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人がうらやましくなる時は

 子どもを産んでから、人のことを「うらやましいな」と思うことが増えた。どんなことをうらやましく思うのか書き始めたら、なんだか悲しくなってしまったので、おもわず全部消してしまった。

 独身の人は、結婚した人のことを。結婚した人は、子どもがいる人のことを。子どもがいる人は、子どもがいない人のことを。子育てを終えてしまった人は、子育て真っ最中の人を。子育て真っ最中の人は、子育てを終えた人のことを。仕事をしたい母親は、バリバリと仕事する母親のことを。仕事をせざるを得ない母親は、仕事をしなくてもいい母親のことを。

 みんなそれぞれ、自分にないものをうらやましく思う瞬間って、あるのかもしれない。

 30代前半の頃だっただろうか。「この方向に進んでいこう」と決めて、ある仕事に取り組んでいた時、共に働く周りの人たちの都合で、その仕事が続けられそうにないという危機が訪れた。自分の努力ではどうしようもない理由で、やっと軌道に乗りかけた仕事が強制終了しかけている事実に落胆し、「この先どうしていったらいいのか」と途方に暮れた。

 この世には、仕事も恋愛や結婚も、何もかもうまくいっているように見える人がたくさんいるのに、私はそのどれもうまくいっていない。前世でそんなに悪いことをしてきたのかな?何度つまづいても、何度転んでも這い上がり、前を向いて一つずつ乗り越えて生きてきたのに、どうしてこうもうまくいかないんだろう?

 その時、30数年生きてきて初めて「私の人生、もうここで終わってもいいや」と投げやりになり、一人で泣いたことを覚えている。

 でも、もしここで本当に人生が終わってしまったら、ただ一つ後悔が残るなと思った。生まれ育った家族以外の存在———自分が選んだパートナーや自分の子どもに、愛情を思いきり注ぎたかったのに、それができなかったということが心残りになるだろう、と。

 その後、韓国人の夫と結婚し、息子が生まれた。「私の人生、もうここで終わってもいいや」なんて思っていた時には想像もしなかった、国際結婚と韓国移住。その後すぐ、海外での孤独な妊娠期間と、ひとりきりの出産を経験することになった。産後は、初めての育児でおっぱいトラブルに悩まされ100日泣き、息子は1歳半の頃に熱性けいれんを起こし、救急車で病院に運ばれた。

 そして昨年、突然始まったコロナ禍で世界が混乱する中、自営業のわが家は感染拡大予防のため自主的に業務を停止することになった。その矢先、パートナーの病が発覚し、入院・手術。その後、秋と冬にも2回、コロナ感染者急増のため業務停止(自主的でなく行政命令)の時期があり、わが家の収入は約3か月分ゼロとなった。

 当時、私にはまだ言葉も話せない小さな子どもがいて、周りには頼れる人が誰もいなかった。そんな中、夫の命が危ないかもしれないという恐怖と、経済危機の不安まで重なり、毎晩息子を寝かしつけながら声をおし殺して泣いていた。唯一、コロナ禍の中、感染の危険をおかしながらも1か月半ほど助けにきてくれた母の存在が、私を救ってくれた。

 1歳半から保育園に入れた息子は、時々風邪をひくものの、すくすくと育っているように見え、大きな病気をすることなく安心していたのだが、今年9月にはアデノウイルス(プール熱)に感染し、1週間入院。退院後も1週間は家から出られず、約2週間にわたり、24時間付きっきりの看病が続いた。そして今も扁桃腺を腫らし、家で看病している真っ最中である。

 ここに書き出した以外のことで、良いことも大変なことも、もっといろいろあったわけだけれど、ともかく。数年前に「パートナーや子どもに思いきり愛情を注ぎたい」と思っていたことが、ある意味実現しているのは確かだった。

しっかり愛情を注げているかは別として、家業の手伝いや家族の世話で一日が終わり、自分だけの時間なんてものは皆無に近くなったのだ。「言葉にしたことが現実になる」というのは本当だなと、つくづく実感している。

 ここまで読むと「願った通りになって良かったやん」と思う人も多いだろう。ところがだ。私は今でも心身ともに辛くなってくると、数年前と同じく、自分にないものを欲し、隣の芝生が青く見えてしまうのだ。

