神喰いの花嫁/虐げられた少女(後篇)
10 花嫁衣裳
卯月の中旬のある縁起の良い日が、桜良が神喰いの花嫁として久世月家を出ていくときになった。
屋敷では花嫁の門出を祝う宴が開かれて、桜良には思い入れのない客が集まっている。
しかし花嫁本人である桜良にはやるべきことがたくさんあるので、宴で振る舞われるご馳走を食べる時間はない。
日差しは暖かいが空気にはひんやりとした清々しさのあるよく晴れた日の自室で、桜良はさらさらと肌触りが良い長襦袢を着る。
本来なら家族が支度に関わるものなのかもしれないが、明里や都志子が桜良の面倒をみる雰囲気ではなかったので、代わりに絹江が手を貸してくれた。
「それじゃあ、始めますよ」
「はい。お願いします」
使い込まれた道具を机に並べて声をかける絹江にすべてを任せて、桜良は鏡台の前に座った。
絹江はまずコテを使って髪のクセをとり、鬢付け油を使って両鬢や髱に分けてまとめていく。
身支度の手伝いは絹江の本来の仕事であるので、家事と違って慣れた様子で手際は良い。
やがて結い上げた髪が乱れなく整ったところで、絹江は櫛やヘラを片付けて今度は化粧道具の入った抽斗を開けた。
「次はお化粧ですね」
普段よりも若干自信がありげな絹江は、てきぱきと手のひらで化粧油を温めて、下地として桜良の顔や首になじませた。
そして練白粉を小皿にとると、水で薄く溶かして刷毛で桜良の肌に塗る。
(白粉は、ちょっと苦手)
ぬるりと冷たい白粉が頬に触れる感触に、桜良はびくりと身体を震わせた。化粧とは縁のない生活が長かったせいか、何度してもらっても慣れることはない。
そうした桜良の戸惑いは意に介さず、絹江は顔だけでなく手や衿足にも白粉を塗っていく。
肌がほの白くなるとさらに、まぶたにはぼかし紅が、眉には眉墨が施された。
濃い白粉の匂いの中で桜良は、鏡に映る自分の顔が淡く彩られていくのをただ見つめる。
水化粧が終われば白無垢の着付けがあって、絹江は衣紋掛けから幸菱が織り込まれた真っ白な掛下を手に取って微笑んだ。
「お衣裳、間に合って良かったですよね」
「はい、本当に」
絹江の他愛のない言葉に、桜良は静かな喜びを込めて頷く。
掛下も打掛も呉服屋の職人が今日に間に合わせてくれたもので、誰のお下がりでもない桜良のための衣裳である。
長襦袢の上に掛下を裾を引いて重ね、やや高めの位置で銀襴緞子の立派な帯を締めて打掛を羽織る。
「もうほとんど、最後です」
白無垢の花嫁衣裳を無事に着せた絹江は、古風な銀細工の花笄を木箱から出して髷に挿した。
そして仕上げに、桜良のくちびるに小筆で紅を塗る。
桜良は軽く目を閉じ、絹江がくちびるの形を筆でなぞるのを感じていた。
本来の紅差しは母が娘の幸せを願って送り出す儀式であるが、絹江はただ仕事として、桜良を花嫁人形を飾るように桜良を美しくする。それはもしかすると寂しいことなのかもしれないが、特に深い意味はないからこそ、桜良は差し出された善意を安心して受け止めた。
「これで、終わりました」
長い時間をかけてやるべきことをすべてやった絹江は、満足そうに息をついて桜良を姿見の前へ連れて行った。
誘導されるまま鏡の中を覗けば、白地に銀糸で流水に満開の桜の意匠が刺繍された白無垢を着た桜良がすました顔で立っていた。
煌びやかで上品な光沢のある正絹の打掛が、桜良の華奢な身体の美しさを儚く繊細に引き出す。薄く施された化粧によって瑞々しく冴えた面貌は、まったく違う装いのはずなのに、いつも異国の服を着て紫煙を揺らしていた母親に似ていた。
(私と違ってたくさん愛されていたのに、幸せそうじゃなかったお母さん)
心からの笑顔を見た覚えがない亡き母親の姿を自分に重ね、桜良は不器用に微笑んだ。母は桜良に幸せになる方法を教えてはくれなかったが、美しい人間の振る舞いは記憶に残してくれていた。
その微笑みの意味を知らない絹江は、安心した様子で桜良に話しかける。
「まあまあ緊張したんですけど、上手くできましたよね」
「はい。ありがとうございます」
桜良は本来の気持ちよりも純粋で前向きなふりをして、お礼を言った。綺麗になって嬉しいのは嘘ではないが、期待されているよりもずっと冷めた喜びを抱いている。
それから桜良は、絹江が用意したもう一枚の鏡を使って華やかに裾が広がった後ろ姿も確認した。
しばらくすると座敷で客人の相手をしていた都志子と明里も様子を見に来て、桜良に何もかも予定通りに進んでいることを告げ、適当に話しかけた。
「桜良は名前にちなんで、桜の刺繍の打掛なのね。私の場合なら夫と二人で長生きしたいから、縁起良く鶴や亀の文様にしたいけれどもどうかしら。簪はそうね、藤の花みたいな飾りが揺れる金色のもので……」
明里は品定めするように桜良の衣裳を見ながら、いずれ着ることになる自分の花嫁衣裳についての希望を絹江や都志子にまくし立てている。
真っ赤な振り袖を着た明里の横に佇む黒留袖の都志子は、改めてよく観察すると桜良が今まで考えていた以上に老いていた。落ち着きはあっても若さは失っていなかった昔の姿と違って、今は積み重なる年月の重さに疲れて抗うことを諦めていた。
(それに今日のこの人は、昨日までと何かが違う)
そう重要ではない明里の話は聞き流しながら、桜良はそっと都志子の顔色を探る。
見たところ都志子の瞳に宿っているのは、憎しみや憤りではなかった。
どうやら桜良に対して何もできることがなくなった都志子は、畏怖と切望が入り混じったまなざしをこちらに向けているようだった。
より古い時代を生きてきた都志子は、部屋にいる他の誰よりも神に嫁いで神を食す花嫁の神聖さを信じていて、選ばれた少女を畏れている。また同時に都志子は、自分には与えられなかった幸運を羨ましがってもいた。
「良かったわね。素敵にしてもらえて」
「はい」
誰にも選ばれなれなかった失望を込めて、都志子が桜良に声をかける。
余計なことは言わないように注意して、桜良は短い返事をして頷いた。
(この人が妬むってことは、私はやっぱり幸せになるんだ)
障子越しに差し込む午後の日差しが、部屋に影を作り出す。
その光と影の間に桜良は立ち、幸福を手にする確信を他人のまなざしによってより強めた。
11 屋敷の外へ
そのうちに、迎えの車が屋敷の前に着いたという知らせがあり、桜良は白い草履を履き、綿帽子を被せてもらって表玄関から外に出た。
鬼瓦や妻飾りが重厚な表玄関は、土間や式台の掃除はしたことがあっても、通り抜けて出ていくのは最初で最後のことである。
迎えの車が止まっている場所までの短い道のりであるが、桜良は形式的に花嫁行列の形をとって歩いた。
桜良の背後では絹江が朱柄傘をさして花嫁を太陽から隠し、さらにその後ろには蒔絵の装飾のついた長櫃を担いだ使用人が続く。
踏石の敷かれた道の脇には、宴に呼ばれていた親族が並び、物珍しげに桜良を見ていた。
裾を踏まないように右手で褄を取り、絹江がさす傘の影から外れないように、桜良はゆっくりと前に進んだ。
話したり声をかけたりする者はほとんどおらず、聞こえるのは先導役の鈴のちりんちりんという音だけである。
花嫁は美しく黙っているのが、美徳であるとされている。
気づけば太陽は西の空で沈みかけていて、人も木々も茜色に染まっていた。その郷愁を誘う光の中で、桜良は幼い日のことを思い出す。
(昔はこのあたりで、和頼や明里と遊んだものだけれど)
ちょうど懐かしくなったところで、都志子と並んで立つ和頼と明里の前を通り過ぎる。
しかし作法通りに俯き黙って歩く桜良には、三人の親子の表情はわからない。結局彼らは桜良の本当の家族ではないので、わからなくても困らない。
