「かしこまりました」
内玄関の方へと足取り軽く去っていく明里の後ろ姿に、桜良は使用人として頭を下げた。
本当は桜良が腹違いの姉であることを、明里も知らないわけではない。しかし明里は母親が違っても隔てなく遊んでいた幼い頃のことを覚えていないようで、主家の人間として振る舞うことに迷いがなかった。
(私も単なる女中として接すればいいわけだから、楽は楽なのだけれども)
桜良は気を取り直して巾着を前掛けにしまい、洗濯物を取り込む作業を進める手を早める。
朝から夜まで働かなくてはならない桜良には、庭の南天の赤色をゆっくりと愛でる時間はなかった。
◆
その後、明里のためにお茶を淹れて運び、取り入れた洗濯物を畳んだ桜良は、女中部屋に戻って頼まれた巾着の修理を進めるために重い木製の裁縫箱を開けた。
下手くそに縫い付けられた糸を切ってほどき、生地を伸ばしていた桜良は、内玄関の外から人が歩いてくる音を聞く。
嫡男の和頼が高等学校から帰宅したのだとわかった桜良は、かしこまって玄関に座って出迎えた。
「おかえりなさいませ、和頼様」
乾いた音をたてて開く引き戸を前にして、桜良は和頼に丁寧にお辞儀をした。
高等科の二年生として詰め襟の学生服の上に黒い羊毛のコートを着た和頼は、凛々しい眉や瞳が男前な十八歳で、高い背丈と広い肩幅は伯爵家の次期当主にふさわしい風貌であるように見える。
しかし恵まれた容姿に反して和頼の表情は常に曇っていて、まとう雰囲気もどこか陰鬱である。
「ああ。今帰った」
口ごもるようにつぶやき、和頼は窮屈そうに身を屈めて靴を脱いだ。その態度は主らしさに欠けてぎこちなく、視線も桜良を避けて伏せられていた。
そうした普段の様子から察するに、兄の和頼は妹の明里と違って、桜良を女中扱いすることに居心地の悪さを感じているようである。
幼い頃の和頼は、腹違いの妹の桜良にもいつも優しく話しかけてくれていた。
勘違いや自意識過剰でなければ、和頼は今も桜良のことを気にしてくれているはずである。しかし状況が変わってしまってからは、幼い頃と同じではいられずよそよそしい。
「先程、明里様のためにお茶を淹れましたが、和頼様も何かお飲みになりますか?」
和頼の脱いだ革靴を下駄箱にしまいながら、桜良は温かい飲み物が必要ではないかと和頼に訊ねた。
女中らしく振る舞う桜良を、和頼は一瞬だけ顔を上げてまともに見た。そして何か言いたげな顔をしたが、すぐにまた顔を伏せて聞き取りづらい声で答える。
「いや。俺はいらない」
そう言って桜良に背を向けて、和頼はコート姿のまま自室の方へと消えていく。
(一体和頼は、何を言いたかったのだろう)
桜良は和頼が伝えようとした言葉を考えながら、玄関で一人立ち上がった。
振り向き女中部屋に戻ろうとすると、廊下の進んだ先に人影があることに気づく。
それはじっと桜良を見つめる、これから人を殺そうかどうか理性的に迷っているような、複雑な表情を浮かべた都志子の姿であった。
(あの人が見ていたからか。和頼が黙ったのは)
和頼が何を言おうとしていたのかはわからない。
しかし和頼が黙った理由には納得し、桜良は礼儀正しく立ち止まって、都志子に深々とお辞儀をした。顔を伏せるのは、その方が都志子の怒りを買わずに済むからでもある。
幸いなことに、都志子が桜良に近づく気配はなかった。
顔の険しさをごまかすように、都志子は平静なふりをして何気ない言葉をかける。
「桜良さん。もうそろそろお食事の準備、お願いね」
「はい。かしこまりました」
深く頭を下げたまま、桜良は返事をした。
立ち去る足音がしてから顔を上げたので、そのときにはもう都志子の姿は廊下にはなかった。
(ちょっと話すだけで、そんなに警戒されるんだ)
重い緊張をといて、桜良は軽く息をつく。
桜良と和頼が満足に言葉を交わすこともできないのは、やはり都志子の目を気にする必要があるからである。
都志子は何よりも、和頼と桜良が親しい関係になることを恐れていた。
だから少しでも和頼が桜良に優しげに話しかけたのなら、都志子は桜良が和頼を誘惑したものと見なす。
そうしたときには都志子は、桜良は母親と同じ売女であり、見境なく色目を使うみだらな女なのだと、やわらかな言葉遣いで罵った。またさらに昔は言葉だけでは済まず、都志子は幼い桜良をしつけと称して土蔵に折檻したこともある。