 例えば、子どもを持たない人や、子どもがある程度大きくなったという人が、ひとり時間や友達との時間を楽しんでいる様子を見聞きすると、うらやましいなあと思うし、誰かのパートナーが仕事も趣味も、家事まで楽しんでやっているというのを見聞きすると、その若さや健康をうちのパートナーに少し分けてやってほしいと思ったりもする。

 つい先日は、こんなこともあった。熱を出して夕方から眠ってしまった息子がけいれんを起こさないかどうか心配で、何時間も横に張りついていた時。在韓歴がほぼ同じなのに、子育てしながらYouTubeまで撮影・編集している方の動画をつい見てしまい、素敵だなと思う一方で、ひどく落ち込んでしまったのだ。

 休日に子どもをパートナーに任せ、仲良しの友人と買い物に行き、おいしいものを食べ、ショッピングをする様子。子どもたちが保育園に行っている間に、カフェで出てくるような料理を作って自分のためにきれいに盛り付け、優雅に味わう様子。

お皿一つ、洋服一つとっても「大好きなもの」をちゃんと選んでいて、自分を後回しにしていないし、精神的にも成熟していて子育ても楽しんでいる(ように見えた)。経済的にも余裕がある感じだし、こんな動画の編集までやってのける時間と体力と才能に恵まれているとは...!

なんなんだ、これは。同じ韓国で、同じ4年間を過ごしてきたはずなのに、こんなにもいろいろ違いすぎるなんて…。子どもたちもうちの息子より、はるかにおとなしく、育てやすそうに見えるではないか。とにかく、ただただ今の私にはまぶしすぎた。

 子育て中は、というか私はまとまって休める時間が持てないため、家事•仕事の合間や子どもが寝た隙に、スマートフォンでさくっとニュースやSNSを見たり、調べものをしたりする時間が多い。だからついこんな風に、通りすがりの人の姿を見て「いいなあ」と思うことが増えてしまった気がする。

 でも、その一方でこうも思うのだ。もしかしたら私が「いいなあ」「素敵だなあ」と思う人でも、人にはとても言えない大きな悩みを抱えているかもしれないと。

 家族関係は上手くいっていても親戚づきあいで悩んでいるかもしれないし、経済的余裕はあっても実は子どもが悩みの種なのかもしれないし、結婚前までは壮絶な人生を歩んできてやっと今幸せをつかんだのかもしれないし。今は何もなくても、これからの人生で山あり谷ありが待っているのかもしれないし。

いつもパートナーや自分のライフスタイルをちょっぴり自慢気に書いている人は、実は自分自身に自信がなく、だからこそ人に誇れる夫や生活の豊かさを書くことで自分の心を保っているのかもしれないのだ。

 私自身、SNSを通して知り合った人(直接会ったことのない人)に、「自然の中でやりたいことをやって暮らしてらっしゃるようで、うらやましいです」なんて誤解されていことがあったり、しばらく会っていなかった友人知人に「結婚もして子どももできて幸せいっぱいだね」なんて言われたりして、「え!そんな風に見えてるんだ」と思い、びっくりしたことがあった。

 つまり、苦しい時や何か満たされない思いがある時は、つい隣の芝生が青く見えるけれども、実際その人に聞いてみたら、人には言えないことで悩んでいたり、人には自分の一部しか見せていないっていうことがよくあるよね、というお話。

 少し話はそれるけれど、結婚前、実家で父方の祖父母を同居介護していた時、自分でできることでも「やって」と言ってくる祖母に腹が立ち、通っていた整体の先生に愚痴を聞いてもらったことがあった。その時先生が、こう言ったのだ。

「おばあちゃんを見ていて腹立つなって思うことがあったら、それを真似してみたらどう?」と。

 例えば祖母は、平日の夜、私と母がリビングにいるとすぐ部屋から出てきて「ちょっと、コーヒー淹れて」と言うのが日課だった。仕事を終えて疲れて帰ってきた私は、自分の部屋で飲めるはずのコーヒーを私たちに淹れさせようとする祖母のふるまいに、いつも腹が立っていた。

