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韓国×育児×コロナ。「もう駄目だ」と思った私を助けてくれたもの

離れて暮らす家族がついに

 私にはフランス人の家族がいる。南仏で暮らす16歳の女の子で、最後に会ったのは2018年の夏。3歳の息子がまだお腹にいた時だった。

 1月19日の夜、彼女から「コロナに感染して10日間の自宅隔離中だ」と連絡が入った。症状は熱と咳。相方がビデオ通話で連絡してみたものの、声が出せないようで、会話はできなかった。ワクチン接種は2回済ませていたという。

 その頼りが届く直前、「フランスでは1月18日、1日の新規感染者数が46万人を超えた」とニュースで目にしたばかりだった。同日、私が暮らす韓国の新規感染者数は5800人余りだったので、数字だけ見ると、フランスでいかにコロナが猛威を振るっているか想像できる。

 今まで比較的落ち着いているように見えた日本も、18日に新規感染者数が3万人を超え、過去最多と報じられていた。日本で暮らす家族や友人は、どんな毎日を過ごしているだろうか。日本にもフランスにも今すぐ飛んで行けない私は、ただただみんなの無事を祈るしかない。

帰れない、休めない、買い物にも行けない

 韓国人の相方と国際結婚して5年目。韓国に移住したばかりの頃は、いつでも日本に帰れると思っていた。しかし、すぐに子どもを授かったため、年に一度しか帰省できなかった上に、コロナ禍で、もう2年半日本の地を踏めずにいる。「いつでも帰れる」と思って暮らすのと、「よっぽどのことがないとすぐには帰れない」と思って暮らすのでは、感じるストレスの度合いに雲泥の差があるものだ。

 それでも何とか気持ちに折り合いをつけ、大なり小なりいろんな問題を乗り越えてきたつもりだった。ところが昨年12月から、今自分がものすごくストレスフルな状態にあると、はっきり自覚するようになったのだ。そのきっかけは、秋からずっと続いていた家族の体調不良による生活変化と、12月初旬から始まった防疫パス(予防接種証明・陰性確認制度)の導入だった。

 今思えば昨年9月、息子が高熱を出して1週間入院し、24時間・交替なしで付き添った時に、心と身体は「もう無理」と白旗をあげていたのだ。でも私は休めなかった。退院後も毎月息子は気管支炎になり、咳が出だすと1〜2週間は保育園を休んでいた。私はそのたびに在宅の仕事をキャンセルし、病院以外は家から一歩も出ず、看病する日が続いた。

 息子だけならまだ良かったが、同時進行で相方も体調不良が続き、私は家族のケアに明け暮れることになった。自宅で1年以上、平日毎日続けてきた仕事は、キャンセルを繰り返した末に担当を降り、新規の依頼も泣くなく断る始末。わずかながらも得ていた収入をほぼ失うことになった。

 そんな風に身も心もボロボロになりかけていた私に追い打ちをかけたのが、12月初旬に韓国政府が導入を決めた防疫パスの存在だ。導入当初はまだ良かった。私のように2次接種完了者でない人(以下、未接種者)も1人までなら、接種完了者3人と共に食堂やカフェで飲食できたからだ。

 しかし、その後すぐ「未接種者は1人きりで飲食を」という決まりに変わってしまった。そのため、私はもう家族と一緒に外食したり、友人知人とカフェでお茶することもできなくなった。そもそもこの2年間、誰かと一緒に外食やお茶をする機会など、指折り数えるほどしかなかったのだが、唯一残されていた息抜きの手段や、人との交流の機会すら奪われてしまった。

 さらに、1月10日からは公共施設のみならず、大型マートや百貨店の利用もできなくなった。未接種者はPCR検査の陰性証明があれば入場可能といえども、幼子を連れて出歩くのが難しい私のような人間は、検査を受けに行くのも一苦労で、もう「買い物をするな」と言われているのと同意だった。

 韓国の防疫パスはQRコード形式で、食堂やカフェを利用する時はコード読み取り機にかざす必要があるのだが、ある日突然、未接種者だけ「ピッ」と音が鳴るようになった。とあるカフェでは未接種者のカップにだけシールを貼ったり、とある食堂では、1人きりなら利用可能なはずの未接種者を「入店お断り」にしたり、追い出したり、怒鳴りつけたりしたというニュースが、連日のように報道されるようになった。

 そんなわけで、私の狭い生活圏内で、誰かの視線や後ろ指を気にせず利用できる場所は、近所の小さなマートやコンビニ、キッズカフェ(カフェの利用は息子だけ可)、そして公園だけになってしまったのだ。

 私のように事情があってワクチンを打てない人、打ち控えている人、打った後の副作用や後遺症に苦しんでいる人、命を落としてしまった人がたくさんいる中で、「ワクチンを打っていない人を守るために」という大義名分のもと、生きるために必要なものにまで制限をかけていくやり口は、「戦争に勝つために」と言って人々から自由や思想や食料を奪っていった過去の歴史と、一体何が違うのだろうか?