都志子が万事そうした調子であるので、和頼は桜良がひどい仕打ちを受けないように、次第に距離を置くようになったのだ。
(お互い余計なことを言わなければ、とりあえず文句は言われないから)
女中部屋に戻り襖を閉めた桜良は、糸を解きかけた巾着を床から拾い上げる。
高窓から見える空の暗さは夕暮れの度合いで、都志子が言っていた通り、夕食の支度をしなければならない時間が近づいていた。
結局遠くにいるのなら、何を想われていてもたいした意味はない。桜良にとっての和頼は、そうした存在であった。
5 就寝
夕食とその片付けを済ませた桜良は、明里が失敗した巾着を縫い直し、一番最後の冷めてぬるい風呂に入ってすぐに就寝した。
少しでも長く眠らなければ明日も働けないので、自分のことをして過ごせる余暇は桜良にはない。
薄くひんやりとした布団にもぐり込み、桜良は電灯を消した暗い天井を見上げる。
(あの人もそんなに私が嫌なら、最初からどこかの養子に出せばよかったのに)
まるで他人事のように、桜良は都志子の選択を心のなかで非難した。
庶子を養子に出すのはめずらしい話ではないのだが、都志子は桜良を家からは出さなかった。都志子は自分から夫を奪った女の娘である桜良が、自分の目の届かない場所で幸せになることが許せないのだ。
見目も悪くなく、黙ってよく働く桜良は意外と縁談を持ちかけられるのだが、これも都志子が適当な理由をつけて尽く断った。
大戦後の皇国は西洋の国々ほどではないものの成人男性の人口が減っており、結婚相手を見つけることが難しくなっている。そのため桜良に縁談があるのは非常に幸運なことだったのだが、都志子がいる限り話が進むことはない。
桜良は都志子によって、檻のない牢獄に幽閉されているようなものである。
(だけど、この家を出ていけば幸せになれるとも思えない)
だんだん重くなってきたまぶたを閉じて、桜良は自分の将来の可能性について考えた。
例えば都志子が死ねば状況は変わり、桜良は誰か立派な人の嫁になったり、もしくは妾にしてもらったりできるのかもしれない。
しかし妾として大切にされ、美しいドレスや屋敷を与えられていた母親の、どこか淋しげな横顔を覚えている桜良は、異性に愛されればそれで幸せになれるのだとは信じられなかった。
決して、孤独が心地よいわけではない。
だが今更他人と深く関わって生きていける気もしないほど、桜良は孤独に慣れていた。
何も憧れず、何も望まず、ただいつか終わりが来るのを待つ。それが桜良の人生だった。
(あの広い森にいらっしゃる神様たちが知ってる時間の長さに比べれば、私が死ぬまでなんてほんの一瞬のはず……)
眠りにつきながら桜良は、西都の近郊に広がる聖域である「神在森」にいる神々のことを考えた。
人は神々を祀り、神々は人を祝福する。
桜良が暮らす国である皇国の各地には永遠に近い時を生きる神々がいて、特に西都の北にある神在森には格式の高い神々が招かれて住んでいる。彼らとの対面が許されているのは皇族や古い歴史を持つ旧家だけであるので、神在森は聖域として厳重に管理され神々の存在とともに祀られている。
神々に会う権利を持つ家系ではないため、それなりの名家である久世月家の人々も聖域の森には立ち入ることはできない。だから久世月家に認められた庶子ですらない桜良が、森の神々を目にすることは絶対になかった。
だが見ることができないからこそ、桜良は神々について考えることが好きだった。
(今を生きる私たちのしがらみも、きっと神様にとってはつまらないものだから)
桜良は一日の終りには必ず、祈るように神々の姿を思い浮かべる。学のない桜良には、正式な祈りの言葉も、本当の神の形もわからない。
しかしそれでも夜に布団の中で目を閉じたときには桜良は、暗い森の奥にいる神々に想いを馳せる。幼い頃はそれほど興味はなかったが、今は想えば安らげる存在だ。
(私が幸せでも不幸せでも、神様の前では小さな問題だと思えば諦められる)
こうして桜良は布団の中で何かを祈りながら、重く疲れた身体を泥に沈めるように眠りにおちた。
何を想像しながら寝ても、桜良の眠りは星の見えない高窓の外の夜空と同じで、暗くて寒々しい虚無であり夢も見なかった。
6 晩冬の来客
大晦日や元旦の休みもなく、冬の雲は桜良の頭上を通り過ぎていく。しかしそのなめらかで希望のない日々は、空気がわずかに緩みはじめたある晩冬の遅い朝に終わりを迎えた。
