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「友達って何か?」を教えてくれた彼女との20年

 昨日、日本から小包が届いた。送り主は、広島に住む大学時代の友人だった。

 箱の中には、もうすぐ2歳になる息子へのアンパンマンのバースデーカードと、コーヒーやお菓子がいろいろ。そして、彼女の声が聞こえてきそうな美しい文字が並んだ手紙が入っていた。夜、息子を寝かしつけた後、早速1つお菓子の封を開け、ゆっくりと味わった。

 昨年の初夏、息子がまだ生後8か月の頃、彼女は大好きなアーティストのミュージカルを観るため、2泊3日で韓国にやって来た。ミュージカルの翌日は、ソウル市内から地下鉄で1時間ほどかけて、私が住む街までわざわざ会いに来てくれたのだった。

 昼食に韓国式の焼きウナギを食べ、大きな湖のある公園を散歩し、カフェでケーキに舌鼓。夕食はテラス席で、夜風に吹かれながらチキンとビールを楽しんだ。今は怪獣のように動き回る息子も、当時はまだベビーカーにおとなしく乗ってくれていた。

 実はその時、彼女はある大きな不安を抱えていた。帰国後、その不安は現実のものとなってしまったのだが、幸いにも良い環境や人に恵まれて、一つずつ前向きに乗り越えていっているのだと、時折そっと、彼女らしい前向きな言葉で知らせてくれた。そんな大変な中でも彼女は、息子が1歳の誕生日を迎える頃、素敵なバースデーカードを送ってくれたのだった。

 その後、私たち家族にも彼女と同じような試練が訪れた。それは今年の冬、韓国で新型コロナウイルスの感染者が増え始めた時のことだ。

 コロナウイルス騒ぎで1か月以上仕事ができなくなってしまったところに、思いもしなかった突然の試練。おまけに、時同じくして日韓の行き来が自由にできなくなってしまった。「逃げ場がない」とはこのことで、私たちには頼る先も、泣きつく先もどこにもない。ただただ家族で力を合わせて、前向きに乗り越えるしかなかった。一日、一日を。

 そんな私たちの様子を陰で見ていたかのように、あの時も、彼女から小包が届いたのだった。私の大好きなコーヒーと、懐かしい日本のお菓子。そして、ずっと眺めていたくなる美しい文字が並んだ手書きのメッセージ。彼女自身も不安を抱え大変な時だっただろうに、私たちのことを想って贈り物を届けてくれるなんて…。「強くて優しい人」とは彼女のような人のことを言うのだと感じた。

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 実は私は2つの大学に在籍した経験があり、彼女とは1つ目の大学に通っていた頃、アルバイト先で知り合った。2人とも実家を離れ、広島の、酒造りが有名な田舎町で暮らしていた。

 私たちの仕事は、大学前の大型ショッピングセンター内にある、クリーニング店の受付業務。最初の1週間は、講義が終わった後、毎日自転車を漕いで本社に通い、ベテラン従業員の年配女性から仕事の内容を教わった。本社の壁には「報告、連絡、相談」の文字が掲げられていた。

 ベテラン従業員さんには3人の息子がいて、食べ物の好みがみんな違うので、家に帰ったらそれぞれの好みに合わせ和食、洋食、中華という風に、何種類も料理を作るのだ、という話を聞いた。驚いて手を止め、話に耳を傾けていると、真っ赤な口紅を塗ったベテラン従業員さんが、「おしゃべりしていても手は動かし続けるのよ」と言った。確かに彼女の手は、その口と同じくらい、ずっと動いていた。

 そんな研修の行き帰り、田んぼが広がる田舎道を彼女と自転車で走り抜けたことを今でも鮮明に覚えている。高校時代、私は吹奏楽部でコントラバス、彼女は確かオーケストラ部でフルートを演奏していたということ。私は教育学部、彼女は法学部で、彼女の方が1つ年上だということ。田んぼの上を吹き抜ける風を感じながら、いろんな、いろんな話をした。

 当時、ベリーショートに近い髪型をしていた彼女は、大きくキラキラとした瞳をいつも輝かせ、人の話にしっかりと耳を傾けていた。今と変わらず、まっすぐでとても美しかった。

 大学2回生の冬、私は地元で開かれた成人式にも行かず、広島に残ってクリーニング店でアルバイトをしていた。大学を辞めようと決めたのは、ちょうどその頃だった。「辞めたらいいんだ」という答えは、ある日突然、天から降りてきたようなひらめきに近いもので、辞めた後のことなど何も考えていなかった。

 そんな時、彼女がふとこんな話を始めたのだ。「同じ学部で仲良くしていた友達が2人いるんだけど、2人とも春から他の大学に編入するって言うんよ。寂しくなるなあ」と。

 それから3か月の間に、小学校の恩師が40過ぎで天国に旅立ち、母方の祖父も76年の生涯に幕を閉じた。祖父の葬儀から帰ってすぐ、今度は高校の同級生が20歳という若さで逝ってしまった。その春、私は予定通り大学を辞めて実家に戻り、何の肩書も持たない20歳の“ただの人”になった。

