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小説 『普痛』(六)

※前回


 夢を見た。
 会社を辞めてから時折見る、同じ夢だ。
 夜のコンビニで手持ちタイプのアイスを買って、歩きながら食べていた。深夜だったのか辺りに人はいなく、車は一台も通っていなかった。世界に音が無いのは夢だからなのか、それとも本当に音がしないだけなのかは判らなかった。
 よくよく自分を見れば前の会社の作業着を着ていた。背中には大学時代から使っていた安物のリュックサックを背負っている。会社の帰り道だと理解した。だがアパートに向かう足取りはとても遅く、数百メートルの距離が何キロにも感じた。汗でも出てきそうな気配がしたところで頬をつうっと水滴が伝った。ああやっぱり、と水滴を拭おうと指を掛けたところ、それの出所が目からだということに気づいた。
 私は泣いていた。自覚すると次から次へと涙が頬に流れた。あまりにも唐突な自覚に両手で目を押さえた。アイスは手から零れ落ち、無様な姿で道路に打ち付けられた。
 涙が止まらないことに焦った私は家まで走った。
 鏡で自分の顔を確かめなくてはならないと思った。
 走ると先ほどまで感じていた距離の長さが嘘のように部屋の前まで辿り着いた。財布の中にしまっていた鍵を取り出すと乱暴に鍵穴に押し付ける。が、焦りのせいで何度もガチャガチャと鍵穴を痛めつけた。ようやく手先に鍵を回した感覚がするとドアを開け放って、靴も脱がずに駆け込んだ。玄関の土間部分の段差につんのめるが、その勢いのまま洗面所に飛び込み、鏡を見た。

 その場面でいつも目を覚ます。
 窓に差し込む日の光が起き抜けの顔に沁みた。頬にそっと手を添えるが涙はない。夢の残滓が無いことが反って夢の記憶を鮮明に残した。
 夢というのは潜在的なシーンや記憶をツギハギしたフィルムのようなものだが、こと今日に関しては全く身に覚えが無かった。さらに言えば一つのシーンとしてキチンと成立している奇怪さがあった。シーンとして成立しているのに奇怪しいとは変な話だが、そうなのだ。どこかであったはずの私の記憶。そんな訴えを誰かがしている気がしてならなかった。
 遅い朝食を食べ終えると着替えて散歩に出かけた。昨日の嫌な気分を払拭したくなったのだ。出かけるまで、鏡を始めとする〈映る物〉に一歩も近づかなかった。一度でもあいつの顔を見てしまえば身体を乗っ取られる気がした。顔を洗うのも歯を磨くのも台所で済ませた。頭を触ると多少の寝癖があることが確認できたから、台所の水道水で適当に整えたがすぐにまたピンと撥ねた。
 ジーンズのポケットにいくらかの小銭と読みかけの推理小説を突っ込み、家を出た。

 公園に向かうまでの道も随分と変わっていた。点々とあった畑の代わりに新築の家が軒を連ねていた。昔はよく畑の横を通り抜けてショートカットしようと試みては靴を泥で汚したものだが、今はもうその心配はない。味気ない舗装されたコンクリート道を抜けた。それでも抜けた先にはまだ少しの畑が残っていた。その中の一つに向日葵の一群が首をもたれさせていた。長方形に切り取られた畑の短い辺、道路に面するところに行儀悪く密集している。脇を通る人間や車に頭を下げるような格好の向日葵は夏の終わりをいつまでも受け入れなれない亡者に見えた。一郡に降り注ぐ陽の光も熱をおびていなかった。
 
 塗装を剥げ散らかしていたゾウの滑り台はのっぺりとした光沢のある水色に塗り替えられていた。休日だからか、何人かの子どもがその周りにたむろしている。できるだけ目につかないよう、滑り台付近のベンチとは対角線にあるベンチに腰掛けることにした。砂を引きずる足音が気になったのか子どもの視線が一瞬集まるがすぐにまた自分たちの世界に戻っていった。木のベンチは茶色という本来の色をすっかりと忘れて黒ずみ、所々をささくれ立たせている。横に佇む白熱灯はその使命さえ思い出せないようであった。
 座ろうと中座になった段階で尻ポケットに突っ込んでいた小説の存在を思い出し、取り出した。
 小説を片手に公園を見渡す。
 秋一色とは言い切れない緑色を残した木々や暑さのない気持ちの良い太陽、けして元気ではない子どもたちの話声、とても贅沢だった。