「あの、ちょっと」
客人の対応をしていた絹江が障子を開けて、桜良が掃除をしていた廊下に困った様子で顔を出す。
着物の上に割烹着を着て手ぬぐいを頭に被り、いつものように床を雑巾がけしていた桜良は、敷居のへこみを拭く手を止めて顔を上げた。
「何か、私がやることがありましたか?」
桜良は淡々と、必要なことだけを訊ねる。
お茶を淹れて出すくらいのことは、家事が出来ない絹江にもできる。しかし絹江は包丁や鍋を持たせると何もできないので、来客中もことあるごとに桜良を頼った。
だから桜良は、今日もきっと客人の手土産の羊羹を綺麗に切ってほしいとか、そういう用事なのだろうと思って冷めた気持ちでいた。
しかし絹江が口にした内容は、桜良が見越していたものではなかった。
「神祇省からいらしたお客様が、桜良さんにお会いしたいそうなんです」
絹江は自信がなさそうに、障子に手をかけたまま立っていた。
「神祇省の人が、私に?」
まったく自分との関わりがわからない突然の単語に、桜良はおうむ返しに聞き返す。
神祇省とは皇国にいる神々に関わる行政と祭祀を司る官庁であり、女中として生きている桜良と接点があるような存在ではない。
いくつも思い浮かぶ疑問についての答えを来客を取り次ぐだけの使用人が知っているはずもなく、絹江が何の説明も言えないまま桜良を急かす。
「理由はあたしにもわかんないんですけど。とにかく、客間に来てほしいそうなんです」
絹江は床を拭くために屈んだままでいた桜良を立たせて雑巾を預かり、困った表情のままこちらをじっと見つめた。
「えっと、とりあえず手ぬぐいと割烹着は外しときましょう」
みすぼらしい服装の同僚を少しでもましな姿にしてあげようと、絹江は桜良の頭を覆った手ぬぐいを取ってささやかな思い遣りを見せる。
「確かに、これはないほうがいいでしょうね」
割烹着を脱いで絹江に渡し、桜良はただの着物姿になった。隠すものがない分、ぼろ布のようになっている絣の生地が目立ってしまったが、着替えの着物も同じくらい古いのだから仕方がない。
「お客様は、こっちです」
絹江に案内されて、桜良は客間に通じる襖の前に立つ。そこは掃除以外では、ほとんど入らない部屋である。
(あの人に文句を言われないように、ちゃんと振る舞わないと)
何をするにしても桜良は、都志子の目を気にするくせがついていた。
室内に声をかけて確認し、絹江がゆっくりと真鍮の引手に触れて襖を開ける。
桜良はどんな感情で客人に会えば良いのかわからないまま、挨拶をするために急いで廊下に座った。
7 神の花嫁
「失礼いたします」
慣れない微笑みを浮かべて、桜良は姿勢よく座礼をする。
顔を上げればそこあるのはガラス窓の引き戸から庭の緑がよく見える客間であり、南向きの座敷全体が冬日向になっていて明るく暖かくなっている。床の間や違い棚には趣のある掛け軸や壺が置かれており、桜良が日々掃除をしているので埃はほとんどないはずであった。
部屋に入ってすぐの下座には、穏やかな表情に困惑を隠した都志子が座っている。
そして上座の方には見知らぬ洋装の男がいて、桜良と顔を合わせるとすぐに鷹揚な態度で声をかけた。
「あなたが桜良様ですか。どうぞ、こちらにお座りください」
まるで屋敷の主であるかのように、男は堂々とした笑顔で桜良に着席を勧める。
男は健やかに日焼けした褐色の肌をしていて、異国の血が混じっているようには見えないのに、洋装がよく似合う彫りの深い顔立ちだった。年齢はおそらく、二十代の半ばくらいだろう。少し長めに伸ばされた髪は後ろで束ねられ、かすかに選民意識を忍ばせた瞳は強かに輝く。
ゆとりを持って仕立てられたスーツは大人らしい濃紺のストライプで、臙脂色のネクタイには銀色のピンが光っている。靴下もポケットチーフも時計も、身に付けている物の一つ一つが、雇われの運転手が使っているような物とは違って上質に見えた。
身なりも顔立ちも洗練された男の姿に、桜良は目的がわからずただ戸惑いを深める。
(こんな美男子が、私に一体何の用があるって言うのだろう)
まずは言われた通りに、黙っている都志子の隣の、畳の上に敷かれた八端判の座布団に移動して座る。
まずどんな言葉を発するべきか桜良が迷っていると、盆を手にした絹江が部屋に入ってきて、緑茶の注がれた茶碗と饅頭の載った皿を置いて去った。