 大切な人たちを立て続けに失い、学生という肩書もなくなり、この先の人生の計画も白紙に戻った私は、この時、生まれて初めて「人が生きるとはどういうことなんだろう?」という問いを抱くようになっていた。

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 まもなくして私は、北海道東部にあるペンションで、初夏から秋にかけて4か月間の住み込みのアルバイトを始めた。勤めて2か月ほど経った頃、「できればこのまま北海道に残りたい」と思うほど、北海道を好きになっている自分に気づいた。どうすればこの地で暮らせるか?最初はそんな不純な動機だったけれど、もう一度大学に戻りたいと思う明確な理由も、1つだけあった。

 ペンションの若夫婦にパソコンを借りて調べたところ、運良く北海道の中で、私が本当に学びたかったことができそうな大学を見つけることができた。でも、またセンター試験から受け直さないといけないのだろうか?そんな時間もお金の余裕も、私にはなかった。その時ふと思い出したのが、広島のバイト先で彼女が言っていた「編入」の話だった。

 私はすぐ彼女に電話をした。彼女は友達から聞いたという編入制度について、知っている情報を全部惜しみなく教えてくれた。「最低限必要な単位を取っていれば、編入試験を受けられると思うよ」と聞き、在籍していた大学からすぐ成績証明書を取り寄せた。なんと、編入試験に必要な単位をギリギリ取っていたことがわかった。

 行きたい大学の編入試験まで、あと3か月。親には絶対反対されると思っていたけれど、電話で「編入試験を受けたい」と告げたら、あっさりと承諾してくれた。後で聞くと、「だって受かると思ってなかったから」と母は言い、父は「夢だけでも見させてやろうと思ったんや」と笑っていた。

 私は早速、その街に唯一あった小さな書店で中学・高校英語の総復習ができる問題集を買い、夜寝る前に少しずつ試験勉強を始めた。地元に戻ってからは、駅前のドーナツ店で週5〜6日アルバイトをしながら、引き続き英語と小論文の対策。でも、英語は全然頭に入ってこなかった。

 いよいよ迎えた編入試験の1次では、英語も論文もさんざんだった。「もう二度と北海道の地を踏むことはないだろう」とうなだれて、帰りの飛行機に乗ったことを今でも覚えている。ところが、なぜか2次の面接に呼んでもらい、またのこのこと北海道まで飛び立った。

 「今まで何の本を読みましたか?」と聞かれたのに、たくさん読んできたはずの本の名を一冊も正確に覚えておらず、4人の面接官を固まらせてしまった私は、またもや「さようなら、北海道」とうなだれて実家に帰ったのだが、数日後、合格通知が届き、春から晴れて教育学部の3回生になったのだった。

 無事卒業して就職した3年後、家庭の事情で仕事を辞めて、彼女の実家から電車で1時間ほど離れた街に住むことになった。まだ周りに友人知人もおらず、寂しく暮らしていた頃、彼女はわざわざ家まで遊びに来てくれた。

 それから数年後、地元に戻って働いていた時にも、新幹線に乗ってふらっと近くまで来てくれた。彼女はその時、一人でハワイに行ったのだと言って、旅行先で撮った写真をきれいにまとめたフォトブックを見せてくれた。

 韓国留学中には、下宿先に手紙を送ってくれた。「日本には1年帰らない」と決めていた留学生活だったので、懐かしい友からの手紙はとても嬉しかった。そこには「韓国ドラマを見るようになって、韓国語も少し勉強しているよ」と書かれてあり、さらに嬉しくなった。

 帰国後、大阪で編集記者として働いていた時には、大好きな韓国のアーティストのファンミーティングのために広島から来阪し、仕事終わりの私と一緒に韓国料理とハワイアンパンケーキを食べてくれた。

 こんな風に、出会ってから今日までまめに連絡を取り合ってきたわけではないのに、1年に数回思い出した時に、ふっとメールやメッセージ、手紙を書いて送ってくれていた彼女。頻繁に会えなかったものの、いつも心の距離感が同じで、良い時もそうでない時も変わらないでいてくれた大切な友達。

 韓国に移住する直前、「本当の友達って何だろう?」と考える出来事があり、そのせいでつい最近まで、とても孤独で苦しい時間を過ごしてきたのだけれど、そんな私の心を知ってか知らずか、やっぱりいつも絶妙のタイミングで連絡をくれた彼女には、もしかしてテレパシーの力があるんじゃないだろうか?

 10代の終わりにアルバイト先で知り合った時は、こんなに長く、こんな風に縁をつないでこられるとは想像もしていなかった。

 若い頃はある程度自分をさらけ出し、何でも話し合うことで、「私たちは親友よ」と確認し合う安心感が必要な時期もあるだろう。私もそういうものを欲していたけれど得られなかったり、得られたと思っていたのにガタガタと崩れたり、そういう経験がいくつかあった。

 でも彼女と20年近く付き合ってきて、友達との関係は、小さな点と点を少しずつ重ねていくだけでも、振り返ればしっかりとした一本の線ができているのだと実感することができた。そうやってできた線は、簡単なことでは消えないのだ。

 いつもありがとう。大好きだよ。また私も手紙を書くから、首を長くして待っていてね。나의 소중한 친구에게…(私の大切な友達へ)

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