 でも先生の言葉を聞いて、私は気づいたのだ。今までどこか、祖母のことがうらやましかったのかもしれないと。自分が辛い時、誰かに甘えたい時、「お願い。助けて」ということが昔から苦手だったから、祖母のように人に甘えて生きている(ように見える)人がいると、いつもイライラしていたのだった。

 今朝ふとそのことを思い出し、出勤前のパートナーに2時間だけ息子の面倒を頼み、家事や育児は何もかも放り出して、睡眠導入効果のあるBGMを聞きながら眠った。

先月の息子の入院以降、看病の疲れを引きずって毎晩深く眠れなくなり、きのうは体調不良でぐずる息子に、必要以上にきつく当たってしまった私には、何よりも睡眠が必要だった。だから言ってみたのだ。「ちょっと寝かせて。じゃないと夜まで面倒見られない」と。

去年までは病み上がりのパートナーを少しでも休ませてあげようと思い、身体が辛くても無理をしていたけれど、今年はもう自分の心身が限界に来ているので、少しずつパートナーに任せる時間を増やすようにしてきた。

人の姿を見て「うらやましいな」と思った時は、自分が何を我慢しているのか?何を欲しているのか?胸に手を当てて考えるようにもなった。そして、うらやましく思った事柄を真似できるなら、今の自分にできる範囲で実行するようにもなった。

今年は、結婚前からずっと行きたいと思っていたキャンプに出かけ、息子の3歳のお祝いをした。国からコロナの支援金をいただけたおかげで、キャンプ用品を揃えることができたのだ。雨が降ったり、息子がテントで寝るのを怖がったりしてクタクタになったものの、コロナ禍で家と保育園と職場とマートと公園しか行けなかった日常に、少しだけ風穴があいた気がした。

また、先日は移住してからまだ一度も会えていなかった留学時代の香港出身の友人と、6年ぶりの再会を果たした。お互い韓国人と結婚した外国人同士、話したいことは山ほどあった。懐かしい学生街を歩きながら、今度は香港料理を食べに行こうと約束して別れた。

その日の夕方からは、最近韓国留学をスタートしたという日本人女性と初めてお会いし、焼肉を食べて夜のカフェ通りを歩いた。出産後、夜に子どもなしで街を歩き、誰かとご飯を食べるなんて初めてのことで、なんだか夢を見ているようだった。

夜21時、降り立ったバス停まで相方と一緒に迎えに来てくれた息子の顔を見た瞬間、「あれ?私が産んだ子、こんなにかわいかったっけ?!」と思ってしまったほど、子どものことをとても愛おしく思っている自分がいた。

それはやっぱり、誰かを見て「うらやましいな」と思っていたことをおもいきってやってみた結果、心が少し満たされたから感じられるようになった気持ちなんだろうと思う。

だからと言って、例えば今すぐ日本に帰省したり、会いたい人に会いに行ったり、食べたいものを食べに行ったりはまだしづらい日常なのだが、ただただ人をうらやんで「どうせ自分は」といじけるより、いつか実行できるように計画を立てたり、家族に協力をあおいだりして、自分で自分をどんどん満たす努力をしていきたいなあ、と。

そうやって自分の心が満たされたなら、私は今よりもうちょっと広い心で、家族に愛情を注げるようになるんじゃないかな、と思うのだ。

今日は昼ごはんも食べずに眠ってしまった3歳児が起きてくるまでの2時間半で、この文章を書いた。午前中に仮眠をとり、正午からは息子が寝てくれたので久々にゆっくりと文章が書けた私は、起きてきた彼にいつもより優しく接することができた。

昨日はまったく昼寝せずグズグズだった息子も、今日はよく寝たからか、機嫌が良かった。

親も子も、やっぱり睡眠第一なのだ。そして、自分の心を自分で、難しければ家族や友人に力を借りてでも満たしてあげることが大事なんだと再確認した午後だった。

日本にはまだ帰れそうにないけれど、息子が元気になったら、大好きなひつまぶしを食べに行こう。そして、「会いましょう」と言いながら会えていなかった人たちに連絡しよう。

「うらやましさ」は、私を苦しめる敵ではなくて、私が本当に望むものに気づかせてくれる味方。そう気づけたことで、これからの韓国生活を今よりもっと楽しんでいけるような気がしている。

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