別れらしい気持ちもないまま集まった親族を後にして、桜良は屋敷の敷地の外を目指した。
夕暮れの風が肌寒いはずの気温だったが、花嫁衣裳を着込んだ桜良は冷たさを感じなかった。
黒くくすんだ欅の木材が歴史の古さを感じさせる瓦屋根の門をくぐり、白塗りの塀を囲むように伸びている小道を進むと、客用の駐車場として使っている芝草の空き地に出る。
花嫁を迎えに来た黒塗りのクーペはその空き地に駐めてあって、神祇省の高官でありながらも運転手も兼ねているらしい由貴斗が車外で桜良を待っていた。
「荷物は後ろのトランクに。桜良様はこちらのお席にどうぞ」
前回の訪問時とは違う漆黒のスーツを着た由貴斗が、ドアやトランクを開けて指示を出す。
「荷物は、ここですかね」
使用人は長櫃を下ろしてトランクに載せ、紐で固定して一息ついた。
長櫃と同じように桜良も、綿帽子を天井にぶつけないように身を屈めて、黙ったまま後部座席に収まる。
真新しいクーペの枯茶のシートはなめらかで触り心地がよく、広々と足を伸ばせる広さを持っていたが、白無垢の桜良は窮屈に座ることしかできなかった。
桜良が席につくと、絹江は傘を畳んでお辞儀をしてクーペから離れる。
そうした何人かの付添に見守られて、桜良は長年暮らした屋敷を離れようとしていた。
「準備ができたなら、出発しましょうか」
運転席に乗り込んだ由貴斗は、シフトレバーでギアを操作し、鍵でエンジンをかけながら桜良に確認した。
だが桜良が頷こうとしたそのときに、後部座席の窓を誰かが叩く。
桜良が横を向くと、車の外には和頼が立っていた。礼服の代わりに学生服を着た和頼は、なぜか桜良を追ってここまで来て、車の中を覗き込んで軽く窓ガラスを叩いている。
「彼は、桜良様のご兄弟ですよね」
車の近くに和頼が来たことに気づいた由貴斗が、サイドブレーキを握ったまま下げるのを止める。
桜良は返事をせずに、じっと和頼の顔を注視した。
和頼の表情は普段どおり曇っていたが、最後の最後に勇気を出して桜良にずっと言えなかったことを言おうとしている。
ためらいがちに口を開く和頼の声は、ガラス越しに桜良の耳に届いた。
「桜良。俺は……」
遠い昔に白い帽子を被った桜良の母の姿に見入ってときと同じ、恋い慕う熱を込めた瞳で、和頼は桜良を見つめていた。
父親の妾であった桜良の母に幼い恋をしていた和頼は、その娘である桜良に想い人の面影を重ね、今もまた恋をしているようだった。
(そうか。だから和頼は私を……)
桜良は紅をのせたくちびるを閉ざしたまま、拒絶するわけでもなく、受け入れるわけでもなく、ただ和頼を見つめた。
これまでの桜良は、和頼の好意に気づいてはいても、態度をはっきりさせないその本当の意味までは掴んでいなかった。
だが今日はたとえ声が聞こえなくても、凛々しく見えて陰りを秘めたその瞳の奥の感情を探るだけで、桜良には和頼の気持ちがすべてわかる。
真面目で良識のある和頼は、桜良に兄妹以上の愛情を示すことを理性で抑え続けていた。しかし心の底では、神に嫁ぐ桜良を引き止め、自分のものにしたかったのだろう。
慕情の宿る和頼の表情は、手も触れられないのに桜良のすべてを求めていて、同時にその欲望を恥じていた。
(私がいてもいなくても、和頼はこの先絶対に幸せになれないんだ)
選んだわけでもなく非道徳的な恋心を背負わされた兄の不幸を、桜良は窓ガラスに触れる和頼の手のひらを眺めて理解した。
桜良が和頼の腹違いの妹として生きている限り、和頼の願いは歪んだ形でしか叶わないし、そして和頼はその歪みに耐えられる人間ではない。
しかしこのまま桜良が神喰いの花嫁としてこの世を去ったとしても、和頼の恋は永遠に報われない過去として、彼の心を縛り続けるだろう。
都志子は和頼の想いに気づいていて桜良を遠ざけたのか、それとも遠ざけられたことが彼にとっての妹の価値を高めたのか。その違いについて考えることにはもう意味はなく、一度抱かれた恋心は消えることなく残り続ける。
どちらにせよ辛い目にあうしかない、夕日が影を落とす和頼の顔に、桜良は他人事のように同情した。
切実な気持ちを打ち明けようとする和頼を目の前にしても、桜良は兄のことを好きにも嫌いにもならなかった。何も言葉を交わさずに過ごしてきた日々の長さは、今更無かったことにはできない。
しかしその重苦しさが十分に伝わった今は、和頼に想われることが無意味だとは思わなかった。
だから何が和頼の救いになるのかわからない桜良は、薄く化粧をした顔に精一杯に幸せな微笑みを浮かべる。立派な花嫁衣裳を着て神に嫁ぐ自分は、何も思い残すこともなく幸福なのだと伝えようとする。
(切り捨てることも、選び取ることもできないなら、わからなかったことにするしかないから)
桜良は最初から何もできない人間だし、何かすることができても誰にも変えられない未来もある。
だがそれでもきっと綿帽子に包まれて目を細める桜良の笑顔は、白い帽子を被った母の姿以上に、和頼の心に残るはずだった。
何も気づいていないふりをしてしきたり通りに黙り、最後に兄に見送られることを喜ぶ純粋な妹として振る舞う桜良に、和頼はどうにか口にしようとしていた言葉を失う。
「……じゃあな。達者でな」
その代わりの何も面白くない別れの挨拶を、和頼は泣き出しそうな震える声で言った。その声はあまりにもくぐもってはっきりしなかったので、窓ガラスを挟んだ桜良はあやうく聞き逃してしまうところだった。
そしてまた和頼はこれまでと同じように俯き、下ろした前髪の奥に瞳を隠して遠ざかる。迷いやためらいを見せながらも、諦めて桜良の側から去る。
本当の望みが何であれ、残されたものは一人で生きる他に道はなかった。
親戚たちが並ぶ列に和頼が戻るのを見て、桜良は窓の外を覗くのをやめた。
「用は済んだみたいですね」
桜良と和頼のやりとりが終わったのを確認した由貴斗が、サイドブレーキを下ろして車を発進させる。
クーペは低速で空き地を出て、雑木林や田畑を通る農道に出ると次第に加速して流れるように走っていく。
振り返らずに目を伏せ続ける桜良は、後ろの窓の向こうで並ぶ人や屋敷の門が小さくなっていく光景も見なかった。
血縁のしがらみから一足先に抜け出るのは清々しい気分で、どうやら和頼に微笑んだ気持ちは嘘ではなかったことに桜良は気づいた。
(お母さんと同じように、私も車に乗ってもう戻らない)
鈍く身体に響く車の排気音を聞きながら、桜良は父と母が海に出かけたまま帰ってこなかった日のことを思い出す。
生きている二人を見た最後の記憶だからなのか、桜良は見たことも聞いたことも鮮明に覚えていた。
(お父さんは自分の車は十二気筒だって自慢してたけれども、それはこの車よりもすごいものなのだろうか)
自分がもうすぐ死ぬことも知らずに無邪気に自動車の話をしていた父親の言葉を思い出し、桜良は運転席の由貴斗の方を向いた。
「あの、十二気筒の車って特別なものなのですか?」
車の良し悪しや違いがまったくわからない桜良は、自分よりは詳しそうに見えた由貴斗に教えてもらおうとする。
しかし由貴斗は、慣れた手付きでハンドルを握ったまま首を傾げた。
「さあ、どうなんでしょう。僕は運転はできますが、技術的なことに詳しいわけではないので」
遠い視線で前を見ている由貴斗の横顔が、かすかに桜良に注意を払う。
「桜良様は、自動車にご興味がおありですか?」
「いいえ。ただ、父が車が好きだったので」
もしかすると茶道や華道よりは自動車に関心があるのかもしれないが、特にこだわりがあるわけではないので桜良は首を振った。
「お父上が、そうでしたが」
