「私たちは不器用なジャグラー」 【本編】
5つの球が宙を駆け、セーラー服と長い黒髪が風を纏う。
遊具も人気も無い、ベンチが一脚置かれただけの簡素な公園。そこを彩るのは夕暮れ間近の秋空と、白河奈月が繰り出す5ボールカスケード。
──その完全なる調和は、突然迫ってきた佐和田陽菜の大声で崩壊した。
「お、お願いします!お手玉、わたしに教えて下さい!」
「……ジャグリングって呼んで貰えます?」
─
押しの強い元気な子……それが奈月から陽菜への第一印象。無理もない。練習中に他人に話し掛けられたのも教えを請われたのも、奈月にとって初めての体験だった。
冷めた視線の先は、焦茶色のボブカットの頭頂部。頭を下げた陽菜は、その対応に気付かない。
「とりあえず教えて頂けますか。理由とか色々」
勢い任せに、陽菜は自己紹介と事情を語った。多弁が印象に加わる。
施設に入居した父方の祖父から、幼少期に“3つのお手玉”を見せてもらった思い出。習得出来なかった苦い記憶。まだ彼が“覚えている”うちに披露したい意志。初めての面会の帰り道、偶然奈月を見つけ、突発的に声を掛けたこと。
「わたしにもできたよって、じいちゃんに見せたいんです」
ブレザーの裾を握る手が、小さく震えていた。
理由を知ってなお無下にできるほど、奈月は冷徹ではない。そして他人への披露を志す陽菜の熱意が、奈月の心を少しだけ動かした。
「……私でよければ」
「あ、ありがとうございます!えぇと──」
言い淀む。一方的に喋り倒していた陽菜は、未だに目の前の少女の名を知らなかった。
「白河です。白河奈月。高1」
「同い年!全然タメ口でいいですよ、白河さん」
「ならお互い様。よろしく、佐和田さん」
敬語を止め、奈月の余所余所しさが僅かに消える。
こうしている間にも空は眠りに就き、目覚めた街灯が華やぎ出した。
「もう遅いし、練習はまた今度」
「うん。じゃ、連絡先教えて!」
意気揚々とスマートフォンを出す陽菜。奈月の反応は冷淡だった。
「持ってない」
「うそ」
「連絡する人いないし」
驚く陽菜を意に介さず、奈月は涼しげな顔で言い放った。
「平日、4時から日が暮れるまで。ここで待ってるから」
─
「使って。汚れてて悪いけど、真新しいものより手に馴染むはず」
赤・黄・青。奈月が手渡したのは、少し燻んだ3色の球。
「お金!それに、白川さんが練習に困るんじゃ」
「使い古しだしお金は気にしないで。予備もあるから平気」
「あ、ありがとう!」
「でも今は1つ返して」
青い球を取られ放心する陽菜を横目に、奈月はトスしながら語り出す。
「3つのお手玉……3ボールカスケードの前に、まず片手だけ使って2つ回して。両手とも20周できたら、3つ目をあげる」
右手の上で細長い輪が描かれる。身体の内側から外側へ向けた単純な回転。奈月にとっては。
「えぇと、どうやって?」
「こう」
なおも実演を継続する。それが奈月にとっての解説だった。
「わかった?」
「……ぜんぜん」
─
こうして、特訓の日々が始まった。
「まずは1つだけで練習」
「球の動きを手で補助する感じで」
「落球を怖がったら駄目」
「高く上げて。2つ目を投げる余裕がなくなる」
手本を見せつつ、言葉を探しながらの指導。決して円滑ではないものの、着実に練習は進んでいく。
休日のアルバイト中も、奈月は伝え方を模索する。黙々と工場仕分けに励みながら、陽菜の苦闘する姿を思い起こしていた。
……一方の陽菜も、日常生活における努力を惜しまなかった。
感覚を掴もうと、ポケットに入れた球を触りながら通学する。無論、家での練習も欠かさない。
落球の音が響くリビングで、両親がぼやいた。
「懐かしいね。今度は長続きするといいけど」
「俺さぁ、小さい頃に親父のお手玉なんて、見たことないんだけどな」
そんな会話など露知らず、陽菜は特訓を続ける。『ハノン教本』『チアダンスの基本』『軟式テニスの全て』……。本棚に並んだ様々な背表紙が、陽菜を睨んでいた。
─
日暮れが迫る公園に、マフラーを旗めかせた陽菜が駆け込んできた。
「ごめん、遅くなって」
