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『働くことの人類学/仕事と自由をめぐる8つの対話』

☆mediopos-2432  2021.7.14

本書はコクヨ野外学習センターのポッドキャスト
「働くことの人類学」のシーズン01
(2020年7月〜2021年2月)に
新たなコンテンツを加えて書籍化したものだが
ポッドキャストのことはまったく知らずにいた

このなかでは7人の文化人類学者が
それぞれのフィールドで体験した
「知られざる場所の知られざる人びと」
(狩猟採集民、牧畜民、貝殻の貨幣を使う人びと、
アフリカの貿易商、世界を流浪する民族、ロボット)
の「働き方」についての対話が行われ
それらの「働き方」によって私たち日本人の
仕事観・経済観・人生観が照らし出されている

働くということについて
日本人の多くは
ある一定のイメージをもっているが
世界各地の「働き方」そして
「働く」ということについての考え方は
ずいぶん異なっている

いま日本では「働き方改革」と称して
公に「働くこと」中心できたあり方から
私的に「生きること」を大切にするあり方への
制度改革が行われているが
それらは幼稚な仕方で
企業に教育指導を行っているように見える

そして「急に「生きること」だけを
強制的に分離されて
「何のために生きてるんだっけ?」
という問いに直面している」わけである

「働く」ということについての考え方は
人それぞれで一様なものではないが
「働き方改革」を敢行しなければならないほど
日本人の「仕事」は「そういうものだ」ということで
「働くこと」と「生きること」が
暗黙の前提として重ねられてきたのである

ぼく自身についていえば
小さい頃から
働くというのは
どういうことだろうと
半ば不安を感じながら思っていて

働くということよりも
どうしてじぶんは
こうして生きているんだろう
という思いのほうが強くあったようだ

社会的な発想の稀薄なぼくは
働くということに
社会参加のようなイメージを持っていたので
できれば働かないで生きていければと
ばくぜんと思っていたところがある

経済的に困窮している家庭で育っていたけれど
だからといってハングリー精神のようなものもなく
働くことが必要になったときにも
とりあえず生活していく必要はあっても
なにかのために働くという発想はなかった

しかし運命のいたずらと
働かないがゆえの面倒を避けるためもあり
学生時代から働きはじめ
形としてはその後ずっと働き続けてはいるが
働くということについての特別な意識はずっと希薄で
働くことそのものに特別な意味があるとも思わないし
○○のためにという発想もほとんどない

「働くこと」とじぶんなりに「生きること」が
実質的にまったく乖離しているからでもあるが
だからといって「働くこと」を
無意味だと思っているわけでもない
それはそれだ

そしていまだに
働くということがどういうことなのか
わかっているとは言えない

ただ深いところで感じているのは
やりたいことをあえて仕事にしていないのは
文化人類学者がフィールドワークをするときのように
「自分がもっているその「主観」を崩したい」
ということがあるのかもしれない
「自分の体を実験台にして、そこで起きる
ズレや違和感をちゃんと捉えること」ということだ

せっかく生まれてきたのだから
ほんらいのじぶんをそのままにしたところで
なにも新しいものを魂に加えることはできないから
「ズレや違和感」を感じる状況に身を置いて
そこで実験してみようという発想とでもいえるだろうか

ぼくの場合は
少し特殊な捉え方をしているのかもいれないが
人はそれぞれに
働くということに
なんらかの意味づけをしているのだろう
そしてそれはそれぞれがなにをしようとして
この世に生まれてきているのかを
照らし出してくれるものでもあるのかもしれない

「○○のために働く」という人は
その「○○」こそが課題なのだろうし
別の視点をもった人もまた
その視点に応じた課題をもって生きているだろうように

■松村 圭一郎+コクヨ野外学習センター・編
 『働くことの人類学/仕事と自由をめぐる8つの対話』
 (黒鳥社 2021/6)

(深田淳太郎×丸山淳子×小川さやか×中川理
(ホスト=松村圭一郎/進行=山下正太郎・若林恵)
 「働くこと・生きること」より)