桜良の両親の事故の詳細を知っているのかいないのか、由貴斗は納得した顔で質問を終える。
特に他に話したいこともない桜良は、助手席にかしこまって座ったまま今度は窓の外を見た。
いつの間にかクーペが走る道は郊外を横切る農道から市街地の脇を走る幹線道路になっていて、周囲を走る車も車線も増えている。
石細工の正面が重厚な洋風の商店に、ひときわ高く煉瓦で建てられた時計塔。白い漆喰がまぶしい土蔵造りの町家に、屋根付きのテラス席で人がくつろぐレストランなど、曲がって分かれた道の先に広がる市街地にひしめく建物は和洋様々な文化が溶け合って華やかだ。
またさらに車道の横には透かし彫りの飾りのついたガス燈が等間隔でいくつも並び、刻々と暗さを増していく夕暮れを明るく照らしている。
時折通り過ぎる他の車のヘッドライトの光に目をすがめながら、桜良は久しぶりに見た市街地のにぎわいに驚いた。西都の中心部は幼い頃に母に連れられて来たときよりもさらに栄えていて、集まる人や物の多さに自分が知る世界の狭さを実感する。
屋敷の外には人々が楽しげに買い物をしたり食事をしたりするきらびやかな場所があるが、桜良にはもうその中に入る機会は与えられていない。
しかし桜良は、広くまぶしい世界を知らないまま神在森で待つ神のもとに行く自分の人生に、それなりの価値を感じていた。
(きっと何も知らないほうが、神様だけをより深く知ることができるから)
触れられそうで遠く車の窓の外を流れていく街の景色を前に、桜良は白粉を塗った手をひざの上で組んだまま微笑んだ。
桜良は自らの命と引き換えに神の肉を口にする機会を得た存在であり、その死は神の再生のためにある。
だから白無垢を着せられ、物も言わずに黒い自動車で運ばれる桜良の姿は、葬送の棺の中で眠る死者に似ていた。
桜良は死者だから生きていく人のことはわからないし、またわからなくてもいいのだ。
12 神在森
由貴斗が桜良を乗せて走らせるクーペは、幹線道路を抜けると検問所を通って神在森に入った。
神在森は、日が完全に沈んだ夜の闇の中でも橅の木の新緑の濃さがわかる、鮮やかな静けさに満ちた場所だった。
生い茂る葉の隙間から差し込む月明かりが木々の幹とともに青白い縞模様をつくり、夜の霞が寝静まった生き物の気配を隠した森全体を薄い紗のように優しく包む。
神聖で厳かな夜の森の光景は、見るものに神々の実在を信じさせる。
しかし膠石で舗装された道は車が二台すれ違えるほどの幅があり、複雑に枝分かれして広がっていたので、すべてが手つかずの自然というわけではなくあちこちに人の手が入っていることも確かだった。
おそらくこの地に招かれた神々の数だけ、道が分かれているのであろう。人間と同じように、神々もまた新しい中央集権的な国の仕組みの中に身を置いている。
そうした選ばれた神々に選ばれた人間たちが守り整備する聖域の中で、一台だけになったクーペはヘッドライトの機械的な光で行く先を煌々と照らしていた。
「もうすぐ到着しますよ」
標識のない分岐を迷いなく曲がりながら、由貴斗は桜良に声をかけて安心させる。
初めての場所に興味深く窓の外を見ていた桜良は、何も考えずに返事をしようとしたが、目に留まったあるものに注意を引かれた。
「あれは……」
桜良の視線の先には、暗い森の奥に堂々と建てられた巨大な洋館があった。明かりもなく暗いものの、離れた場所からでもわかるほどに軒下や窓の装飾は凝っていて、その華々しさは森の神秘的な雰囲気とは不釣り合いである。
唐突に現れた異質な光景に、桜良は訝しんだ。しかし由貴斗は横目で洋館をちらりと見ると、何でもないことのように説明する。
「あの建物は、宇迦様が今の神殿に飽きたと仰るので、新しく建設している洋館です」
神が異国趣味の洋館を求めるという、皇国の民が神々に対して抱いている心象に反する組み合わせに、桜良は思わず驚き声を上げた。
「神様って、洋館に住むものなんですか?」
「御饌都之宇迦尊――つまり宇迦様は、とても飽きやすいお方ですから」
桜良の問いに対する由貴斗の答えは、至極単純なものだった。
その一言で納得できるわけではなかったが、宇迦尊に仕えている由貴斗がそう言うなら桜良は受け入れるしかない。
背後に遠ざかっていく洋館を振り返り、桜良はこれから会うことになる宇迦尊の性分について考えた。
(私の夫になってくれる神様は、飽きっぽい方なんだ)
せっかく神に伴侶として選ばれたのに、飽きられてしまうのは怖いことである。しかし神喰いの花嫁である桜良には、飽きる暇もないほどすぐに終わりがくるのだから心配はなかった。
やがて道は直線になり、排気音を響かせて進むクーペは森に溶け込むように建てられた石造りの鳥居をいくつかくぐる。その終着点に楼門が見えたところで、由貴斗はその神が待つ場所の名前を告げた。
「あちらが、宇迦様の神殿である甘醒殿です」
月光に照らされた杮葺きの屋根が輝き、赤々と焚かれた門火よって丹塗りの赤い垂木や柱が暗い森の中に浮かび上がる。
(ここで私は、神様を食べて死ぬ)
桜良は前方の窓の向こうに視線をやって、深く息をついた。
見知らぬ場所に来ているはずなのに、桜良は不思議な安心感を覚える。それはやはり自分が神の伴侶となる存在だからなのだと、桜良は与えられた運命を確信した。
13 与えられた役割
「ここから本殿までは、少し歩きます」
楼門を支える石段の前でクーペは止まり、桜良は車から下りて由貴斗と二人で歩いた。
玉砂利が敷かれた敷地の中には大小様々な伝統的な様式の建物があって、由貴斗がいなければどちらへ歩けば良いのかもわからない。
真っ暗になった夜空には星々が瞬いていて、時刻はもう午後の八時か九時くらいだと思われた。
しかし神殿の周りは森が切り開いてあり、道の脇に置かれた石灯籠や建物の軒下に掛けられた吊り灯篭にはたくさんの明かりが灯されていたので、足元が見えないということはない。
履き慣れない厚底の草履とゆったりと長い白無垢の裾に苦心しながら砂利の上をしばらく進むと、桜良と由貴斗はひときわ立派な館の前に出た。
檜皮葺の屋根と連子窓のついた回廊がどこまでも続くので、桜良には館全体の大きさを推し量ることもできない。
回廊の向こう側に通じる入り口らしき木製の板扉は開け放たれていて、その前には一人の男が立っていた。
「よく来たな。神喰いの花嫁」
よく通る声で桜良に呼びかけた男は、質素な熨斗目色の作務衣のような服を着ていたので、彼が由貴斗とは違った形で神に仕える人間であることはすぐにわかった。
何をどう返事を返せば良いのかわからないまま、桜良は男に近づいてみた。すると男の姿が、由貴斗と双子のようによく似ていることに気づく。
よく日に焼けた肌の色も、彫りの深い顔立ちも、束ねた黒髪も由貴斗と瓜二つで、やや雰囲気が鋭い他に違いはなく、服装が同じなら他人の桜良には見分けがつかないだろう。
思わず桜良がじろじろと見比べていると、由貴斗が自分と瓜二つの男について紹介する。
「彼は津雲真那斗。僕の従兄弟で、この甘醒殿で内膳官として働いています」
真那斗と呼ばれた男は、自虐的な微笑みを浮かべて由貴斗の説明を補足した。
「内膳官、と呼ばれることもある。由貴斗と同じ神祇省の官僚だが、まあ平たく言うと神様の料理人兼使用人みたいなものだな」
つまらない身分であるかのように話しているが、親戚関係にあるらしい二人はおそらく神々に仕える歴史ある一族の生まれで、本来は桜良よりもずっと高貴な存在なのだと思われた。
しかし料理人であり使用人でもあるという真那斗の自己紹介に、女中として働いてきた桜良は勝手に親近感を覚える。
「短い間ですが、よろしくお願いいたします」