「気にしてない。面会でしょ。調子は?」
「……寝てた。またお喋りできなかった」
返答に詰まる。余計な発言をしそうな自分を、奈月は戒めた。
「と、これ見て!」
途端に明るい調子で、陽菜は球を取り出す。
──座った奈月の前で、見事に楕円が形作られる。両手とも回し終えると、陽菜は自信満々にVサインを送った。
奈月から青い球が手渡される。3つの球を胸に抱き、陽菜の顔は綻んだ。
「早速3つ回そうか」
「ちょ、ちょっと待って」
「トスの着地点を反対側の手に向けるだけ」
「だけ?」
「焦らず掴めれば大丈夫」
その言葉に冷徹さはなく、確かな自信が込もっていた。
右手に2つ、左手に1つ。陽菜は呼吸を整え、右手の1球目を斜めに放つ。
「あれ」
陽菜に芽生えたのは矛盾した感情。自分の心の平静に対する動揺。手元に余裕がある。球を正確に捉えられる。3つの球が喧嘩せず宙を舞い、陽菜の小さな掌に収まり、再び放たれていく……。
3ボールカスケードを会得し歓声を上げる陽菜に、奈月は拍手を贈った。
「おめでとう、陽菜」
─
「お待たせぇ」
夕焼けを背負った陽菜が、ココアと紅茶を携え戻ってきた。
「どうも」
紅茶を手に取り、会釈する奈月。陽菜は横並びにベンチに腰掛けた。ボトルの口から沸き出す湯気が、少女たちの頬を優しく撫でる。
「回すの、気持ち良いね」
「うん。だから私も続けてる」
「ライブ?とかやらないの?」
「興味ないかな。所詮、自己満足」
「どうして公園で?」
「家だと天井に当たって、大技が練習できない」
他愛ない会話を重ねる最中、陽菜が唐突に身を乗り出した。
「ね、奈月の技、見せてよ」
「……え」
「教えて貰ってばかりで、ずっと見てないし」
「邪魔してきたの、誰だっけ」
「ごめんごめん」
輝く瞳を向け、陽菜は3つの球を差し出す。
「……わかった」
球を受け取り立った奈月は、後ろ髪を振り払った後、少々ぎこちなく一礼した。軽快な拍手が止み、演技が始まる。
──細い指から3ボールカスケードが放たれた。極めて正確な軌道で滑らかに球が駆けていく。続け様に技が連鎖する。2つの球が成す山の外側を1つの球が高く跳び越える、オーバー・ザ・トップ。躍動感に溢れた技を繰り出す奈月の額には、汗一つない。次は逆回転のカスケード、リバース・カスケード。徐々に上昇する回転速度に合わせ、陽菜の鼓動も高鳴る。
「おぉ」
「まだまだ序の口」
口元を少し緩ませた奈月は両腕を交差させ、次の技に移行する。腕の重なりを交互に変えながら、球が今まで以上に複雑な軌道──“∞”を描く。
陽菜は技の難解さに驚いた。同時に、朧げな記憶が蘇る……。
「あ!」
「何、始めたばっかりなのに」
「それ、じいちゃんがやってた!」
演技が止まった。
「お祖父様が?ミルズメスを?」
「名前は知らないけど、でもその形!思い出した!」
「間違いない?」
「うん!きっと子どもの頃から上手かったんだよ、凄いよね」
カスケードこそが“3つのお手玉”という想像は、奈月の単なる思い込み。陽菜も幼少期の記憶ゆえ、改めて技を目にするまで失念していた。
陽菜の祖父のお手玉に、奈月は思いを巡らせる。子どもの頃から……?一瞬感じた違和感は、陽菜への問いかけで上書きされた。
「これ、中級者向けの技だけど」
中級者。その言葉を聞き、陽菜の思考が一瞬停止する。
「カスケードよりも凄く難しい。どうする?やりたい?」
少し間を開け、陽菜は首を小さく縦に振った。
殺風景な公園に、街灯の光が長い影を落とす……。
─
「とにかく動きに慣れて」
「軌道を意識しながら投げる」
「煮詰まったらイメトレ」
アドバイスを受け、落球を重ね、ひたすら陽菜は練習を繰り返した。
──しかし、中級者の壁は高い。
「あ」
また。土埃が舞った。黒いローファーは既に白砂まみれ。“もう1回!”“まだまだ!”そんな自己暗示をする余裕は、今の陽菜にはない。
沈黙を破る声の主は、奈月だった。
「……何でできないんだろう」
悪意のない独り言。理由と解決策を知りたいだけ。だが、その意思は陽菜に伝わらなかった。