「若林/フィールドワークを何のためにするのかと言うと、自分がもっているその「主観」を崩したいんですね。(・・・)
 フィールドワークすをする人は、主観をもった存在としてフィールドに行くんですが、その主観を脇に置いて、別の見方を獲得しようとする。その意味で「主観的な見方」にとどまってはいられないわけです。別の見方の可能性に触れるために相手の生活の文脈に入っていき、複数の主観のあいだを行ったり来たりする。それって、ある意味で「客観的」ですよね。自分の体を媒介にしてというか、自分が異質な存在として入ることで起きる出来事を介して、相手の行動の背後にあるものを理解しようとするんです。
(・・・)フィールドに行く前に想定できる質問事項や指標で事足りるなら、現地に行く意味はほとんどないわけです。
 現地に入る前に用意した自分の枠組みとか客観的指標を押し通そうとすると、かえってそこにある本当に面白いことを取りこぼしてしまう。だから特定の主観をもつ自分の体を実験台にして、そこで起きるズレや違和感をちゃんと捉えることが大事なんです。」

「山下/ここ数年、働き方改革があって、企業の働き方を変えていこういう動きと同時に、一人ひとりの働き方や生き方も見直しが迫られています。
 例えば、働き方改革によって、「残業はなしです」「5時には会社から帰ってください」「帰って好きなことをやってください」とほっぽり出されてしまったときに、多くの人がやることが何もないということがあります。
 つまり「働くこと」と「生きること」とがほぼ重なっていた人たちが、急に「生きること」だけを強制的に分離されて「何のために生きてるんだっけ?」という問いに直面しているんですね。働くことの意味とかやりがいといったところで、先生方が見てこられた人びとと日本人とでどういうところに違いがあるのかというあたりを伺いたいと思いました。
若林/おそらく関連する質問だと思うのですが、小学生の先生をしている方から、「子どもに、何のために働くの?と聞かれたら、登壇者のみなさんは何とお答えになりますか」という質問が来ています。これ、子どもたちに聞かれるんでしょうね。つらいですね、小学校の先生って。だってこて答えられないですもんね。」
「若林/例えば、同じ質問を、フィールドを行かれたときにされたりすることってあったりしますか?
丸山/「何のために働くの?」ですよね。どうでしょうね。ブッシュマンに聞いたら「食べるため」と答えるんじゃないかという気がします。あとは「楽しいから」ですかね」あるいは「やりたいから」「それをやってみたいから」かな。
 でも、本当は「何かのために」働かなくても別にいいんですけどね。働きたくなかったら働かなくてもいいんじゃないかって。そんなことは、あまり小学生に言っちゃいけないのかもしれないですけど。」
「若林/でも、そう言われると、「何のために働くの?」という質問の背後には、「何かのために働くもんだ」という前提があるわけですね。その質問自体が変なのかもしれないですよね。」

「小川/「何のために働くのか」「どうして働くのか」っていう質問って単線的な時間観に基づいていますよね。未来の目標を立て、計画を立て、それに向かって頑張って実現する、みたいな感じなんですが、それは私が調査している人たちには、あまりない考えなんです。色々やっていたほうが、きっといいことがあるとは言いますが、どうなるかわからないという意味では、そもそも未来に向けて明確に緻密に計画を立てることはしていないと思います。」

「若林/松村さんは、働くことが「道具」だと考えられているとおっしゃいましたが、そうした考えがたしかに仕事というものから意義や価値を奪っているような気がしてきます。自分はできるだけ「仕事はそれ自体が目的だ」と思うようにしながら仕事をしてきたところがあるんですが、それって変な考えなんですかね?
丸山/「やっていること自体に意味がる」っていう感覚は、私自身も自分の仕事に対してはそういうふうに思ってやっていますね。結局やっていることそれ自体に何か魅力があったから仕事としてやってきたと思うんです。であればこそ、そこで大事なのは、やっぱり、嫌になったときにそれをやめられるかどうかだと思うんです。それがやめてはいけないとなると、さっきから話に出ている「○○のために」が必要になると思うんです。「お金のために」とか「家族のために」とか。」

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