求められている距離を理解したような気がした桜良は、かつての同僚に接するときと同じくらいの丁寧さでお辞儀をする。
真那斗はどんな人間が花嫁でも通しそうな余裕のある態度で、板扉の中へと桜良を手招きした。
「では、花嫁は俺と控えの間に。由貴斗は宇迦様に、花嫁が到着したことを伝えてくれ」
「ああ、わかった」
気心が知れた者同士の軽さで目配せし、由貴斗は桜良に接するときとは違う言葉遣いで返事をした。
そしてまた再び敬語に戻って、桜良に話しかける。
「では、私は宇迦様の方に行ってきます。桜良様のことは、この真那斗が案内してくれますので」
由貴斗はそう言い残すと、先に館の奥へと消えていった。
「花嫁はこちらに」
てきぱきと真那斗に先導されて、桜良も開け放たれた板扉をくぐって館に入る。
館の中に入ってまず見えたのは、月や星空を映した池を中心に、松や柳が植えられた典雅な中庭だった。
森のどこかの水源から引き込んでいるのであろう池には澄んだ流れがあって、赤い太鼓橋がいくつか架かっている。また松は力強く静止して、柳はさらさらとやわらかくそよいでいた。
御伽話のように美しい空間に目を奪われて、桜良は真那斗に遅れそうになる。
桜良は真那斗の背中を追って、計算された弧を描く欄干の間を通って橋を渡り、足を踏み入れることを躊躇するほどに綺麗な真砂土の地面の上を歩いた。
複雑に木材を組んで建てられた古風な館は、中庭を囲むように建てられていた。
だから庭の真ん中に立つと、御簾や蔀戸からもれた部屋の明かりが館を橙色に染め上げ、庭全体を照らすのがとても幻想的に見える。
「ここから入ったところにある部屋が、控室になる」
時折振り返って歩を緩めて中庭を横切り、真那斗は縁側に上がる階段に桜良を案内した。
「こちらですね」
桜良は草履を脱いで、真那斗の指示通りに階段を上がる。
四花菱紋が散らされた几帳を上げて部屋に入ると、中は燭台で明かりをとった板の間だった。館の形式自体は古めかしいものの、木材や調度品の質感には不思議な真新しさがある。
中央に置かれた緑縁の畳に座り、桜良は次の指示を待つ。開放的な造りの館は風通しが良く、桜良は冷えた空気の流れを感じていた。
しばらくすると、真那斗が簡素な木製の盆を運んでくる。
「宇迦様が今準備をしているから、ちょっと休憩しててくれ」
真那斗が桜良の前に置き去った盆には、小さな白磁の椀に入った桜湯と、一口で食べられる大きさの丸いおはぎが三つ盛られた皿が載っていた。
塩漬けの桜にお湯を注いだ桜湯は、満開の桜を椀の中に閉じ込めたように風流である。
「ありがとうございます」
昼から何も食べていないものの空腹を忘れていた桜良は、気遣いに驚きつつお礼を言った。
添えられていた楊枝を使って、丸く小さなおはぎを頬張る。
ほんのり塩味がする甘さを控えた餡で包んだおはぎは、もっちりとした優しさを感じる搗きたてのやわらかさで、半殺しの餅にはまだ炊きたてのもち米の温もりが残っていた。
(これは、すごく丁寧な一品なのでは?)
緊張でじっくり味わえない桜良にも、艶々と皮が光る濃紫色の小豆餡の出来の良さはわかった。
桜良はなるべくゆっくり噛んでもち米の食感と甘みを感じる努力をしながらも、無意識のうちに次のおはぎに手を伸ばしていた。甘味が特別好きなわけではないのに、二つ、三つと食べ続けたくなるのだから、やはり美味しいのだろうと思う。
残りのおはぎも平らげると、ほのかに桜の匂いがする温かい桜湯で余韻を落ち着けた。
ちょうど皿も椀も空になったところで、真那斗が再び部屋に入って来る。
美味しさを表す言葉の語彙に悩みながらも、桜良は真那斗にお礼を言った。
「すごくやわらかくて、美味しかったです。ありがとうございます」
「当然だ。俺が作ったものだからな」
おはぎを作った本人であるらしい真那斗は、得意満面な様子で微笑んだ。以前由貴斗が久世月家に買って持ってきた薯蕷饅頭の店に負けず劣らず、真那斗は素晴らしい和菓子の技術を持っているようである。
桜良は真那斗は食べ終えた盆を下げにきたのだと思って、片付けられるのを待とうとした。
しかし真那斗は片手に桜良が食べたものよりも大きなおはぎを持っていて、桜良の前の床に腰を下ろして胡座をかいた。そして一口分食べて飲み込むと、話を始める。
「宇迦尊に仕える内膳官は、神に作った料理を捧げる同時に、神を殺してその肉を割いて烹て、花嫁に食べさせるという役割を持っている」
何でもない世間話のように、真那斗は『神の料理人』という肩書の二重性について語っていた。その手で普段食事を作って食べさせている神を殺して料理するのだと言われ、神の肉を食べることになる桜良は身の引き締まる思いになる。
(ちゃんと料理してもらって、本当に普通に神様を食べるんだ)
神の肉を食べるという行為の重みを感じつつ、桜良はじっと真那斗の餡の粒がついたままになっている口元を見つめた。
小豆の粒に気づいていない真那斗は、そのまま二口目を食べて桜良に尋ねた。
「だから明日、俺が宇迦様を料理するのだが、何か苦手な食材はあるか」
まるでどこかの料亭のような質問をされて、桜良はいよいよ具体性を帯びてきた神喰いの花嫁としての役割について考える。
まだ会ってもいない夫の宇迦尊は明日には桜良が食べるために殺されて、その肉を口にした桜良もすぐに死ぬのだから、終着は想像していた以上に近かった。
「特に、ないです」
好き嫌いがあるほど食にこだわりがない桜良は、首を振って苦手な食材はないことを伝えた。
真那斗は「わかった」と頷いて、三口目でおはぎを平らげた。ここでやっと口元を手で拭いたので、くちびるに残っていた小豆の粒はなくなった。
そしてまだ言っておくことがあったようで、真那斗はじっと桜良の様子を伺ってから口を開いた。
「あと、宇迦様の最後の食事は毎回ちょっとした儀式みたいなものとされていて、明日の朝食は一応花嫁が作ることになっている。お前は料理はできるな」
雰囲気で見抜いたのか、女中扱いされていたことを知っているのか、真那斗は桜良がそれなりに家事全般ができることを察しているようだった。
唐突に普通の花嫁らしい、しかし責任重大な仕事を要求されて、桜良は少々面食らった。
だが夫に食事を作るのが結婚だと言えばその通りであるので、桜良は何も聞き返さずに頷いた。
「ええ、まあ。人並みには」
「それじゃ作りたい献立があれば言ってくれ。必要なものはこちらで用意する」
「では、茶粥と卵焼きか何かで……」
何でもないことのような軽い調子で、真那斗は食材の確認する。
作りたいものと言われても作れるものしかない桜良は、とっさに一番よく作っていた朝食向けの献立を挙げた。
ほうじ茶で米を炊いた茶粥は、西都を中心に食べられている郷土料理で、久世月家の朝の食卓に並ぶことも多かった。
桜良の希望を聞いた真那斗は、もう用事がなくなったらしく立ち上がった。
「茶粥と卵焼きを中心に何品か、という感じだな。俺も手伝うから、そう緊張はしなくてもいい」
おそらく料理ができない人間が神喰いの花嫁に選ばれた場合は、結局ほとんど真那斗が作ることになるのであろう。
真那斗の態度には、桜良が失敗したとしてもどうにかなるという自信が見えた。
しかし桜良はせめて朝食くらいは、胸を張って自分が作ったものを捧げたいとささやかな野心を抱いた。
(せっかく選んでもらえたのだから、私はやれることはやりたい)
それはめったに自分の能力を試したがらない桜良が示した、他人のために何かをしたいという積極性だった。