 そんな風にひとり静かに憤っていた年明け早々、息子が今度は肺炎になった。コロナ感染者増加で病床不足のため入院はできず、救急センターも受け入れ不可と言われ、不安を抱えたまま自宅での看病が始まった。そうやって息子と2人、家に引きこもっている2週間のあいだに、多くの国民からの批判を受け、大型マートや百貨店、塾、博物館、映画館・公演施設などでの防疫パス適用が取り消されることになった。

 私は早速、病院帰りに大型マートへ立ち寄り、割引になっていたイチゴと、セール品のみずみずしい済州島産大根、小さなマートには置いていない商品などをかごに入れた。

 どんなにネットショッピングが発達しても、ネットでは買えないものもあるし、お店に足を運ぶからこそ得られる物や発見があるから、人はわざわざ買い物に行くのだ。買い物は生存のために必要な行動でもあるが、よりよく生きるための行動でもある。それを勝手に制限され、選択の自由を奪われる辛さというものは、きっと、経験した人にしかわからないだろう。

これってもしかして、コロナうつ?

 あちらもダメ、こちらもダメ。逃げ場もないし、ほっとできる人たちとの交流もない。そうなると人間は本当に弱ってしまう。あまりにも苦しくて日本にいる家族や友人に話してみるものの、「韓国ってそんなに大変なんだね」というひと言で、そうか、私が今置かれている状況を理解してもらうのはそもそも難しい話だよな、ということに気づいてしまった。

 では、同じ韓国在住の友人知人なら慰め合ったり共感し合えるのかと言うと、そうでもない。ワクチン接種の有無や、ワクチンおよびコロナ対策についての考え方の違い、子どもがいるかいないか、子どもが大きいか小さいか、周囲のサポートがあるかないか、仕事をしているかいないか、経済的にゆとりがあるかないか…など、もうみんなそれぞれ家庭事情が違うので、重なるものが少ないと共感し合うことが難しい。それで結局、私は誰にも相談できなくなってしまった。

 そうなると迫ってくるのは「孤独」という2文字だ。洗濯を干したり皿を洗ったりしている最中に突然涙が出てきたり、息子がひどい癇癪を起こして泣き止まない時や、相方の残念な言動にいらだって喧嘩になった時、尋常でない怒りや悲しみの後に、今まで味わったことのない孤独感が襲ってきた。

 もはや家庭しか自分の居場所がないのに、共に暮らす家族との関係がギスギスしてしまったら、私は一体どこへ逃げ込めば良いのだろう。気づけば「休みたい」「もう消えてしまいたい」「お母さんを辞めたい」と思ったり、口走ってしまう自分がいた。このままでは駄目だ。もう長期で日本に帰るしか、楽になれる道はないのだろうか…?

遠く離れた家族に励まされ

 そう思い詰めていたある日。アメリカで暮らす義妹から、誕生日祝いのメッセージが届いた。義妹家族はコロナ騒動が始まった2020年1月に、韓国からアメリカへ移住。家族4人全員ワクチンを接種しておらず、今暮らしている街では、人々が1年以上前からマスクなしの生活をしているという。

 私は思いきって、義妹に今までの苦しい胸の内を伝えることにした。「日本にも帰れないし、韓国もどんどん暮らしづらくなり、行き場がなくてとても辛い」と。すると義妹は、韓国にいるワクチン未接種の友人や、「自分は打っても子どもには打たせたくない」と考える友人たちが、皆生きづらさを感じ、うつになりかけていると教えてくれた。「そうか、私だけじゃないんだ…」。自分と同じように辛さを感じている人がいるとわかっただけで、少し安心感が生まれ、孤独感が和らいだ。