 小説に〈読者諸氏に挑戦する〉と白手袋を投げられたところで本を置き、ベンチを立った。初めに入ってきた出入口とは別の、車通りに面する出入口の横にある自販機に向かった。コーラと迷った挙句にコーヒーのボタンを押す。ぴろろっと間抜けな電子音が〈当たり判定〉のために鳴り、豆ライトが光ってるのかわからない位の明かりを点滅させたが、結果を確かめる前に踵を返した。
 公園の景色が変わっていた。そこで子どもたちの声も無くなっていることに気づいた。それは変化の一つなのだが、決定的に違っていることが他にあった。
 私が座っていたベンチに誰かが座っている。
 遠目からはそれが男なのか女なのか判らなかった。ずりずりと砂を引きずるようにして距離を詰める。距離を詰めるという表現もおかしいか。もともと私がいた場所に戻るだけだった。するとようやくその人物が女性であるということが判った。性別がわかると途端に容姿に目がいった。
 背中半分まである長い黒髪は太陽の光でより艶っぽく、白のブラウスに青のジーンズと飾り気のない服がとても様になって見えた。耳に髪をかける仕草や小説のページを捲る白い指先を目で追う。次に自分がどんなアクションを起こせばそのシーンが動き出すのか判らないまま、立ちつくした。
「〈鮎川哲也〉好きなの?」
 思いがけないあちらからの問いに頭の中が散らかった。が、すぐに女性がひらひらと見せびらかす本のタイトルが目に入る。先ほどまで読んでいたそれだった。途端に、幻想的だと思った印象が地に降りてきた。
「ええ、まあ。ていうか私の本ですよね?」
言ってから、つっけんどんに話しすぎたかと後悔したが、後悔したところで私に人並みの社交性を求めることは無理なのだと正当化した。
「落とし物かと思って」
「すぐそこで自動販売機の飲み物を買っていた人間が見えなかったんですか」
「わかってたけど。そこでジュースを買っている人間が公園に置きっぱの本の持ち主だと想像するのは難しいだろ? 伏線がないぞ、伏線が」
 ひらひらさせていた小説を顔面に突き出してきた。それ以上反論する気が起きず、本を受け取る。「座れば」と促され、何故だか素直に女性の隣に腰を下ろした。
「で、わかった? 犯人」
〈挑戦状〉で留まっている栞を見たのだろう、得意気に聞いてくる。
「これから考えるんです」
 女は犯人を知っているのだろう。端正な顔をニタニタさせながら「へえ」と応えた。推理小説好きに見られる一種の病気だが、実際目の当たりにするとこんなにも腹が立つものかと知った。
 この女はなんだ。当たり前の疑問をようやく思いつく。一時はその容姿に騙されたが、案外ただの変人ではないか。休日とはいえ麗しい(もはや私には当てはまらない客観性)女性が寂れた公園で素性のわからぬ男に声をかけるなど珍しいを通り越して変だった。
「何か用ですか。 勧誘?」
「勧誘じゃないと本を交えて談笑もしちゃいけないのかい」
「普通はやらないですよ。そんなこと」
「〈普通〉ってなにさね?」
 上げ足取りのような会話に露骨にため息をついた。カッカッカと殿様が愉快な芸者を見たような笑い声を上げた。何が可笑しいのか。再び読書に戻った。
 手に持った缶コーヒーのプルタブを開けて〈解答編〉のページを捲る。「コーヒーか。いいね」声と同時に左で何やら動く気配がした。それを機にしばらく沈黙が続いた。
 二、三ページ捲ると左に気配が戻ってきたの感じた。
「ねね、自販機の中に缶コーヒーの置き忘れがあった。儲け儲け」

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