桜良はこれまで、苦境に耐えてただひたすらに終わりが来るのを願っていた。神喰いの花嫁に選ばれて嬉しかったのも、優劣ではなく卜占で決められたのであって、特別な何かを期待されているわけではないからだった。
自分が何かの才能を持っているとは思えないし、持ちたかったとも思わない。
しかし最後に自分ができることで神に尽くせたのなら、孤独な歳月も報われるような気がしてくる。
(私はそう、もらえるものなら意味がほしい。これから神を食べて死ぬ意味だけではなく、これまで生きてきた意味を)
その密かな欲望を、桜良は口にしなかった。
聞くべきことを聞いたら立ち去ろうとしている真那斗は、作務衣を着た使用人であり、桜良が心を開くべき相手ではない。
桜良が真心を見せるべきなのは、これから会って結ばれる神である宇迦尊なのだ。
14 誓いと盃
それから桜良は、髪や化粧を少々直した後、館のさらに奥の間に通された。
開かれた板戸が先にあったのは金の屏風が置かれた暗い部屋で、明かりは隅に置かれたいくつかの蝋燭だけだった。
(神様に会ったら、一体どんな挨拶をすれば良いのだろう)
指示された場所に正座して、桜良はだんだん闇に慣れてきた目で土を塗り込んだ壁を見る。
傍らには黒地の差袴に白い上衣を着た真那斗が控えていて、寝ているのか起きているのかわからない顔で目を閉じていた。
落ち着かない気分で待っていると、やがて廊下から二人分の衣擦れと足音が近づいてくる。
とうとう宇迦尊がやってきたのだと思った桜良は、姿勢を正して顔を伏せた。
まず部屋に入ってきたのは、真那斗と同じように黒と白の装束を着た由貴斗だった。
由貴斗は取り澄ました表情で戸の近くに立って、入り口に垂れている几帳をその後ろにいる神のために手で上げる。
もう一人の白い影はゆっくりと歩を進めて、暗闇の中から桜良の前に姿を現した。
(この方が、私の神様)
顔を伏せている桜良には、白い裾を引きずった束帯に足袋を履いた足元しか見えない。
宇迦尊と呼ばれるその神は、一旦、無言で立ち止まっていた。それからさらに一歩近づき、宇迦尊は花嫁に声をかけた。
「桜良」
優しく親しげな、やわらかな声である。
今まで名前を呼んできた誰とも違う響きに、桜良は綿帽子を被った頭を自然に上げた。
まず目に入ったのは、宇迦尊の人のものではない、金色の鉱石のように虹彩が輝く瞳だった。見つめ合う形になった桜良は、気恥ずかしさから視線を反らそうとした。しかし月明かりに照らされた雪や真新しい上白糖に似た美しさのある宇迦尊の姿に、桜良は目を離せなくなった。
(とても綺麗な、男の人だ)
桜良は宇迦尊が神であることを知っていたし、淡く光る銀色の髪を長く伸ばし、白綾の袍に長身を包んだ宇迦尊は神らしく神々しかった。
だがその鼻筋の通った顔が纏う束帯よりも白く繊細に整っていて、目は髪と同じ銀のまつげに縁取られていても、宇迦尊は桜良が想像していたよりも人間らしい存在に見える。
それは宇迦尊の表情には、理由のわからない寂しさがあるからかもしれないと、桜良は思った。
「君が明日、僕を食べてくれる女の子なんだ」
薄紅を塗ったかのようにほんのり桜色に色づいたくちびるで、宇迦尊が桜良に問う。
立って見下ろす宇迦尊を座ったまま見上げて、桜良は小さな声で「はい」とつぶやいた。
憂いを帯びた視線を宇迦尊に注がれて、桜良は胸を締め付けられるような切なさを感じた。礼儀正しい挨拶を考えてはいたけれども、返事以外の言葉は何も言えない。
やがて宇迦尊は小さく頷くと、桜良の横に並んで座った。
「ほんの少しの間だけど、よろしくね」
かすかでも完全に人の心を奪う宇迦尊の微笑みに、桜良は幼い頃にもらった飴の包み紙をほどいたときの甘い匂いを思い出す。
宇迦尊と桜良が並んで座ったのを確認すると、由貴斗は真那斗に目配せして屏風の裏に消えた。
居眠りしていたのかも知れない真那斗も、慌てて由貴斗に続く。
そしてすぐに、二人はそれぞれ膳を持って屏風の裏から現れた。
赤漆の膳には、揃いの三ツ組盃と銚子が載っていたので、桜良は今から誓いの盃を交わすのだとわかった。
真那斗は宇迦尊の側に屈んで膳を置き、一番小さな盃に銚子で酒を注いだ。由貴斗も桜良に同じようにしたけれども、まだお酒は注がない。
酒を注ぎ終えた真那斗が、宇迦尊に声をかける。
「では、まずは宇迦様から」
「うん。わかった」
宇迦尊は両手で盃を持ち、優雅に傾けて飲んだ。
一つ目の盃が飲み干されると、今度は中くらいの大きさの盃に酒が注がれ、同じことが三度繰り返される。
時間をかけて宇迦尊が三つの盃で酒を飲み終えると、今度は由貴斗が銚子を手にした。
「次は、桜良様が」
「はい」
透明に澄んだ酒が注がれた赤い盃を、桜良は宇迦尊と同じように両手で持った。
蝋燭の明かりを映して、盃の中の清酒は揺れた。そしてゆっくりと口に近づけ、少しずつ飲んで空にする。
水とは趣が違うその液体を口にしてみると、清酒の濃く甘い匂いと刺激が、舌が触れた。
生まれて初めて酒を飲んだ桜良は、のどを過ぎていく酒の冷たさに反して、身体が熱くなるのを感じた。
とりあえず一つ目は空にした桜良は、若干ふらつきながら盃を膳に戻す。
「お酒は、全部飲まなくても大丈夫だよ」
「はい。ありがとうございます」
桜良を気遣いささやく宇迦尊の声が聞こえ、桜良は反射的にお礼を言う。
しかしぼんやりとしていた桜良は、自分が酒を飲める量もわからないのに、結局残りの盃も飲み干した。
それからまた再び宇迦尊が三度、酒を飲んで儀式は終わる。
手続きめいたやりとりだけでは、実感はわかない。
しかし神である宇迦尊と誓いの盃を交わしたのだから、桜良は神に嫁ぎ、神の伴侶になったはずだった。
15 夜宴
盃を使った儀式を終えた桜良は、一旦宇迦尊と別れて、別室で白無垢よりも簡素な白地の衣裳に着替えた。そこは桜良の一応の自室になるらしく、唐木の文机や厨子が並んだ部屋の隅には、久世月家から持ってきた長櫃が置かれていた。
無事に着替えが済むと、由貴斗に案内されてまた別の部屋に移動する。甘醒殿と呼ばれる館はとても広いので、桜良には自分がどこからどこへ向かっているのか把握できない。
やがて由貴斗は回廊の途中で立ち止まり、御簾を上げて桜良をある部屋に通した。
「こちらが宇迦様のご寝所です。お二人にとって、今夜が最上の時間でありますように」
着替えた花嫁を寝室に連れてくるという仕事を終わらせた由貴斗は、丁寧な言葉をかけて桜良を一人残してその場を去った。
この先は他人が足を踏み入れることはできない、夫婦の空間なのである。
由貴斗の説明の通り、部屋の中心には練平絹の帷に囲まれた豪奢な帳台がある。
しかし部屋の主である宇迦尊は寝具の置かれた帳台にはおらず、板の間の床に敷かれた畳の上に座っていた。
「真那斗が僕たちのために夕食を用意してくれたから、早く食べよう」
手招きする宇迦尊の前にはいくつもの食膳が置かれ、その上には食にこだわりのない桜良でも思わず見入ってしまうような料理の数々が載っている。
「ありがとうございます。こんなご馳走は、初めてです」
桜良は宇迦尊と並ぶ形で、燭台の光に明るく照らされた畳に腰を下ろした。
真ん中の膳には、炊きたての白米に蕗の味噌汁、菜の花の辛子漬け、鯵の細作りの昆布締めに筍とわかめの煮物といった、春らしく手の込んだ品々が並んでいる。
他の膳にも、尾頭付き鯛の塩焼きや鶏と茸の蕪蒸しなどの華やかな献立が載っていて、桜良は自分が作る朝食が真那斗の料理と比べられることになるのが怖くなる。
しかし神である宇迦尊は人の悩みは意に介さず、桜良に箸をとることを勧めた。
「ここに、桜良の箸があるよ。食べ足りない品があったら、真那斗を呼べばいいからね」