饅頭は雪の結晶の形の焼印が押された真っ白な薯蕷饅頭で、黒茶色の皿の上で小さくもつやつやとした光を放っている。
男と都志子の分の茶と茶菓子は先に並んでいて、都志子は手を付けていないが、男は皿も茶碗も空にしていた。
「西都の中でも屈指の評判の御菓子司で買ってきた饅頭だから、美味しいですよ。ぜひ、召し上がってみてください」
遠慮をさせない爽やかな強引さで、男は広げた手を差し出して桜良に菓子も勧める。
桜良は努めて愛想よく、お礼を言った。
「ありがとうございます。いただきます」
そしてうろ覚えの作法で饅頭を楊枝で切り分け、丁度良い大きさにして食べる。
口どけの良い漉餡の甘さをしっとりとした生地が包む具合が、職人の技を感じさせる上品な薯蕷饅頭であった。
頭の中が疑問で一杯の桜良は、饅頭の美味しさや餡の香り高さをゆっくりと味わえるほどの心の余裕はなかったが、名店の品だと言われたのでとりあえず褒め言葉を絞り出した。
「すごく、贅沢な味がします」
「でしょう? 僕は以前この饅頭を一日で三十個食べたことがあるのですが、それでも食べ飽きなかったんですよ」
饅頭を食べる桜良を満足そうに眺めて、男がよくわからない自慢を言う。
最後に桜良は、丁度良いぬるさになった緑茶を飲んで心を落ち着けた。高級店の饅頭は食べ慣れないが、緑茶はまだ味に馴染みがある。
桜良が茶碗を茶托に戻すと、掴みどころのないやりとりにしびれを切らした都志子が、頃合いを探って本題を切り出した。
「それではもうそろそろ、この家で雇っている女中にどんな用事がおありなのか、お訊ねしてもよろしいかしら」
婦人らしく少しの乱れもなく藍染めの紬を着て座る都志子はあくまで、桜良をただの女中として扱う。
そのあたりの事情を知っているのか、男は薄く笑って頷いた。
「桜良様もいらしたことですし、まずはもう一度自己紹介しましょうか」
答えを焦らすように、男は自分の名前と役職をゆったりと聞き取りやすい声で話した。
「僕は神祇省で典客官という、神々の客人等をお迎えする役職を務めております、津雲由貴斗と申します」
由貴斗と名乗る男は、にこやかに桜良を見つめていた。
生きた神々が各地に住んでいる皇国では、神と人間が様々な関わりを持って暮らしている。
神祇省はそうした神々と人間の関係を取り結ぶ省庁であるので、由貴斗が言うような仕事を果たしている者がいても不思議ではない。
相手が丁寧に自己紹介をしてくれたのだから、自分も改めて名前を言わなくてはならないと桜良は思った。
しかし桜良が口を開くよりも先に、少しでも早く由貴斗の目的を聞き出したい都志子が質問を投げた。
「この娘をどこかの神殿で巫女か何かとして働かせるために、あなたはいらっしゃったと」
態度には出さないものの、不可解な来客に苛立ってる都志子は、由貴斗に話を長引かせないように話しかけている。
その問いに対して由貴斗は、流れるようになめらかに、桜良が神祇省の職員と会わなければならなくなった理由を告げた。
「僕が参りましたのは、人に食されるために再生する神であらせられる御饌都之宇迦尊様のこの春のご伴侶に、桜良様が選ばれたためです」
そこで由貴斗は一度言葉を切り、少々考え込んでから説明を続けた。
「桜良様はその命と引き換えに神の肉を食すことができる『神喰いの花嫁』になることができる、と言ったほうがわかりやすいでしょうか」
「神喰いの花嫁」という言葉を聞いてやっと、桜良は自分が置かれた状況を理解した。
(神喰いの花嫁ってあの、昔話に出てくる神様の食べる女の子の……)
神の肉を食す少女と、死と再生を繰り返す食物神の物語は、皇国に生まれた人間にとっては常識に等しい昔話である。
また宇迦尊とも呼ばれるその神が、西都の北の神在森にいる神々のうちの一柱として今も生きていることは、学校へ行けず知識の少ない桜良でも知っていた。
宇迦尊が住む神殿では一年に一度か二度、「神喰いの花嫁」という名の巫女に選ばれた女性が宇迦尊に嫁ぎ、彼の肉を食して死ぬ儀式が行われる。花嫁に食されるために宇迦尊も死ぬが、彼は昔話と同じように花嫁の死後に生き返る。
それは季節のめぐりを言祝ぎ、豊穣や大猟を願う儀式として、古来より神在森で行われる数々の祭事の中でも特に重要なものとされていた。
(そんな神様に、私が?)