 そして、海外で暮らしている者同士、男の子を育てている親同士、抱えている悩みやこれまでの積もり積もった痛みをたくさん共感し、励ましてくれた。義妹も今、韓国に帰りたくても帰れない状況の中で暮らしているのだ。いくら英語が流暢で、韓国人のコミュニティにも恵まれ、家では同じ国出身の夫と韓国語で話せる環境とはいえ、親や兄弟、友人にも会えず、故郷の土を踏めないというのは、私と全く同じ状況だった。

「お義姉さん、文章を書いてみるのはどうですか?今はそんな時間がないと思うかもしれないけれど、時間がない状況はこれからもずっと続きますから(笑)。時が過ぎれば、“あの時書き残していればよかった”と思うはずですよ」

 そんな義妹のメッセージに、私はこう返した。

「一昨年から少しずつ書いてはきたんですが、家族が体調を崩すたびに何もできなくなるから、もう書くことも諦めた方がいいのかなって、何度も思ってしまって。それに、こんな憂うつな気持ちで書いた文章を誰が読みたいと思うだろう…って考えたら、全然書けなくなってしまったんですよね」

 すると、義妹はこう言った。

「お義姉さん、憂うつな時に書いた文章は、同じ気持ちを一度でも味わったことのある人たちにとって、ものすごい癒しになるんですよ。実際、憂うつ感って、この地球上にいるすべての人が皆経験する気持ちじゃないですか?この機会を逃さず、必ず書いて、世界にいる誰かの希望の光になる仕事をしてくださいね」

 義妹は、会えばいつも明るく振る舞っていたけれど、結婚して第一子を出産後、体調を崩したり大きな困難に遭ったりして、とても大変な時期があったと聞いていた。それを乗り越えて今がある彼女の言葉には、弱りきった私の心を潤してくれる力強さがみなぎっていた。

 1つ年上だけれども、いつも「お義姉さんオンニ」と呼んでくれる義妹とは、アメリカ移住前ほとんど会えなかったし、移住後も頻繁に連絡を取り合う関係ではなかった。でも今は、遠くにいるのにとても近い存在に感じる。お互いに海外で暮らしているという共通項ができたからこそ、話しやすくなったともいえる。

今ここで、自分のためにできることは?

 義妹は「文章を書くこと」の他に、「子どもを夫に任せて外で自分だけの時間を過ごすこと」、「一日に少しでも夫婦で語らう時間を持つこと」、そして「毎日運動をすること」が心身の健康を取り戻すために役立ったと教えてくれた。

 その後、「これも何か助けになるかも」と言って、いくつか動画を送ってくれた。それらは韓国で人気だというテレビ番組で、家族関係や人間関係、生き方や子育てなどに悩む人たちの心を軽くするヒントに溢れていた。


 上の2つの動画には、俳優・作家・ユーチューバーとしても活動している人気講師、キム・チャンオク(김창옥)が登場。悩める人たちへ、自身の体験をユーモラスに語りながらアドバイスする姿に、つい引き込まれた。

 中でも2つ目の動画、“男性の情熱が冷めたら変わること(남자의 열정이 식으면 바뀌는 것)”の中で、こんな言葉が紹介されていて、心に深く響いたので書き残しておきたい。

プライドの花が落ちてこそ人格の実が結ばれる
자존심의 꽃이 떨어져야 인격의 열매가 맺힌다

 これはキム・チャンオク氏が講師生活10年を過ぎた頃、人前で面白おかしく、何度も同じことを話さねばならない生活に疲れ果て、ある神父に相談した時に言われた言葉だという。神父はまず「沈黙を学べ」と言い放ち、「プライドの花が落ちてこそ人格の実が結ばれるものだ。謙虚に受け止めよ」と告げたそうだ。

 その後、言われた通り、フランスの修道院で24時間沈黙せざるを得ない時を過ごしたキム・チャンオク氏。ひと言も話さない日が続くと、頭の中が騒がしくなり、いろんな考えで埋め尽くされたという。しかし、10日過ぎるとそれも落ち着き、ある瞬間、声にならない声が聞こえたそうだ。

そうだ、ここまでよくやって来た。
그래,여기까지 잘 왔다.