婚礼衣装から白色の狩衣に着替えて、少々印象が軽やかになった宇迦尊は、自分の箸を手にするとさっそく白米と味噌汁から食べ始めた。
白いまつげが降り積もる雪を連想させる横顔は、確実に人間ではない美しさがある。しかし箸を使って飯粒を食べる様子は妙に人間臭く、ちぐはぐな可笑しみがあった。
(神様も、箸でご飯を食べるんだ)
興味深げに隣の食事を眺めていると、宇迦尊が桜良の方を見た。
「桜良は、食べないの?」
「はい。今から、いただきます」
不思議そうな顔をする宇迦尊を前に、桜良は慌てて目の前にあった鯵の昆布締めに箸をつけた。
青芽紫蘇が彩りを添える、ほんのりと出汁の色に染まった細作りの鯵の刺身は、流れる水のように黒漆の皿に収まっている。
桜良はその皮引きの銀色の跡に艶がある、透明に澄んだ赤身を箸で一切れ口に運んだ。
(うん……。昆布出汁のやさしい旨みが染みていて、お醤油も何もつけなくても美味しい)
丁寧に小骨を取り除かれた鯵は、まったりとやわらかく口の中でとろけ、脂ののった旨味が出汁の風味と重なって広がる。
自分の舌を確かめるように、桜良は無言で添えられた加減酢や山葵を使いつつ食べ続けた。
柑橘で香り付けされた加減酢と、舌触り良くすりおろされた山葵を使って鯵を食べれば、さっぱりと爽やかな味わいになって食べ飽きることがない。
「それを食べるなら、お酒が必要だね」
横目で桜良を見ていた宇迦尊が、脇に置かれていた燗鍋から白磁の杯に酒を注いで桜良に渡した。
桜良はうやうやしくお礼を言って杯を受け取り、勧められるままに飲む。
その酒は婚礼の儀式で飲んだものとは違ってぬるく温められていて、香りに芳醇なふくらみがあり、先程食べた肴の味がコクを引き立てていた。
(お母さんがいつも酔っ払ってた理由が、ちょっとわかる気がする)
身体が温まって気分が良くなった桜良は、洋酒を愛していた母親への理解を深めた。このまま飲み食いを続ければ、母親に助言された通りの馬鹿な女の子になれるだろうと桜良は思う。
しかし相手は神なのだから、馬鹿になる前に礼節を守らなくてはならないと考えた桜良は、箸を止めて宇迦尊の方を向いた。
「あの、私はあなたを、どのように呼べばいいのでしょうか。由貴斗さんや真那斗さんは、あなたを宇迦様と呼んでいますけれども」
御饌都之宇迦尊という名前の神に対して、桜良は呼びかけに困っていた。正式な名前は長すぎるとして、宇迦尊様では親しみに欠け、宇迦様では気安すぎるような気がしていた。
ささやかな戸惑いを見せる桜良に、宇迦尊は蕪蒸しの入った平椀を手に、匙ですくって食べながら答えた。
「何とでも呼んでくれていいよ。死んだ恋人の名前でも、憧れの俳優でも、好きなように」
宇迦尊は冗談めかして茶化したが、金色の瞳は本当にどうでもよさそうに笑っている。おそらく彼にとっては、名前は意味を持っていないのだろう。
「では、神様と呼んでもいいですか。これまで漠然と、心のなかで神様って呼んでいたので」
「うん、神様だね。いいよわかった」
特に仮託したい名前もない桜良が無難な提案をすると、宇迦尊は軽い調子で頷く。
「ありがとうございます。神様」
さっそく桜良は、望んだ呼び方で宇迦尊を呼んだ。そうすることで、長年寝る前に祈ってきた神が最初から宇迦尊であったような気がして、桜良はより深く運命を信じることができる。
(私は明日、この神様を食べることになる)
桜良は改めて宇迦尊の姿を見つめて、自分に与えられたものの大きさを実感した。
香ばしく焼けた鯛の塩焼きを食べるくちびるも、やわらかそうで形がよい耳も、白くてなめらかな裸足の足も、すべてが暴かれ、神喰いの花嫁である桜良が食べる肉になる。そう考えると桜良は、倫理に反した気持ち悪さを覚えると同時に、言い知れない背徳的な喜びをかすかに抱いた。
「僕の顔に、何かついてる?」
あまりにも桜良が見つめるので、宇迦尊は箸を置いて向き直った。
「いいえ。何も」
桜良は否定で答えながらも、宇迦尊を見つめ続ける。
すると宇迦尊は、ごく自然に桜良との距離を縮めて、顔を近づけた。
これから口づけをされるのだと、桜良は理解した。桜良は宇迦尊の花嫁であるので当然、その行為を受け入れる。
何より桜良は、ただの卜占の結果なのだとしても、庶子としても認められず未来を奪われていた自分を特別な存在にしてくれた宇迦尊に、好意を持っていた。
(だってこの神様は今、私だけの神様だから)
桜良は祈るように、目を閉じてそのときを待った。
やがて酒を飲んで熱を持った桜良のくちびるに、鯛の塩焼きの風味を残した宇迦尊の平温のくちびるが触れる。
重なるくちびるの感触とほのかな塩気に、桜良は旨みを感じた。口づけをしただけでこれだけ美味しいのだから、宇迦尊の肉は本当に美味しいのだろうと思う。
しばらく息を止めていた桜良が一杯になったところで、宇迦尊はくちびるを離して桜良に確認した。
「君は、それでいいんだね」
ゆっくりと目を開けると、桜良の鼻先には宇迦尊の整いすぎた顔がある。
まぶしくて宇迦尊を見えない桜良は、再び目を閉じると無言で頷いた。
了承を得た宇迦尊は、華奢で軽い桜良を抱き上げ、帳台に敷かれた寝具の上に運んだ。
幻のように美しく見える宇迦尊も、触れてみると男性の身体をしている。
何もかもが初めての桜良と違って、何度も死んで生まれ変わっている宇迦尊は、愛を交わすことにも慣れていた。
耳を澄ませば桜良の動悸と二人の息遣いの他に、遠くでなにかがさざめく音がする。
(あれは多分、神在森の……)
帳台の上で宇迦尊の身体の熱を感じながら、桜良は館の中にいても聞こえる、外の森の葉が風にこすれる音を聞いていた。神在森の木は橅であるので、おそらく秋にはたくさんの団栗の実がなるのだろう。
きっとおぼろ月の光に照らされているはずの、外の森の音は両者の耳に届いているらしく、宇迦尊は桜良のあごを細い指でなぞってささやいた。
「明日、僕を食べた君が死んだら、あの木々の葉のそよぐ音がする神在森のどこかに埋められる。その土の中の君の骸から新しい木が芽吹いたとき、僕は再び生まれるんだ」
宇迦尊は語り終えると、そっと桜良の額に口づけをした。くちびるを重ねるのとは違ったこそばゆさに、桜良は宇迦尊の腕の中で身体を震わせる。
昔話の通りの結末は嘘のようであるが、宇迦尊が言うなら真実である。
酔いの回った桜良は、何の後悔もなく幸せに宇迦尊のために死ぬことができる多幸感に、静かに微笑みを浮かべた。
「素敵です。神様のお身体をいただく私は、神様の一部になれるのですね」
歪なほどに素直な花嫁の感謝を宇迦尊がどう受け止めるのか、桜良は反応を見ようとして目を開けた。
宇迦尊の装束が解かれていく桜良の衣に重なり、白銀の髪がさらさらと頬を撫でる。
燭台から離れた帳台の中は暗くても、眉も鼻もまなじりもすべてが美しい輪郭を描く宇迦尊の顔が輝いているように見えた。
しかしその穏やかな微笑みにどんな感情が隠されているのかは、酩酊した桜良には察することはできなかった。
16 竈の火
翌朝。やわらかな朝日の光の混ざった薄闇の中で、桜良は目覚めた。
心が満たされた倦怠感の中で身体を起こし、夢ではないことを確かめるように宇迦尊の姿を探す。
まだ目覚めていなかった宇迦尊は、何一つ曇りのないなめらかな肩を晒しつつ、絹の衾に包まれて眠っていた。
穏やかに寝息をたてる綺麗な寝顔は、少年のようなあどけなさがありつつも、人間の寿命を超えて生きてきた年月を感じさせる。
(たとえ神様にとっては一瞬だとしても、私には一生分の夢だったから)
桜良は解かれた衣裳を腕に通し直しながら、手では触れずに宇迦尊の顔を見つめ直した。