桜良は現実感のない気持ちで、由貴斗の説明を心の中で反芻した。これまでの自分の立場とはまったく釣り合わない空想であるような気がして、ただ黙って由貴斗を凝視することしかできない。
隣にいる都志子も桜良同様、男の説明を即座に飲み込めなかったようで、目を丸くして言葉を失っていた。
しかし都志子は冷静さは忘れてつつも、久世月家の女主人としてまず最初に反応を返した。
「ここにいる桜良が、神喰いの花嫁ですって?」
「はい。神祇省に勤めております卜部が、そう占いました」
うろたえる都志子をよそに、由貴斗は涼しい顔で桜良が選ばれた根拠を語る。
あまりにも突然の話であるので、桜良は何かの詐欺ではないかと疑ったが、由貴斗には本能的に神々とのつながりを信じさせる本物らしさがあった。
桜良がまだ何も言えないでいると、都志子が男から会話の主導権を取り戻そうと言葉を発した。
「この娘は卑しい出自の女を母に持つ、学も何もないつまらない女中です。縁あって我が家に置いていますが、そんな尊いお役目を果たせるような娘ではありません」
神の花嫁という栄光ある立場に妾の子である桜良がなることを、爵位はあるものの神々との距離が遠い家格に属する都志子は許さない。
だから何とかして都志子は、これまでと同じように理由をつけて桜良の縁談を断ろうとしていた。
(また今回も、この人が扉を閉ざすんだろうか)
絶対に桜良を家から出さないという、強い意志を感じさせる都志子の態度を前に、桜良は暗い気持ちで視線を落とした。
だが由貴斗は、都志子の言い分には全く耳を貸さずに言い返した。
「奥様。神喰いの花嫁は、出自や性質ではなく卜占が決めるものです。たとえ無知で淫乱で怠惰な下賤の身の女子であったとしても、卜部の結果が彼女だと告げれば彼女になります」
反論の内容をよく聞いてみると、由貴斗は桜良を侮辱するような言葉を使っていた。
神々を中心にした理の中で、桜良は人間性を無視されただの駒のように扱われている。
しかしどんなに見苦しい属性の人間でも構わないと言われているからこそ、桜良は由貴斗のことを信じられる気がした。
取り付く島もない由貴斗の姿勢に、都志子はひざの上に置かれた綺麗な手を握りしめて引き下がる。
「それは、そうなのでしょうが……」
易々と都志子を言い負かした由貴斗は桜良に向き直り、それまでの話の強引さの埋め合わせをする配慮を見せた。
「もちろん、革命後の我が皇国では基本的人権うちの一つである自由権が認められています。ですから桜良様が神喰いの花嫁になることを望まないのなら、ご辞退は可能です」
古いしきたりがすべてを決めていた以前の皇国なら、神に代わって国を統治する朝廷の政治は絶対的なものであり、民がその命令に逆らうことは許されなかった。
しかし数十年前に一部の海外の思想に影響を受けた青年たちが民主革命を起こし進歩主義の帝を即位させた結果、人権と呼ばれる西洋由来の概念が広まり、今では民の意志も尊重されることになっている。
これまでの桜良の人生には関係がないし、あまり本質を理解していない出来事であるが、現在の皇国はそうした歴史があって存在していた。
「神の肉を食した人間はその美味なる味の尊さゆえに命を失うことになりますから、花嫁に選ばれても断った方も当然います」
由貴斗は誰かが決めた規則どおりに、桜良に与えられた二つの選択肢を提示していた。
『神喰いの花嫁』になることを辞退した女性がいたというのも、おそらく嘘ではない。
だがいつどのような場合であっても、大半の国民は神と関わることができる機会を拒まない。たとえ自分の命や人生が犠牲になることがあっても、神々に選ばれ結ばれるのは至上の幸福なのだと信じる人々の気持ちは、革命後も変わらない。
神の存在に深く触れることができるのは、どんな身分の人間にとっても、何を引き換えにしても良いと思わせるほどに名誉なことなのだ。
「桜良様は、どういたしますか。お日にちを空けて決めることもできますが」
まだ桜良自身も頭に浮かべていない答えを見抜くまなざしで、由貴斗はこちらを見つめていた。
桜良は由貴斗に尋ねられてやっと、都志子ではなく自分が返事をしなくてはならないと理解する。
もはや都志子は口を挟む口実もなく、部外者として無愛想な顔で沈黙していた。
(私は何も持ってない。だから断る理由も、どこにもない)
まず桜良は控えめに、しかし積極的に、神喰いの花嫁になることを自分の中で受け入れた。