練習の手が止まる。鼻をすする音が響くと同時に、陽菜は奈月から背を向ける。奈月が慎重に覗き込むと、陽菜の眼から涙が溢れていた。
「わ、わたし」
「不器用で、好きなこと上手くできなくて」
「いつもつまずいて、初心者止まりで」
「ちゃんとやってるつもりなのに、なんでって言われても、どうしようもなくて」
か細く震える声で、少しずつ言葉が紡がれる。
何で。どうして。愚直な陽菜はそうした言葉に心を突き刺され、幾つもの“好きなこと”を諦めてきた。
過ちを察した奈月にできるのは、ただ謝り続けることだけだった。
「ごめん。陽菜、ごめんね」
奈月は悟った。かつて抱いた第一印象は、陽菜が日頃から道化を演じている産物だと。そして、心の底から称賛した。挑戦を目指した陽菜の勇気を。
─
ベンチに並んでうつむく二人。奈月が慎重に口を開いた。
「聞いて。私の想像だけど──」
語り出したのは、以前抱いた違和感の正体。
ミルズメスは、50年程昔に海外のジャグラーが開発した技。世代を考慮すると、彼が子どもの頃には存在すらしていない。だとすれば……。
「歳を取ってから、凄く練習したんじゃないかな」
「なんで?」
「今の陽菜と同じ。きっと、見て喜んで貰いたかったんだよ」
──じいちゃんに見せたいんです。
出会った日の言葉が、同時に思い起こされる。
「私、他人のための努力なんてしたことない。本当は誰かに技を見せる自信もなかった。でも陽菜たちは違う。凄いよ」
「なら奈月も一緒。わたしのお願い聞いてくれたし、お手本も見せてくれた」
「……そっか。そうかもね」
顔を見合わせ、少女たちは微笑む。
「練習、続けよう」
優しい声に後押しされた陽菜は、涙を拭い力強く立ち上がった。
「うん!」
……勢いの余り、ポケットの中のスマートフォンが落下する。
「やば!……良かった、割れてない」
慌てる陽菜。対して、奈月はある考えを閃いた。
「陽菜、それ貸して!」
「え」
「動画の撮り方、教えてくれる?」
──様々な角度から、奈月は陽菜の練習を録画した。
自分の動作と客観的に見える姿には必ずズレが出る。姿見で確認するにも指摘するにも限界がある。陽菜自身が直接ズレを認識できれば何か掴めるかも。それが奈月の策だった。
「……ぐちゃぐちゃ」
問題点は一目瞭然だった。腕が球に踊らされている。側面から見た球の横軸に振れ幅がある。足元も不安定。
動画を見て落胆する陽菜を、奈月はそっと励ます。
「徐々に直せば平気。中級者は目前。私を信じて」
─
ベッドが置かれた個室に、3人のジャグラーが集う。
起きてこそいたが、祖父の目は虚ろだった。
「じいちゃん」
陽菜が燻んだ3色の球を見せる。祖父の目蓋が少しだけ動く。
「見てて」
深呼吸。
交差させた腕から放たれた球は、踊るように、楽しげに∞を描く。整った形ではないが、紛れもないミルズメス。かつて祖父が陽菜に見せた思い出の技。
30秒程して回し終える。見守る奈月は固唾を飲んだ。
──そして。
「……よくできたなぁ」
口元に微笑みを浮かべ、掠れた声で祖父が言った。その脳裏には幼き日の陽菜と、彼女のための努力が蘇る。
陽菜は瞳を潤ませ、祖父の手を握った。
─
「次はファウンテンやろっかな」
「基礎を飛ばしてきたから、もっと簡単な技にすれば」
「早く奈月に追いつきたいし」
「調子に乗らない」
星に満ちた寒空の下、コートを着た少女たちが語らいながら歩く。
「奈月のジャグリング、他の人にも見せてあげたいんだけどなぁ」
独り言のように冗談めかす陽菜。奈月はここぞとばかりに、真新しいスマートフォンを取り出す。
「あ!」
「実は、これ──」
声が重なり合う。
画面上には大道芸イベントの応募フォーム。決意が表明されようとした瞬間、眼前の機械に反応した陽菜が、悪戯な笑みを浮かべ囁いた。
「ねぇ、まず聞くことあるでしょ」
沈黙の後、奈月は頭を下げる。
「……連絡先、教えてください」
木枯らしが揺らす黒髪に、陽菜は温かい眼差しを送った。
完
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?