【長編小説】漂白剤社会 | 第十一話・女海賊
夜九時になると、留置所全体が消灯の時間となる。寝る時間だ。
奈恵は病院の診察を得て、無事に薬が貰えた。
朝、昼、晩と寝る前、留置担当官から薬を渡され、担当官が見ている前で飲み干す。
「舌の裏も見せて下さい」
私は口を大きく開けて見せると、両手をパーにして何も持っていない事を知らせた。
「体調はどうですか?」
「大丈夫です、ありがとうございます」
薬を飲んでいるおかげか、大分、体調も落ち着いていた。
「本は読みますか?」
留置担当官が声をかけた。
「え、本が読めるんですか?」
「読めますよ、あまり種類はないけれど」
留置担当官は優しく言った。
好きな本を選んで読めるらしい。
「読みたいです」
留置担当官は部屋を開けて、隣にある本棚に連れて行った。
たくさん本が並んでいて、表紙にひとつひとつ書かれている番号で管理しているようだ。
「うーん、どれにしようかな」
「ゆっくり選んでいいですよ」
留置担当官は、とても優しかった。
本と言えば、私は、父がよくプレゼントしてくれたことを思い出す。
私が本を読み始めたのは、六歳の頃。父がくれた本のほとんどは伝記だった。
最初にもらった本は、僧侶である空海と、そしてヘレン・ケラーの人生についてだ。本を通じて歴史を変えた偉人に触れる度、私はどんどん他の人の物語も読みたくなり、ある時、こっそりと父の書斎に入り、本棚を読み漁った。
その中に『女盗賊・プーラン』という本があった。
その本は、後に、私が社会活動をしたいと思う原動力になった本である。
1963年、インド北部ウッタル・プラデーシュ州。
今なお残るインドのカースト制度の中でも、カーストは最低位であるシュードラで、プーラン・デビーは生まれた。
十一歳で幼児婚。そして度重なる差別と虐待、性暴行を受けた。
その後、山賊団に誘拐され、壮絶な苦しみを経て女首領となる。
人々からは「盗賊の女王」と呼ばれ、略奪したものは貧しいものに分け与えた半面、自分を強姦した人物を殺戮し復讐するなどして、プーランは遂に警察に逮捕される。
しかし、それだけでは終わらないのがプーラン・デビーである。
自身の忌まわしい経験から社会を変えたいと十一年間の刑期後、出所して政界に進出するのだ。
当選を果たし、政治家として活躍中、プーランは、2001年に暗殺される。
享年、三十八歳であった。
私はこの物語が、それほど遠くない過去の実話であること、プーラン・デビーという人物が生きていたことにとても驚いた。
プーランの本はあまりにも悲惨で読むのを途中で止めるくらいであった。それだけ彼女が生きてきた壮絶な人生が脳裏に焼き付いて離れない程であるが、同時に私は、プーラン・デビーの苦しい境遇を経ても立ち上がる志の強さに心底、憧れた。
プーラン・デビーには何が何でもインドの社会を変える、そんな強い気持ちがあった。それが本を通じて痛いほど伝わり、私は上京してからも、彼女の本が忘れられずにいたのだ。
奈恵はタレントとして仕事をしながら、プーランのように社会を変える活動がしたい、そう思う気持ちは強くなり、タレント活動だけではなく、彼女のように社会を変えるには、どうしたら良いか考えるようになった。
そんな奈恵に、社会活動を始める転機は、すぐやってきた。
ある講演会に招かれたのだ。
奈恵は自分がDVの被害者だと自覚し、同時に抱えるうつ病の闘病について勇気を出してインターネットで告白したことがあった。
その反響は大きく、たくさんの人から「勇気をもらった」「私も頑張りたい」と意見を貰う度、もっと精力的に被害者支援の重要性、うつ病や摂食障害の啓発活動を行うようになった。
「講師として登壇していただけませんか?」
インターネットの啓発活動を見た方から、依頼のメールが届いたのだ。
私は驚きと同時に、こんな自分でも務まるのか不安になり、すぐに返事をした。
「スピーチの経験もないのですが…、良いのでしょうか」
「奈恵さんだからこそ、依頼したんですよ」
この言葉が、社会活動を始める一歩となり、迷っていた奈恵の背中を押した。
当日の講演会は、他にも某大学の教授などが講師として呼ばれており、その顔ぶれに、私は恐れ多く感じた。
それでも事前に準備した原稿を手に登壇した私は、どんな被害に遭おうともあなた自身の価値はゆるがないと自己肯定する事の大切さ、そして摂食障害やうつ病の啓発について大きな声でスピーチした。
講演会は大成功し、多くの観客が立ち上がり、拍手を贈ってくれた。
「とても良いスピーチでした」
主催の方が帰り際に声をかけてくれて、寄せられた全ての感想文を私に手渡してくれた。
私宛の講演に関する感想文は、五十枚を超えていた。
それらは今も私にとって、かけがえのない宝物である。講演の様子は地元新聞にも取り上げられ、私のスピーチは新聞に掲載された。
それが機会となり、以後、講演会や各新聞取材の依頼が増えた。
きっと社会は変えられると希望を信じて、私は新聞の取材は出来るだけ受けたのだった。
こうして北海道の田舎町から出てきた無名の私は、社会活動を得て信頼を獲得していく。
私の信頼は、日に日に力を増していき、インターネットでもたくさんの支援者や、応援の声が増えていった。
「奈恵さんなら、きっと女性の問題を解決してくれるはずだ」
そんな声も多く聞こえてきて、私は毎日が充実して、とても嬉しかった。
毎日の小さな小さな積み重ねで築いてきた信頼。人の役に立てる喜び。未来への希望。だが私は、それら築き上げてきた全てのものを、自ら壊してしまった。
私は詐欺をした。
理由は、お金が必要だからだった。
愚かな理由で、私は犯罪を犯した自分が心底、恥ずかしい。
どんな理由さえ、犯罪を正当化することは出来ない。誰かを傷付けて奪って何かを得ることは、結果、傷つけ合う社会を認めることになる。
それは、私が望んでいた社会の形なのか。いや、違うはずだ。
私が行ったことは、私自身で完結する話ではなく今まで私を信頼してくれた講演会の主催者、そして応援してくれた皆の信頼を裏切る行為であった。
私に関わる多くの人達に、たくさんの迷惑をかけて、財産を奪ってしまい、信頼を寄せてくれた友人の心さえも深く傷つけた。突然の出来事に、私を信頼できなくなってしまった人はたくさんいる。
私は、自分自身に鞭を打たなければいけない。
もう信頼は取り戻せないかもしれない。
それでも、私が向き合う道はひとつだけである。
一生をかけて謝罪し、更生して、罪を償うことである。
「この本にします」
私は哲学の本を手にした。そのまま自分の部屋に戻る。
「また消灯の時に、声をかけます」
留置担当官が部屋の鍵をかけた。
私はページを開く前に目をつぶり、静かに自分の心と向き合った。
信頼を失っただけではなく、多くの人を裏切ってしまったこと。それらを自覚するのはとても苦しいが、私自身がしたことを直視しなくてはいけない。
私は変わらなければいけない。
私は本を読む前に、静かに目を瞑って、私がしてしまったことの重大さと向き合った。
プーラン・デミーも刑務所の中で、きっと正すべきものに向き合ってきたはずだ。
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