マガジンのカバー画像

#エッセイ 記事まとめ

1,142
noteに投稿されたエッセイをまとめていきます。
運営しているクリエイター

2020年7月の記事一覧

それはまるで母のような

雨に濡れて湧き立つ土の香り。小さな赤い果実を摘む。どんぐりを踏みしめながらリスの残像を見た。霧が朝を囲む。まばゆいほど輝く緑は風に揺られ、キツネは銀世界に足跡を残していく。 そんな海のない土地で生まれ、山のふもとで育った。 だから、海は特別な場所だった。 夏休みになれば、家族三人で新潟の海水浴場へと赴く。小学生の頃の話。手押しポンプでふくらませる浮き輪は、もう何色だったかも思い出せない。海の家で食べたのはいつも焼きそば。高齢出産のもとで生まれてきた私。両親との体力差など

「いましかない」一時帰国のありがたさ。(1965文字)

 コロナ禍がいまだおさまることなく、上海に戻る目途も立たないままで、もうすぐ日本滞在も7か月目。 そんななか、初めて父と二人で飲みに行った。 居酒屋でのむこと自体、何年ぶりだろう。店内の消毒、換気、ソーシャルディスタンス対策は万全に取られているけれど、人が集い、気分よく酔い、笑顔で語らう。居酒屋という場所は以前と何も変わらない。  私はずっと父が苦手だった。 結婚して25歳で家をでるまで、実家でお世話になっていたけれど、話しやすい母と違い、しかめっ面で怒りっぽい父とはなかな

+2

久しぶりにおこめを炊きました

一本の傘がプレゼントしてくれたもの

誰にも話したことのない遊びがある。 あれは幼稚園に通っていた頃かもしれない。私は、塗り絵、折り紙、工作と手を動かして遊ぶことが多かった。 特にブロックは小さなピースがいつの間にか足りなくなっていって何度も買い足すものだから、膨大な量のブロックがアルミ製のおかきの缶の中に詰まっていた。 毎日、畳の上にブロックの缶詰をザバーッと広げては、組み立てたり壊したりしながら何時間も遊んでいた記憶がある。 ただ、もう一つ、いつも頭の隅っこへばり付いて離れない同じ頃の遊びの記憶がある

江ノ島に新婚旅行代わりで一泊したけど思いもよらぬ待遇に泣いた夜・・・。

この記事は、前回の「鎌倉、江ノ島への一泊旅行が新婚旅行に早変わり!今でも笑えるあの話。」の続編になりますんで、そっちからお読みになってくださいまし。(´д`) 笑った話の後は、泣いた話かい? そうなんですよ、泣いちゃったんですよ・・・。(/_;) 前回の話では、日帰り予定の鎌倉散策から始まって、江ノ島に足を伸ばしたついでに一泊して帰ろうかと旅程を変更したところまで、だったのよね。 前回の前編に当たる記事がこれです。 まぁ、こんな笑い話の後で思い出すのもなんだけど、前編で

ハッピーバースデーディア俺

4月は母の誕生日がいくつもある。 いや別に深刻な話ではない。幼い頃に死んだと聞かされていた姉が実の母であるとか、今家にいる母親づらした女は父親の元秘書で実母を追い出した憎いカタキであるとか、不吉だという理由で引き裂かれた双子の兄と一緒に家を追い出されたのが生みの母親ですとか、そんな話はない。母はひとりである。 ただ物心ついた時からずっと、母の誕生日はふんわりとしていた。22日か23日か24日か、とにかくそのあたり。問いただすと毎回「おじいちゃんがどうのこうの」で「本当は〜

祖母の見送り

 2017年秋のはじめに、祖母が逝った。  水曜の夜10時頃、母から電話がかかってきて、「明日お通夜で翌日お葬式だけど、来なくていいからね」と言う。子どもを連れて大阪から島根まで移動するのはそれなりに大変だからとの気づかいだった。わたしは「なんで、行くよ。電車でも車でも行けるから」と答えて電話を切った。 *  結婚して家を出るまで、おおむね年に三度(盆暮れ正月とゴールデンウィーク)祖母に会いに行っていた。祖母の家は島根の山あいの集落にあって、家の前には田が広がり、裏には畑

