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「E.T.の墓場」とエアレビュー問題─ 映画「アタリ ゲームオーバー」


 本稿ではドキュメンタリー映画「アタリ ゲームオーバー」の感想とともに、巷に蔓延する「エアレビュー問題」について述べたい。
 なお、映画の内容について少々具体的に踏み込んだ箇所があるため、どうしても真っさらな状態で鑑賞したい方は後日お読みになって頂きたい。




 さて、先日「聖剣伝説4」プレイ記録でも述べたように、数日前に聖剣シリーズ30周年を記念する動画配信が行われた。案の定と言うべきか、youtubeのコメント欄は「4の発表まだ?」といった旨のコメントで溢れかえっていた。
 現在ゲームファンのコミュニティにおいて、「4はクソだった」「いや、4はまだ発売していないだろ!」というやり取りは一種の定型句となっている。具体的に何が酷かったかなど、内容について触れる書き込みは残念ながらほとんど見受けられなかった。




 実際、このゲームに不評が多いのは間違いないだろう(本気で面白かった、と感じる人も一定数いるはずだ。絶賛も酷評も、勿論どちらも肯定されるべきである)。本気で4に期待して発売日に定価で購入した人はさぞかし怒り狂ったはずだ。俺自身も3D酔いによる吐き気を堪えながらクリアして「脚本は酷いが戦闘は意外と楽しい微妙ゲー」という低めの評価を下している。だがコメントを書き込んだ全員がそうだろうか?コミュニケーションの為に話を盛っているだけではないか?これは思い過ごしかもしれないが、そもそもプレイしていない人もいたのではないか?



 もしいるのだとしたら、これほど許せないことはない。俺自身も子どもの頃「4はクソゲー」という世評を信じて十五年間プレイせず、ゲーム仲間に「あれってクソゲーなんだよね〜」と話したこともある。その自戒も込め、珍しく憤りを感じてしまった。
 世評やPVから「クソゲー“かもしれない”」と判断し、「クソゲー“と呼ばれているらしい”」と言うなら問題ない。人生は短く、娯楽に割ける時間は有限だ。だからこそ、事前情報から自分に合わなそうなものを避ける判断が重要になる。しかし、自分の目と指で体験していなければクソゲーと断言できるわけがない。そうでない感想は単なる世迷い言、信憑性の無いエアレビューだ。



 この憤りで、俺は以前観たとある映画を思い出した。
 その名は「アタリ ゲームオーバー」。ファミコン以前に大ブームを巻き起こしたゲーム機:Atari 2600の発展と衰退、そしてゲーム版「E.T.」の墓場伝説の検証と発掘を、数々の関係者の映像資料で総括した傑作ドキュメンタリー映画である。伝説の詳細についてはリンク先を参照願いたい。



 本作はレトロゲームファンでない俺が観ても、非常にわかりやすく興味深い内容であった。「インディ・ジョーンズ」ばりの考古学調査で埋葬地を割り出す過程などは素直にワクワクさせられる。数々のスピルバーグ作品パロディや「ゲームオブスローンズ 」原作小説著者ジョージ・R・R・マーティン登場など、散りばめられた小ネタも面白い。




 また、資料的価値も非常に高い。まず本作の監督ザック・ペンは、後に主要証言者の一人アーネスト・クラインの著作「レディプレイヤー1」(Atari 2600が物語上重要な役割をもって登場する)の劇場版脚本を務めることになる。その際メガホンを取ったのは「E.T.」の監督であるスティーブン・スピルバーグだ。実に数奇な縁ではないか!
 更にスピルバーグ自身が、テストプレイをした上でゲームに太鼓判を押した証言映像を見られたのは興味深かった。本作によると、スピルバーグには発売を止める決定権があった。しかし彼はゴーサインを出している。原作者の意向を無視して造られたタイプの粗製濫造型キャラゲーは今日でも存在するが、「E.T.」はそうではなかったわけだ。




 そして一番心をえぐられたのは、終盤で関係者達から語られる以下の言葉だ。

 「プレイ経験が無いのにけなす人が多い。ウワサを鵜呑みにしているだけ」
 「悪く言うことがカッコイイと見做されている」
 「人間はウワサを大きくしがち」
 「E.T.より酷いゲームは山程あるのに、E.T.だけこき下ろすのは許せない」



 これはゲーム版「E.T.」或いはゲームそのものに限った問題でなく、映画や演劇などの芸術作品全てに共通する普遍性を持った問題提起ではないだろうか。
 褒めるにしろ貶すにしろ、何事もまずは経験してからだ。映画鑑賞を趣味にした約十年前から常々感じていたことを、この映画は代弁してくれていたような気がする。その考えに至る以前、聖剣4を遊ばずにエアレビューしていた学生時代の俺に本作を見せてやりたい。

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