この先生きても何も得られない気がしていた桜良には、神の肉を口にすれば最後は命を失うしかないという前提は、むしろ好ましいものに思える。
これまで結婚生活に憧れを持ったことはなかったものの、その先の未来が生きる必要がないのなら、花嫁になってみたい気持ちはあった。
だから桜良は知っている限りの礼儀作法を使い尽くし、畳の上に手を揃えて正座のまま丁重にお辞儀をした。
「……私は、御饌都之宇迦尊様に嫁することを、謹んでお受けしたいと思います」
どこかで言葉遣いを間違えているかもしれないと思いつつも、桜良はかしこまった口調で神の伴侶として神を食すことを承諾する。
知らないうちに、桜良は笑みも浮かべていた。
桜良はこれまで、終わりの見えない辛い日々の中で終わりが来るのを待っていたので、思ったよりも早く人生の終末が訪れたことが嬉しかった。
「栄えあるご機会を私にくださり、誠にありがとうございます」
自分でも驚くほどに快活な声でお礼を言って、桜良は顔を上げた。
スーツ姿で座る由貴斗は、健やかな笑顔で一度黙ってうなずいてから、桜良の選択を祝福する。
「素晴らしいご決断、おめでとうございます。桜良様」
どちらが選ばれたとしても花嫁の選択を肯定するのが仕事であるらしい由貴斗は、あらかじめ用意されているのであろう言葉で桜良を祝福をした。
怒りを隠しきれない面持ちで横隣にいる都志子の表情を伺う必要は、もはや桜良にはない。
桜良は部屋の中を包む冬の終わりの日だまりのように、明るく暖かな気分になっていた。
8 白氷は溶けて
『神喰いの花嫁』になることが決まったその日に、桜良は女中の仕事から解放された。
さらに部屋も着物も伯爵家の令嬢にふさわしいものを与えられ、神に嫁ぐのに恥ずかしくないよう庶子として認められるための書類も急いで用意される。
また使用人として一人になった絹江はまったく家事ができないので、新しい女中が急遽雇われた。彼女は無口な老いた女性で、これまでの桜良と同じように黙って働いた。
それから卯月の輿入れまでの二ヶ月弱、家事の代わりに桜良がやらなければならなかったのは、並大抵ではない量の習い事である。
「久世月家から神に嫁ぐのなら、誰に見せても恥ずかしくない女性になってもらわなくては困ります」
都志子は半ば命ずるようにそう桜良に言って、習字や読み書き、歴史や文学などの一般的な教養などに加えて、茶道や華道などのお稽古事も学ばせる。
教育を受ける機会をもらえたことは、感謝すべきなのかもしれない。
だが長年の憎しみを捨てたわけではない都志子は、桜良に自信を持たせず劣等感を抱かせるためなのか、次々に無理な難題を押し付ける。
だから桜良の元には入れ替わり立ち替わり何かの先生がやってきて、空いた時間には抱えきれないほどの課題があった。
両親が死んでから今日まで掃除や洗濯、炊事に裁縫以外のことをさせられてこなかった桜良は、覚えなければならないことの多さになかなかついてはいけない。
(調味料とか洗剤の文字はわかるけれども、それ以外の言葉の漢字はさっぱりわからない)
暗く狭い女中部屋と打って変わり、広々として小綺麗な和室に置かれた抽斗付きの文机を前にして、桜良は「付け焼き刃の知識」という言葉の意味を現実に理解する。
机の上に広げた子供向けにふりがながふられた歴史の教科書は、絵が多く内容はわかりやすいものの読んでも身になる気配はない。
実際は神喰いの花嫁になるのに特に準備の必要はないと、由貴斗は説明していた。とはいえ、実情はともかく伯爵家から嫁ぐことになる桜良は、都志子の言う通り多少は令嬢らしさを取り繕わなくてはならなかった。
その必要性は理解できても、求められる通りになることは難しい。
(服だけは着てしまえば、どうにかなるのだけど)
簡単なようでわかりづらい教科書の文章から視線を外し、桜良は前掛けや割烹着を身に着けていたときとは違う自分の装いに視線を落とした。
死ぬまで働き通しの女中ではなくなっても、結局桜良に自由はない。
それでも青磁色の雪輪模様の着物のやわらかな着心地には、立場が変わったことを実感する。明里のお下がりであってもその着物は、朧げな色彩が桜良の細身によく似合う一枚だった。
目を上げれば文机の近くの窓からは、庭で木々の傷んだ葉を取り除いている庭師の男の姿が見えた。
季節は雪が溶けて水になる頃で、雀も番を探して鳴き、朝夕は寒いが昼の寒さは和らいでいる。
その淡く明るいの新しい季節の兆しに、桜良は人生で最良の春の訪れを感じていた。
