見出し画像

ダブルリミテッドどころかトリプルリミテッドだった私が30歳を目前にして思うこと

私は本当に物事への理解が遅かった。最大の理由はトリプルリミテッドだったからだと思う。今では親心への感謝しかないが、インターナショナルスクールが今より高く、田舎に住んでいた時期もあり、母親の編み出した独自メソッドの語学教育により、24歳くらいまで、私は混乱していた。

母は私を日英中のトライリンガルに育て、かつお金のかからない国公立校に入れたかったので、単純なスキームを編み出した。簡単に言えば、家でのメディア媒体は全て英語(新聞やテレビ、映画)、父の仕事の関係もあったが家を訪れる友人は外国人のみ、学校は日本の公立、長期休みは中国でサマースクールといった具合にだ。なお、母は当時中国語しか話せなかった。妹は早々に母のメソッドから逃げて芸術系の専門学校に進み、単身アメリカに移住した(我が妹ながら本当にフットワークが軽い)。

小学校の時は、当然日本のテレビや雑誌、漫画が見れないので学校で友達の輪に入れない。家では英語や中国語の書き取りに加えて四谷大塚やZ会の通信教育が大量にあるので遊ぶ時間はなかった(別に誰かが見てくれる訳でもないので1人で黙々と勉強)。唯一図書館は1人で行かせてもらえたので、少し子供に早い小説などを読み漁り、さらに同世代から浮きまくった。

中学校の時は、体育会系の部活で先輩との上下関係に衝撃を受けた。

高校進学と同時にたまたま奨学金を得て中東に留学をしたので、生きていくためにまた新しい言語を学び、その言語で数学や科学、世界史の単位を取得する必要があった。

海外生活で疲弊した私は帰国後東京の大学に進学し、静かにライフポイントを回復した。大学には必要最低限通い、友人もできず、飲み会にも行かなかった。4年間一度も海外旅行に行かず、首都圏を離れることもなかった。

私は4ヶ国語を学び、その言語をアクセントなくほぼネイティブレベルに習得したが、結局人の持てる時間は同じなので、4倍の会話、読書、人間関係構築をした訳ではない私は、全ての言語でただぎこちない人になってしまった。

もう何語だろうが活字を見ることとが嫌で、何人とも話したくなかった。

無気力なまま定期券圏内で就職活動をし、最初に内定をくれた会社に進んだ。社会人1−2年目に初めて自分がトリプルリミテッドなのではないか気づいた。一分一秒を争う部門に配属された私は、新しい知識や仕事の仕方を吸収しないといけなかったが、頭にモヤがかかったように理解ができず、英語でも日本語でも言っていることが意味不明な、頭の悪い社員だった。

そこから時間の流れがもう少しゆっくりで優しい会社への転職を経て(それでも激務だったが)、やっと専門用語や仕事のフローが理解できる等になり、英語と日本語の両方でプロフェッショナルとして仕事ができるようになった。しかし、日常会話は何語で話をしても未だぎこちない。接待や業界の飲み会で間が持たないので、せめて飲み物を選べる人になろうと、ワインの勉強を始めたくらいだ。

隠キャだったので相談する人もおらず、当時は自分の頭がめちゃくちゃ悪いから辛いのだと思っていたが、最近同じ境遇の人に遭遇するようになった。また、日本に移住された外国人の子供が学校の勉強についていけず母国語も不自由になる場合があるので支援を必要としている話も聞く。

日本でも色々なバックグラウンドを持っている人が増えていくだろうこの先、少しスローな同僚がいたとしても、暖かく見守り、部署の移動も考慮してあげたりしながら、ブレイクスルーの瞬間を待つ度量の大きさがこの社会には必要だと思う。

この記事が参加している募集

仕事について話そう

転職体験記

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?