心の病気とシナモンのいる暮らし

 シナモンが好きだ。  香辛料の話ではなく、空を飛ぶ子犬の話である。サンリオのシナモロールが小さい頃から好きだ。  2歳の頃からブラジルにいたんで、物心がついたときには南国の巨大な家の子供部屋で遊んでいた。うちは床も壁も大理石で、リビングでは自転車の練習ができて(これはほんと、わたしは家のリビングで補助輪が外れた)、パパとママとお姉ちゃんと、お手伝いさんのアンナと住んでいて、たまに日本からおばあちゃんが遊びにきてくれた。  うちにはキティちゃんのぬいぐるみがいた。黄色い、

20年愛用している、WATERMAN(ウォーターマン)のボールペン ~物書きとして、私のお守りみたいなもの

 ペン1本で生きていく。  そんな決意をかためたのは、30代のときでした。  文章を書く仕事は、大学時代からしていました。在学中からフリーライターとして、月刊誌に連載記事を書いていたのです。卒業と同時にその出版社に入社して編集者となり、編集長をしたのちに、20代の後半で独立しました(そのときは既婚でした)。  それから間もなく離婚して、バツイチ独身のフリーライター・エディターとして30代を迎えました。  20代のときは、もちろん仕事は一生懸命していたけれど、結婚後や離婚後の

さよなら36歳、こんにちは37歳。

本日、37歳になりました! 10年前から誕生日にはブログなどで自分の気持ちの変化や1年間の決意表明みたいなこと書くようにしています。 10年前に書いたブログは、ひたすらに絵文字が多すぎて恥ずかしくて読み返せないし、もはやお蔵入りにしたい…でも、最近ではその事柄すら尊く愛おしい存在になりました。10年前に誕生日ブログを書いてなかったら、こんな気持ちにはなっていなかったんだろうな~。 この誕生日ブログですが、最初は「自分との約束」のために書き始めたものでした。ブログで「意志表

カツカレーを素直によろこべない大人になっていやしないか。

子供の頃、とんかつやハンバーグにカレーがかかったプレートを前にすると、テンションが爆上がりしたものです。とんかつだけでもワクワクが止められないのに、ハンバーグだけでもよだれが口の中に溢れるのに。さらにカレーがかかっている、だなんて最高にもほどがある。好きなものと好きなものが一緒くたになって口に入ってくる。歓喜。パンケーキにアイスクリーム、ソーダフロート、苺大福、あたりも同じ範疇でしょうか。 さて、いけばなです(僕は花道家です)。 右手にお気に入りのうつわ、左手には大好きな旬

もう毎日しんどい!ので、劇団四季「マンマ・ミーア!」を見てきた ~踊って歌えば人生は最高だよ~

 月曜日から金曜日までPCに向かい、ブルーライトで網膜をじりじりと殺していく毎日。 「どうしたいの?」「数字は?」「1か月前とあなたは何が変わったの?」 リモートで相手の顔が見えなくても、それらの言葉は重くのしかかり、知らず知らずのうちにがんじがらめにされている。 22時近くになると全身の呼吸を忘れていたことに気が付き、一度緩めるともう力が入らなくなるから、再度おなかに強く力を入れる。 仕事を終えても、また7時間後には始業しなくちゃならない。5日間、なんとかこらえて土日を迎え

ツイートがバズったわたしは、口紅を買えていない

仕事を辞めた翌日、わたしは生きていた。 「当然である」と、言えるだろうか。わたしは自分のことを"よくやっている方"だと思っている。意味もなく宙を見上げ、水滴を仕舞う。人生を都合のいい妄想へ預けなければ、硝子のように心が割れてしまいそうだ。 「大丈夫ですか?」 歩きながら眠っていた。目が血走り、足が痙攣する。どこかから声が聞こえた気がしたが、辺りを見渡しても人は少なかった。ロクにごはんも食べていない。生命の境界線を、平均台を渡るようにしてふらふらと進む。 常に不安と手を

私が愛したロックスター

私のたった18年間の人生の音楽のルーツは、母に作られていると言っても過言ではない。 そういう人多いと思う。 当時小学生、私が物心ついた頃に好きだった曲はTHE BOOMの「なし」。 いや嘘をついたかもしれない。その曲が好きという感情はきっとなかった。幼かった私は歌詞の意味もわからないまま、曲調が耳に残るからといった理由でよく歌っていただけかもしれない。 まぁそんな細かいことはどうでもよくて、小さな頃からTHE BOOM、ユニコーン、JUDY AND MARYなど母の好きな