それから彼の最後の朝食を作るという役目を思い出し、帳台のぬくもりに痕跡を残して寝室を去る。
二人が眠っている間に夜に食べた料理は片付けられていて、衣裳を着て出ていく他に桜良がすることはない。
御簾を上げて桜良が廊下に出ると、ちょうど真那斗が中庭から上がってきていた。
「もうそろそろ、起きてくる頃だと思っていた」
作務衣姿の真那斗は、桜良をぬるま湯の入った桶と布巾が用意された部屋に連れて行く。
そこで身を清めて着替えた桜良は、場所を説明された厨房へ向かった。
(神様のこと。何もわかってないのに、ずっと一緒にいたような気がするのはなんでだろう)
だんだん白くなっていく空を回廊から見ながら、桜良は本当は一晩ではなく何晩もたっているのではないかと思う。そうした錯覚を覚えるほどに、長い時間をかけて宇迦尊と共に過ごし、愛しさが増した感覚が桜良にはあった。
もしかすると本当に、桜良は何日もの時間を宇迦尊と二人でいたのかもしれないが、もはや夢と現実の境界を知ることにそれほど意味はない。
やがて館の北に移動した桜良は、借りた草履を履いて裏庭に下りる。
館の敷地内に主殿とは別に建てられた厨房は、質素な切妻造りの小屋だった。
「失礼します」
女中として働いていたときと同じように髪を結ってまとめ、清潔な前掛けを身に付けた桜良は、板戸を開けて中に入る。
弧を描くようにつながって並んだ竈を中心に、流しや甕壷が並んだ厨房には、その空間の主である真那斗が先にいて焚口に薪をくべて待っていた。
「じゃあ、好きなように始めてくれ。食材は、そこに並んでいるものでいいな」
桜良の姿を見た真那斗は立ち上がり、手にしていた薪で木製の作業台を指した。
使い込まれてはいるが清潔な作業台には、米や卵に、季節の野菜などの食材が並んでいて、味噌や塩などの調味料も一通り揃っている。
桜良は食材を確認した後、薪が燃える竈を改めて振り返って、正直に真那斗に懸念を伝えた。
「すみません。私はこれまで、ガス式の釜と焜炉しか使ったことがなくて……」
最初から躓いたのが恥ずかしくて、桜良は自信を失って頭を下げた。
しかし真那斗は何も気にしていない様子で、今度は火吹き竹を手にして応えた。
「それなら火の加減は、俺がやる。お前はできることをやればいい」
真那斗の態度には、たとえ桜良がどれだけ失敗を重ねたとしても自分がいるから問題ないのだという、神の料理人としての矜持があった。
その言葉は以前に由貴斗が神喰いの花嫁になるのに個人の資質は関係ないと告げたときに似た、安心感を桜良に与える。
誰か頼れる人がいる状況で料理をするのは、桜良にとって初めてのことだった。
気持ちが軽くなった桜良は、表情を緩めて顔を上げた。
「かしこまりました。では私は最初にお伝えしたとおり茶粥と卵焼き、そして味噌汁を作らせていただきます」
自分の力で宇迦尊を喜ばせたいという欲を、捨てたわけではない。
できないことを無理してやろうとするのではなく、できることを精一杯やることが大事だと思えたから、桜良は気兼ねなく真那斗の力を借りられる。
「わかった。俺は、お前に適当に合わせる」
真那斗は腕を組んで、桜良が動くのを待った。
それから桜良は迷わずに水甕から水をくみ、まずは調理に必要な水を釜と鍋に入れて火にかけた。
湯が沸くまでの間に、作業台にあった芹を根本までよく洗い、包丁でほどよい長さに切る。一合枡に入った米も、水甕の水を使って流しで研いだ。
水が沸騰したところで、釜には番茶の入った茶袋を入れる。鍋は火から離して鰹節を加え、少々時間をおいてからざるに布を敷いてゆっくり濾した。
釜から番茶の香ばしい匂いが立ち上り、十分に茶を煮出せたところで、桜良は茶袋を取り出し研いだ米を投入する。
そしてだし汁を入れて再び火にかけた鍋には、湯をかけて油抜きをした油揚げを千切りにして、芹と一緒に入れた。
「ふきこぼれないように、こちらをお願いします」
「わかった」
桜良が火加減を任せると、真那斗は頷いた。
一旦釜と鍋から離れた桜良は、余らせておいただし汁と卵を椀で混ぜて、平鍋を焜炉に置いて焼いた。
(慣れない大きさの平鍋だけど、何とか上手く焼けそう)
桜良は卵液を分けて流し入れ、菜箸を使って器用に薄焼きの卵を巻いて卵焼きにする。
焼き上げた後は巻き簾で巻いて形を整えれば、薄黄色が綺麗な卵焼きが完成した。
最後に鍋に味噌をといて味噌汁にし、釜の中の米もやわらかくなったところで真那斗に火を消してもらえば、茶粥も出来上がる。
「私の料理は終わりました」
手際良く三つの料理を作れたことに満足して、桜良は真那斗の方を振り返った。
「こっちもだいたい終わった」
包丁とまな板を片付けながら、真那斗も返事をした。
真那斗は火の加減を見ながら、焼き鮭を焼き、分葱と烏賊でぬた和えを作り、大根の麹漬けを切って香の物の用意をしてくれていた。
(真那斗が作る料理は、すごく綺麗に出来てる)
桜良は作業台に載っている、真那斗が作った料理をまじまじと見た。
ごく一般的な家庭料理であっても、焼き鮭の焼色も、香の物の精密な切り口も、すべてが完璧な仕事に見える。
また真那斗は食膳への盛り付けもさり気なく手伝ってくれたので、桜良の作った朝食はほとんど半分は真那斗の作ったものになった。
(でも半分は私が、神様のために作った料理だから)
桜良の料理の技術は、真那斗には及ばない。
しかし桜良は自分のできることはできたと実感していて、ささやかでもきっと宇迦尊のためになれるはずだと期待していた。
17 空になる器
うららかに晴れた春の日の、朝の光に満ちた板の間の広い部屋に、一揃いの器に盛られた朝食が二膳分並べられている。
その広間には黒打掛に着替えた桜良と、白絹の袍服を着た宇迦尊だけがいて、二人手を伸ばせば触れられる距離で向かい合い座っていた。
神と花嫁の二人で朝食をとった後に、神は屠られ、花嫁に食される。
神を食べて死ぬ人間と、人間に食べられて生き返る神が短い縁を結ぶことで、皇国の民が飢えて死ぬことがなく幸せであることを願う。
それがこの甘醒殿で行われる奇妙な儀式に、与えられた意味だった。
「これが、君が用意してくれた朝ご飯なんだね」
桜良が作った茶粥の入った汁椀の蓋を外して、宇迦尊が興味深げに朝食の内容を見る。
茶粥と味噌汁は出来たての熱さが残っていて、長皿に盛られた焼き鮭と卵焼きもまだ温かい匂いがした。分葱と烏賊のぬた和えは器の赤漆に映える鮮やかな緑で、香の物も小皿に綺麗に盛り付けられている。
「半分は真那斗さんです。私は茶粥と卵焼きと、味噌汁を作りました」
「それなら茶粥から、いただこうか」
桜良が自分の作った範囲を説明すると、宇迦尊は木匙を手にして食べ始めた。
しっとりと薄茶色に染まった米を匙がすくい、宇迦尊の口元まで運んでいくのを、桜良は息をするのも忘れて見ていた。
女中扱いされていたときから不味いと文句を言われないようにしてきたのだから、味はまともなはずだとは思っている。しかしそれでも、本当に気に入ってもらえるかどうかは不安だった。
宇迦尊が粥を口に含んで、目を閉じる。桜良にはじっくりと味わっているように見えたけれども、観察している側だから時間が長く感じるだけなのかもしれない。
そして目を開けると、宇迦尊は蕾がほころぶように桜良に微笑みかける。
「美味しいよ、すごく。ほっとする味がする」
ごく普通に料理を褒めてもらえたのが初めてだったので、桜良は黙ってその言葉を反芻した。気を使って美味しいふりをしているだけだとしても、嬉しさが込み上げる。
