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人生がつやめく瞬間

 つい先日、夕食を済ませた後、息子と並んでリビングのソファに腰かけた。もうすぐ2歳になる彼は、最近保育園で、友達の食べている果物を欲しがったり、友達が遊んでいるおもちゃを横取りしようとしたり、そういう行動が増えているようだ。

 相手が嫌がるそぶりを見せると、癇癪(かんしゃく)を起こして友達の体をペシッと軽く叩いてしまったこともあると聞き、親としては悲しいやら、友達や親御さんに申し訳ないやら…。まあ、そういう時期なんだろうと理解してはいるのだが、この先がちょっと心配な毎日でもある。

 そこで「お友達と仲良くしようね」と息子に言い聞かせるために、先生が毎日送ってくれている保育園の写真を見せながら、あれこれ話をすることにしたのだった。

 すると彼は、話を聞いているのかいないのか、ある友達の姿を見つけると、満面の笑みを浮かべて指をさし「アジー、アジー」と繰り返した。その子は、この夏入園したばかりのクラスメイトで、くりっと丸い二重の目とおちょぼ口に、マッシュルームカットがよく似合う女の子だった。

 その翌日、保育園へ迎えに行った時のことだ。先生に連れられて玄関にやって来た息子は、靴箱に貼ってある自分の名前と顔写真を指さした後、その隣のとなりにあった例の女の子の顔写真を指さし、また「アジー、アジー」と繰り返した。靴箱に書かれていたのは「아진(アジン)」という文字。ああ、息子はこの子の名前を呼んでいたのか…!

 先生の話によると、息子がクラスで一番好きな友達が、このアジンちゃんなんだそうである。毎朝彼女が保育園にやってくると、自ら挨拶に出向いたり、にっこり笑いかけたりしているらしい。先生が他の友達の名前を教えても、まだ覚えられないのか黙ったままなのに、アジンちゃんの名前だけは最近言えるようになったそうだ。

 なるほど、彼はこんなに小さくても、もうちゃんと自分の「好き」がはっきりしているのだな。そして、クラスの中でもとびきり目をひく愛らしい女の子が好きだとは。「アジー、アジー」と呼ぶ時のつやめいた声色と、親の前でもあまり見せたことのない瞳のきらめきは、そうか。そういうことだったのか。

 私と夫はまだ結婚3年目なのに、何というかもうすでに、今息子が目の前で見せてくれているきらめきや、つやめきといったものが、2人の間から消え失せてしまったように思える時がある。それが、恋人ではなく夫婦として、家族として生きるということなのかもしれないが、息子が「アジー」と呼ぶ声を聞いていると、私たちもまだまだ枯れちゃいけないわ、と思わされるのだった。

 今朝、保育園に向かう途中、息子が「アジー」と彼女の名を口にした時、ふと、むかし通勤電車の中で見かけた、ある男女のことを思い出した。

 その日に書き残した、物語ともエッセイともいえない「ことば」を読み返してみると、あの時彼らが見せてくれた人生のつやめきが、枯れかけてしまった私の心を潤してくれるような気がした。

 人生にはやっぱり、「アジー」が必要なのかもしれない。午後、保育園から送られてきた写真には、アジンちゃんと向かい合って楽しそうに遊ぶ息子の姿があった。

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ある男女の朝

今朝、通勤電車に乗っていたら、1人の女性が隣に座った。

2人掛けシートの窓側に座る、私の左横へ。

彼女は窓の外へ大きく手を振り、その後もちょこちょこと身を乗り出して、誰かを見つめていた。

窓の外へ目をやると、ロマンスグレーの髪をしたスーツ姿の男性が、向かいのホームから私の奥に視線を向けていた。

軽く手を挙げ、微笑んでいる。

扉がしまり、電車が動き出すと、彼女は窓の外に向かって、今度は小さく手を振った。小刻みに、何度も。

2人の男女の間に挟まれた私は、透明人間のように、ただじっと座っていた。

夫婦なのか、恋人なのか、ちょっと言えない間柄なのか。

透明人間の妄想はふくらむ。

想い合う気持ちを隠しきれない2人の姿は、少年と少女のようだった。

きのう、ホン・サンス監督の映画にこんな邦題の作品があることを知った。

「次の朝は他人」

できれば次の朝も、次の次の朝も、他人じゃなくて、互いに愛しい人のままであれたら。

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「ある男女の朝」2015.7.8

 文・写真/Kim Mina

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