たとえ自分の好きにできる時間がなかったとしても、桜良には花嫁にどんな瑕疵があっても受け入れ終わらせてくれる神がいる。そのことを考えれば桜良は、これまでの理不尽なこともすべて報われた気がする。
そして桜良が再び勉強に戻ろうとしたところで、襖の外から絹江の声がした。
「失礼いたします」
以前よりも恭しくなった絹江の呼びかけに、桜良は「どうぞ」と短く返事をする。
絹江は襖を半分開けて、中には入らず要件だけを伝えた。
「呉服屋の坂井様が、花嫁衣裳用の反物の見本を持っていらっしゃいました」
「わかりました。今から行きます」
机の上の教科書をしまい、桜良は立ち上がって部屋の外に出た。
廊下では絹江が待っていて、侍女のように桜良に付き従う。
そして絹枝は呉服屋のいる部屋まで桜良を案内して、また襖を開けた。
「おはようございます。よろしくお願いいたします」
客間には表面上は温和に振る舞う都志子もいたが、桜良はなるべく物怖じしない態度でお辞儀をする。
もうすでにいくつかの反物を広げて待っていた呉服屋の中年男性は、愛想良く挨拶を返した。
「神喰いの花嫁になられるこんなにお綺麗なお方の御衣裳を仕立てることができるのは、私どもといたしましても非常に光栄なことでございます」
お世辞に迷いのない愛想の良さで、呉服屋は桜良に話しかける。
容姿を褒められたことが嬉しくて、桜良はより一層誇らしい気分になった。
だが表情が明るくなっていく桜良をたしなめるように、都志子は皮肉を挟んだ。
「見せかけは何とかできても、なかなか中身はちゃんとしませんから、坂井屋様の御衣裳のお力を借りたいところでした」
都志子はやわらかな物腰で微笑んで、分別のある継母のふりをする。しかしそうした態度の裏にある敵意は、以前よりも力を失っていた。
せめて最後に自信を奪おうと、都志子が粗探しをして文句をつけても、終着が見えている桜良にはそれほど恐ろしいものではない。
(それに私は多分、優越感を抱くことが好きなのだと思う)
神々に関わる運命によって敗北した都志子を前にして、桜良は仄暗い喜びを覚える。
以前の桜良は、自分は謙虚で我慢強い人間だと思っていた。
しかし実際は敬われるのは気持ちが良く、これまで散々不当な扱いを強いてきた都志子が、桜良の美しさを認めざるを得ない状況を見るのはすがすがしい。
桜良は自分が自分に評価を下していたほどには、清らかな心を持っていなかったことを知りつつあった。
「どの唐織も、一級品だけをご用意いたしました。細かな柄のものも、大胆な柄のものも、どちらも桜良様にはきっとお似合いになると思います」
様々な柄が織り込まれた白地の布を桜良に見せて、呉服屋が微笑む。
桜良にはとても豪奢なこと以上にその布の価値がわからなかったが、後ろに控えていた絹江がうっとりとした嘆息をもらしたので、本当に素晴らしい品なのだとわかった。
着る機会は一生ないような気がしていた花嫁衣裳の準備に立ち会い、桜良は神の伴侶になれる幸運を噛み締めた。
もしかすると毎晩寝るときに神に祈っていたから、想いが届いたのかもしれないと自惚れる。
(私は今更、教養のある人間にはなれない。でも確かに見かけだけなら、どうにかできるはずだから)
女中として虐げられていたときでさえ、桜良は自分の容姿にそれなりだと自負していた。
だから呉服屋に対しては怯まずに、お世辞も素直に喜んで話を聞いた。
9 家族の食事
桜良は神喰いの花嫁に選ばれたことでまた、なし崩し的に嫡子と同等の存在として認められ、久世月家の人間として日常の食事も家族と共にすることになった。
夕食の時間になると、家紋が描かれた立派な器の載った食膳が、花菱の透かしの入った電笠付きの電灯で明かりをとった座敷に並ぶ。
黒い漆塗りの皿や椀には鮃の煮付けや小松菜の味噌汁など、桜良の代わりの女中が作った質素だが滋養のある旬の献立が盛り付けられていた。
(自分で作らなくても料理が出てくるのは、ちょっと変な気分がする)
席次によって決められた端の席に座り、桜良は自分で作ったものよりも美味しそうに見える夕食をしげしげと眺めて箸を手に取る。
台所の隅で一人で食べる食事と違って、その部屋には家族と呼べるようになったらしい人たちが隣にいる。
しかし和頼は相変わらず黙り込んでおり、都志子も何も言わずに料理に箸をつけていたので、いわゆる今風の一家団欒という雰囲気にはならなかった。食事中は喋ってはならないという昔ながらのしきたりを使って、彼らは桜良との間のわだかまりから逃げている。