誰に言われても桜良に響くに違いないのだが、言ってくれたのは宇迦尊だった。やはり卜占で定められた通りに、宇迦尊は運命の相手なのだと桜良は思う。
何も言わずに桜良が感じ入っていると、宇迦尊が視線に気づいてからかった。
「桜良はいつも、食べずに僕を見てるよね」
「すみません。今、いただきます」
「別に、謝らなくてもいいけど」
桜良は即座に謝罪して、匙を手にする。
硬さが残る桜良の反応に、宇迦尊は苦笑して面白がっていた。
好きな人が相手なら、可笑しさを笑われても嫌ではないのだと、桜良は知った。
宇迦尊のまなざしに半分緊張して半分安心しながら、桜良は自分が作った茶粥を食べる。
茶粥はほどよく冷めていて、火傷するほど熱くもなく、心地の良い温もりで舌の上にしっとりと広がる。
米のやわらかさと甘みを番茶の香りと風味が温かく包んで、さらりと奥深い味わいを残してのどを通っていくのを、桜良は感じた。
その味にはこれまで食べてきた自分の料理とは違う、穏やかでやさしい美味しさがある。
(これまでこんなに食べ物が美味しいと思えたことって、なかった気がする)
一口目を飲み込み、桜良は物の感じ方の変化に驚いた。
自分よりも技量がある人々が作った料理や菓子よりも、桜良が作った下手ではないだけの茶粥の方が美味しく思えるのが不思議で、桜良は匙を持ったまままばたきをする。
その理由はおそらく本当に単純なことで、美味しいと褒めてくれる誰かがいれば、桜良が作った料理でも正しく美味しくなるというだけのことであった。
(だけど良かった。私にもちゃんと、本当の美味しさがわかるんだ)
朝日の中で輝く薄茶色の粥を見つめて、桜良は気分を落ち着かせようと深く息をついた。
食事の楽しさとは無縁に生きていた桜良は、自分は物を食べて味わう能力に欠けているという劣等感を薄く抱いていた。
だから実のところ、もしかすると自分は宇迦尊を食べても、その味の価値をきちんと理解できないかもしれないと不安に思っていた。
しかし宇迦尊がいるおかげで食べたものを心から美味しいと思える瞬間を知った今は、神の肉も十分に味わって堪能できそうだ安心している。
宇迦尊は再び黙っている桜良に、なぜか自慢気に声をかける。
「ね、美味しいよね」
「はい、本当に美味しいです。多分、今までで一番」
照れた笑顔で頷き、桜良は二口目の粥をすくって食べる。
食べ進めるごとに温かく心と身体が満たされていくのは、まるで呪いがとけるようでもあった。
女中として働いていた桜良はこれまで幾度も美味しいかどうかわからない朝食を作ってきたが、その暗くくすんだ日々はすべて今日のためにあったのだと思う。
素直に微笑む桜良に、宇迦尊も金色の目を輝かせて嬉しそうな表情になった。
「じゃあ僕は幸せだ。最後に食べるものが、君が一番美味しく作れたお粥なんだから」
最後とは言っても、宇迦尊は桜良に食べられても蘇り、また誰かの作った朝食を食べることになることを、桜良は知っている。
それでも桜良は、宇迦尊の言葉が嘘だとは思わない。
「最後に作った料理を神様に食べてもらえる、私も幸せです」
宇迦尊を食べて死ぬことになる桜良にとっては、これは本当に最後に作った料理である。
塩も何も入れていない茶粥は薄味だけれども、その分塩鮭や香の物と一緒に食べれば満足感が増す。
卵焼きも橙色に半熟のところが残ったやわらかく甘い仕上がりで、芹と油揚げの味噌汁は香りよく爽やかで出汁の味わいが深くコクがあった。
桜良が作ったものもそうではないものも、食膳の上には綺麗に並んでいる。
最後に良いことができて、桜良は幸せだった。
もっと長く宇迦尊と共にいられたのなら、さらに多くの幸福を知ることができたのかもしれない。
しかし桜良は死なずにもっと生きたいとは思わなかった。より多くを求めて、小さな幸せでは満足できなくなる日がくることが、桜良にとっては何よりも怖いからである。
だから桜良は、今あるものだけを大切にして、それ以上のことは知らずに死んでしまいたかった。
(だってそう。お母さんも、女の子は何も知らないばかな子の方が幸せだって、いつも言っていたから)
古い伝統を守って建てられた館の一室で、皇国の神話を現実に生きる神と食事をしながら、桜良は遠い異国の文化に囲まれて生きて死んだ母親のことを考える。
銀色の飾りが光る袖無しのドレスを着て、シガレットホルダーを手に紫煙を燻らせていた母は、桜良が無知なままでいることを願っていた。
長年父に愛されていた母は多分、今の桜良よりもずっとたくさんの幸せを知っていて、与えられたものの価値を理解できる広い教養や知識も持っていたのだろう。
それゆえに知りすぎていた彼女は不安になって、絶対的な何かを求めて、ここではないどこかへ行きたがっていた。
だから桜良は知りたがってはいけないし、より多くのもの欲しがってはいけないのである。
母が残した人生の忠告は、そういうことであるはずだった。
遠い記憶を遡り、桜良はすべてに納得する。
過去から現在まで、桜良には十七歳までの人生があり、その先の未来はない。
その終わりに待ってくれていた宇迦尊は、婚礼の夜に口づけをしたときと同じように、桜良の意志を確認した。
「僕を食べたら死ぬのに、それでも幸せなんだね」
そのまなざしには、同情か苦悩か、それとも葛藤か羨望か、桜良には正体のわからない感情が宿っていた。
その想いを知ろうとはせずに、桜良は宇迦尊に真っ直ぐに向き合って微笑む。
「はい。私は幸せです」
迷いやためらいのある宇迦尊の声に対して、桜良の声は明るく揺るぎなく響く。
何も持たない、見捨てられた少女だった桜良が手に入れたたった一つものが、宇迦尊である。
幼い頃に父から贈られた舶来の人形よりも端正な顔に、母親が身に付けていた宝石をすべて合わせたよりも綺麗に輝く金色の瞳。真珠よりもなめらかで白い身体に、染める前の絹糸みたいにまぶしい白銀の長い髪。
こんなに美しいものを食べて自分のものにできるなら、死んだって構わないのだと思い、桜良は宇迦尊を見つめていた。
桜良はどこかにある何かを探しながら、たくさんのものを抱えて彷徨いたくはない。たった一つのものを大事にして、迎えてくれた場所で眠りたい。
これ以上のものは受け取れないし、もらってもきっと自分の手では掴みきれないことを桜良はわかっている。
人の一生には限りがあり、何を知るかと同じくらいに何を知らずにいるかが大事で、桜良は宇迦尊との婚姻以外の幸せを知らない。
だからこそ宇迦尊と出会うことで、桜良のこれまでの人生の不幸には意味が与えられたのだ。
「じゃあ僕も幸せに殺されて、君に食べられるべきだ」
すべてを見透かしたまなざしで、宇迦尊は桜良の微笑みを真似る。
人間である桜良が知らないことも、神である宇迦尊は知っていた。
それから宇迦尊は桜良に口づけをするように、桜良が作った粥の最後の一口を食べる。
食べることも食べられることも、相手に身体を明け渡すことから始まる。
桜良はその二つの境界を見失いながら、触れられる近さにいながらも遠く隔てられた、宇迦尊の口づけを胸の中で受け止めた。
食事が終われば器は空になる。
食べ終えた器が空になるように、もうすぐ宇迦尊の命は失われる。
しかし次の食事が始まるときには別の料理で器が満たされるように、宇迦尊は蘇りまた命を得る。
下僕である人間に幾度も殺され、その肉を食され続ける神が何を感じているのか、桜良は知らないし本当に知る時間もない。
宇迦尊がどんな想いを抱えていたとしても、神喰いの花嫁である桜良はただ、あとは出されたものを食べて死ねばいいのだ。
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