 この言葉が聞こえた時、それまでの人生が映画のワンシーンのように一つずつ思い出され、涙が止まらなくなったそうだ。「そうだよ、ここまでよくやって来たんだ」。それから30分ほど泣いた後は、憂うつな倦怠感がすっかり消え去っていたという。

 生きるのが辛いと思った時、どれだけ人に相談し、どれだけ人に励まされても、やっぱり最後は「あなたはここまでよくやって来たよ」と自分で自分を認めてあげる。それが一番の癒しになるのかもしれない。

いつもやらないことをやってみた

 コロナ禍という社会の急激な変化の中で、生きづらさを感じ、私のように泣いたり苦しんだりしている人も多いことだろう。誰にも悩みを話せない、誰にもわかってもらえない、誰にも涙を見せられない、そんな人もいるだろう。でも決して自分を責めないで。一人きりで悩まないで。

 例えばキム・チャンオク氏のように、普段しゃべってばかりなら沈黙し、沈黙ばかりならひとり言でもいいからおしゃべりになり、本を読まずにいたなら読んでみて、真面目にやっていたなら手抜きをして…。とにかく、今までやっていなかったことを一度やってみるのはどうだろうか?

 私は最近、少しずつ車の運転を始めた。ハンドルの位置も道路も左右逆な上に、危険な走行をするドライバーが多い韓国で、運転なんて絶対できっこないと思い込んでいたのだが、いざ走ってみると自信がつくもので、これまでの閉ざされた暮らしに少しだけ風穴が開いた気がした。

 相方以外の韓国の家族に、苦しい胸の内を話すというのも、私には初めてのことだった。義妹は「お義姉さんはいつも明るかったから、そんなに辛かったなんて全然知らなかった」と言った。

    つわりでニンニクの匂いを受けつけず生き地獄だった時も、息子を一人きりで産むことになり怖かった時も、授乳がうまくいかず胸の病気になり泣き暮らしていた時も、コロナ禍で相方の病が発覚し不安で押しつぶされそうになっていた時も、感染者拡大防止対策のため自営の仕事が3度できなくなった時も。私は韓国の家族の前で泣いたり怒ったり、愚痴ったりすることが一度もできなかった。

 義妹に励まされた直後、義弟の妻から電話がかかってきた。私の誕生日当日、夫婦喧嘩をしていて連絡できなかったというので、私も今まで言えなかった相方との喧嘩の話や、3歳児の子育てと看病で疲れ果てていることなど、義母の前ではしづらい話をたくさん聞いてもらった。

 おそらく義妹が連絡してくれたのだろう。翌日には、義母と義父からもそれぞれ電話がかかってきたので、最近すごくホームシックになっていたと正直に伝えた。口を開けばぶつかり合うことが続いていた相方とも、やっと落ち着いて話をすることができた。そんな風に、今までやってこなかったことをやってみたら、孤独感は薄らいでゆき、心の重荷が減っていくのを感じた。

 “プライドの花が落ちてこそ人格の実が結ばれる”という言葉の通り、「もう駄目だ」と思った瞬間が、何かの始まりになるのかもしれないし、辛い経験をしたからこそ、誰かを励ませる言葉や作品が生まれるのかもしれない。

 今回、私が抱えていた苦しみについて書くことを随分悩んだけれども、地球上のどこかでこれを読み、「こんな人もいるんだ」「私ひとりじゃないんだ」って救われる人もいるのなら、勇気を出して書いてみようと思った。

 そもそもそういうものを誰かに届けられるようになりたくて、表現の道を志したわけだし、文章を書き続けてきたのだから。私に今できるのは、やっぱりこれだけだから。

 夜眠りにつく前に、フランスでコロナに感染して隔離中の16歳へ、韓国語と英語でメッセージを送った。「回復を祈っているよ」と。彼女からは、愛らしいスタンプが2つ送られてきた。

 日本、韓国、アメリカ、フランスと離ればなれに暮らしている家族が、再会を果たせるのはいつの日だろう?もし次に会えたら、たくさん泣いてしまうかもしれない。でもそれはきっと、嬉し涙だ。

 そんな日が来るまでは、今いる場所で自分や家族をいっぱい抱きしめながら、心に風穴を開けていきたいと思う。

今すごく辛いというあなたへ

 私たちはみんなそれぞれ、今日まで本当によく生きてきた。そうですよね?誰が何と言おうとも。

 だからどうか、毎日自分にたくさんの賞賛と愛の言葉をかけてあげてほしい。「よく頑張ってきたね」、「いつもおつかれさま」、「大好きだよ」。誰かから言ってもらえたら嬉しいなと思う言葉を自分にいっぱい聞かせてあげて。

 それが難しければ、せめて自分の身体をよしよしとさすってあげてみて。

 私もそうやって、今を乗り越えていくから。

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