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小説 『普痛』(七)

※前回


 事件に幕を降ろしたのは本の中の探偵だった。悔しさよりも強い充実感が胸の内に満ちた。が、
「いやあ、わからなかったでしょ? 悔しいけどね、うん、うん」悔しさを増大させる声が耳に障った。
「八割は当たってました。自分がそうだったからってやめて下さいよ」
「残り二割を当てないとさ。その二割を隠す戦いなんだから、推理小説ってのは」また殿様笑いをする。もう少し上品に笑えば男もいい顔するだろうになんて余計なお世話を思った。
「ずっと隣にいたようですけど」
 私が本を読んでいる間、彼女は隣でその様子をずっと見ていた。携帯電話を弄ったりするわけでもなく、ただ横で私の読書を眺めていた。それが気になり犯人が当てられなかったと言いワケすることもできたが、また上げ足取りの会話になることが面倒だった。
「うーん。暇なんだよ」およそ考える素振も見せずに答えると、私の呆れた反応を予想してか、またカッカッカと笑った。本来であれば、彼女が変人であることは疑う余地が無いのだが、私は彼女がただの変人ではないとも思っていた。
 それは彼女に『僕』を見られていないことに思い当たったからだ。
 私には社会人になってから初対面の相手とやり取りした記憶が薄かった。『僕』が全て対応していたのだ。対応する『僕』を一歩後ろから安楽椅子に座って見ていた。だから、初対面の相手にはほぼ間違いなく『僕』が出るはずなのだが、彼女に対してはその気配が感じられなかった。先日の件もあって、私は人と喋り、『僕』が現れることを恐れていた。だから『僕』が出ないことは安堵するのだが、彼女に『僕』が出ないこともまた奇妙であった。『僕』が出てほしくないと恐れるのに、『僕』が出てほしいという葛藤が私の中で生じた。しかし、『僕』が出てしまえばそれはやはり彼女がただの変人であることの証明にもなってしまうのでそれは何故か残念な気がした。
 気づくと目の前に彼女の顔があった。覗きこむ大きな黒目は私の考え事や、更には生まれてから今日までのコンプレックスをも見抜かれているようで、焦った。
 彼女は何かわかったのか、それとも何もわからなかったのか、その行動理由は私には理解できないまま、ジーンズの尻ポケットに手を突っ込み、ぶち模様の小さながま口を取り出した。縁がギザギザな紙切れを太ももの上に載せると、やはり同じがま口から取り出したキーホルダータイプのボールペンで一筆した。
 〈燿子〉と目の前の女性が書いたとは到底思えない汚い字が見えた。
 思わず息が溢れる。すると燿子と名乗った彼女は私の嘲笑を察知し、私の左足を右足で踏んづけた。ヒールなら大怪我だが、やはり彼女の容姿には似合わないスニーカーだったことと、ぽこんという音が似合う重りの無い一撃だったからか、大事にはならなかった。足蹴は一打で終わったが彼女の右足が私の左足の上に乗ったままだった。二人分の足を体験する機会などなかなか無いだろう。彼女はそのまま、紙切れを両手で顔に近づけたり遠ざけたりしてその出来栄えを確かめた。首を傾げるとそれを合図に右足の踵を軸にぐりぐりとやるとようやく勘弁してくれたようだった。
「で、君は何なんだい?」
 声に怒気は無く、もうすっかり先ほどの調子に戻っていた。被っているようにも見えず、このようにすぐさま過去の出来事を水に流すことのできる人も貴重だと思った。
 私も習い、バツが悪い様子を見せずに平静な態度を示した。
「何って。休日の公園で読書することがそんなに珍しいことに見えますか。休日を満喫してるんですよ」
「ふーん」
 嘘ではない。私と世間一般的な彼ら彼女らとは異なる時間の流れで生きているだけの違いでしかない。それに、会ったばかりの人間に今の自分の状況を話す気はなかった。いや、それは如何に親しい間柄であっても全てを語ることはない話だった。
 彼女は視線を私の顔から首下、胴体へと下げていき「見ない顔だけど」
「最近来てなかったんですよ」
「最後に来たのは?」
「先週……じゃないな、うん。確か二週間前」
 私は彼女の顔色を見ながら嘘を吐いた。
「先々週も私居たけど、君来たっけ?」
「時間がズレてたんでしょうね」
「一日中居たんだけどなあ」
 言葉に詰まった。もともと上手い嘘ではないが、『僕』だったらもっとマシな嘘もつけただろうと思った。が、この嘘に意味は無く、そのため、私が『僕』を求める必要は本来どこにもなかった。そこで私は〈意味のない嘘〉なら私がついてもいいのだと新しい発見をした気になって少し嬉しくなった。私はその気分にまかせ、彼女の相手をもう少し続けようと考えた。
「もしかして休職中なのかなと思って」女は初めからアタリをつけていた調子で聞いた。休職中という言い回しは彼女の優しさなのかもしれない。まあだからどうしたってわけじゃないが。
「だったら、どうだって言うんです」
「悩める青年の相談を聞くのも年上のお姉さんの役目だと思わない?」
「まるで休職中の人間が全員悩んで、鬱に陥っているのが当たり前なような口調ですね。そんな単純なものでもないと思いますけど」
「そうだねえ」と先程までは取りすぎて、もはや転ぶ勢いだった上げ足取りトークはなりを潜めた。私の意見を否定しない割には肯定もしないような溜息だった。
「私じゃなくて、君がそう思いたいんじゃないの。悩んで、鬱になるのが当たり前だ、って。そう聞こえるよ」
 時が止まった。
 吹いていた風は止み、道路を走っていた車もどこにいったのかエンジン音が聞こえない。暑さを失った日光は色も無くして静かだった。世界で唯一空いしまった穴、空白の一瞬が私の心臓を掴んだ。
「せっかくですが、悩みも職も無いもんで」
 もういいだろう。気分にまかせるのも限界だった。これ以上、話すことが無い。いや、できなかった。ベンチから立ち上がろうと中腰になったところでシャツを引っ張るような不思議な言葉が私をその場に留めた。
「〈普通〉ってさ厄介な言葉なもんで、人を拘束するんだ。『一人一人、違っていいんです!』とか、『個性を縛る〈普通〉という概念は押し付けだ!』って文字が、言葉が、声が、どんなに在っても無くならない。
 そういう奴らに限って〈普通〉に固執する。そのくせ、私は〈普通〉なんて気にしませんって顔で本心を隠す。恥ずかしいんだよ、皆。それを自覚するのが。〈普通〉を欲しがる自分がさ」
 顔が赤くなった気がした。熱く火照っているのを感じる。それは彼女の言う通り、私の中にある〈普通〉への嘲笑と渇望を見抜かれたからだろうか。わからなかった。
 気づくと彼女はベンチから立ち上がって仁王立ちしていた。腰に手を当てたまま私の顔に自分の顔をズイっと近づけた。息のかかる距離に顔が別の熱を持ったようだった。彼女は私の左目と彼女の右目の間に親指と人差し指で輪っかを作って見せた。ロマンスを感じる間も僅かに、彼女はその輪っかを九十度左にすると一撃を私の額に浴びせた。
 脳みそに直接轟くような小さな衝撃が私の何かを吹き飛ばした。
 世界が寂しくなった私の視界は彼女の桃色の薄唇が引き上がるのを捉えた。
 彼女は上半身を起こすとやはり気持ちの良い殿様笑いをした。
 それは私の悪い癖がそうさせたのか、それとも私にとって彼女が本当に〈正しい〉と思ったかは判らない。だが、私は彼女ともう少し話してみたくなった。


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