(今から打ち解けて話せって言われた方が困るから、私は別にこれで良いけれども)
桜良は沈黙を気にせずに、鼈甲色の煮汁に浸かった鮃の身をほぐして、艶のあるふっくらとした白米と一緒に食べる。
だが元々引け目も何もない明里だけは例外で、一足先に茶碗に盛った白米を平らげ、二杯目を頼み待っている間に隣の桜良に話しかけた。
「神喰いの花嫁になること。桜良は嫌ではないのよね」
「ええ、まあ。嫌ではないです」
桜良は言葉少なく頷いた。使用人だった頃の明里への態度を急に改めることはできず、結局敬語を使っている。
物珍しい見世物を見るようなまなざしで桜良を見つめ、明里は「ふうん」と相づちをうってまったく誰にも配慮することなく考えを述べた。
「神様に嫁ぐことができるなんてありがたい話だけど、私なら絶対に辞退するわ。だって私には、私には大事な将来を決めた人がいるから」
その素朴な感想はごく自然に、桜良を何一つすがるものがない哀れで孤独な人間として見下していた。
悪意がないのに人を傷つける鋭い言葉選びに、桜良はかえって感心する。
明里のあまりの心のなさには、桜良だけではなく兄の和頼と親の都志子も表情を強張らせた。
婚約者である直芳に脳天気な恋をしている明里と違って、和頼と都志子はそれほど幸せに生きているわけではない。明里は気まずさや疚しさから距離を置くことに異常に長けているので、彼女以上に心から幸福な人間を探すのは困難である。
「明里。そんなにべらべらと喋りすぎるのは……」
不必要に不協和音を大きくする明里を、都志子はそれとなくたしなめようとした。
しかしある意味では平等に、誰に対してでも気を遣わないで鈍い明里は、母の忠告を無視してさらに決定的な一言を桜良に刺した。
「でもあなたには誰もいないから、結局死んでしまっても困らないのね」
親切そうに配慮し、勝手に納得するような調子で、明里は桜良の尊厳を踏みにじった。
他人の人生を死んでも困らないはずだと評価するのは、普通に考えればひどい話である。
だが言いたいことを言ってしまうと、明里は小皿の上の白い大根の漬物を口に放り込み塩分を味わっていた。
(明里の言っていることは、間違ってはいないけれど)
自分が神喰いの花嫁になることを決めた理由を振り返り、桜良は冷静なままでいる。
以前の桜良なら、何かを言えばよりみじめになる気がして、そのまま黙っていたかもしれない。
しかし今の桜良は、これまでと同様に冷めてはいても、怖いものがない気分だったので、一つ自分の意見を言ってみた。
「そうですね。他に誰かがいたら、私は神様を選べなかったかもしれません」
宇迦尊という神のことを、好きになれるかどうかはわからない。それでも桜良は、神に嫁げば幸せになるのだと信じている。
その決意を聞いているのかいないのか、明里は絹江が運んできた二杯目の茶碗を受け取り上機嫌でいた。
再び静かになった部屋で、都志子は目を伏せて桜良の言葉を無視した。
桜良はそれ以上はもう、明里の反応も都志子の顔色も気にしないことにした。
淡く塩辛く温かい味噌汁を飲んで桜良が顔を上げると、正面に座る和頼がこちらを見ていたようで、一瞬目を合わせると後ろめたそうに視線をそらされた。
暗い表情で俯き、食事もあまり進んでいない様子の和頼は、桜良がこれから神に嫁いで死ぬことに動揺しているようにも見える。
だが自分のことで心を砕いているのであろう和頼を目の前にしても、桜良は黙り続ける彼の想いを汲もうとは思えなかった。
(和頼は私のことをちゃんと考えてくれていたのかもしれない。でも結局何も言えないなら、大事な誰かにはならないから)
今このときも和頼の横には都志子が見張るように座っていて、庶子の妹と嫡子の兄の関係は自由にはならない。そのことは理解しているが、桜良はただの想いだけをありがたがることはできない。
食べなければ空腹は満たされないように、桜良にはただ見つめられるだけではない、誰かの何かが必要だった。
人に食べられるために生まれて死ぬ神の肉は、料理が得意な女中が作った夕食よりも美味しいはずで、その食べた者が死んでしまうほどの美味しさが桜良の灰色の日々のむなしさを埋めてくれるはずである。
その幸せを信じて、桜良は食膳に載った食事を食べ続けた。
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