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153.どんなときも、生きていたら、違った明日に出合えるかもしれませんからね…。

ホームレス歌人ツネコの財産


大阪は梅田阪急高架下のそばに毎日ひとりの老女が座っている、彼女の名前はツネコ。

それしかわからない。

黄色のキャップと黄色のシャツが目印で、高架下の近辺だけでなく、日本全国に知られているホームレスだ。

彼女は、時間がくるとこの高架下で座り、詩や絵を書き、売る生活をしている。人は、「ホームレス歌人ツネコ」と呼んでいる。

平成14年5月、彼女は大腸ガンになり右半結腸を切除した。ツネコは40歳代の年にも子宮ガンになり、2度目のガン宣告。
幸い転移の心配はなかったが、腫瘍を取り除くと大腸はほとんどなくなってしまった。


ツネコは67歳の年にはじめて大阪に来て、高架下で生活し、自作の詩や絵を売り、段ボールにくるまり通路を寝床に暮らす。

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リサイクル文化社大阪編集室発行 ホームレス歌人ツネコ 心の旅路「生きる」倉本瞬著 打越保監修より。


「明日どころか
 今夜も見えぬ
 阪急高架
   下のわが宿」


ホームレス歌人としてツネコを一般に知らしめたのは、平成6年に発刊された一冊の本がある。『ホームレスの詩』 ( 遊タイム出版刊)という本が発刊2ヵ月で16万部のベストセラーになる。

当時は、女性ということでスキャンダラスな話題的でもあったようだが、テレビ出演のインタビューのツネコの明るい笑顔とくったくのない喋りが多くの人たちの共感を呼んだこともきっかけのひとつといわれている。

その場面を想い出すと、段ボールを4つほど並べ、はがき大の色画用紙に20枚ほどの詩が書かれ、きれいに並べられている。高架下の通路の柱の間、その空間がツネコの売場だった。マスコミなどで騒がれたことが理由でもあり、大勢の人が押し寄せ、書いても書いても追いつかないほど売れた詩が、その後阪神淡路大震災などの影響や深まる不況の中でやがてまったく売れなくなってしまう。


黄色のキャップを横にかぶり、小さい身体、黄色のTシャツがトレードマークのツネコさんはそれでも街を歩けば必ず誰かが声をかけてくれる有名人。


「我が心
  うち明けられる
   友もなく
 浪花の街を
  あてなく 行く」


商売しているといろんな人が声をかけてくれる、それが嬉しくて、嬉しくて、どんなに体調が悪くともこの場所で詩や絵を売るツネコ。大阪の地を初めて踏んだ時、ひとりぼっちだった。だから孤独がどれほど心に痛いものか、ホームレスしかわからない心の痛みをツネコは今も想い出す。


姫路からはじめて大阪に来た日、生活用品一式と、絵の道具を2つの紙袋につめ中之島に向かい、人込みを抜けひと休みしている時、わずかの隙に2つの紙袋が盗まれてしまった。まだ3月の夜は冷え込んでいた頃だった。


「落ちぶれて
  人にそしりを
    受けるとき
 命の終わるを
  速かれと祈る」


そして、中之島の橋のたもとで座り込み、そのまま動けなくなってしまう。そのツネコを見て誰も声をかけようとはしない、誰も見ない、無視。

このまま死んでしまうのだろうか?

ツネコは思った。

気力のないまま行くあてもなく大阪に向かう。どうしたらいいのかわからない。誰も振り返ってはくれない。夜になり高架下をうろうろしていたら、酔っ払いのホームレスが、声をかけてきた。

「おっちゃん。寝るとこなかったらここで寝てもええんやで…」
「たのんます…」。

ツネコは野球帽をかぶっていたため男性と思われていた。それがきっかけで翌日から高架下を住処にするようになる。段ボールの寝床は外の寒さを防ぎ意外に暖かく、やわらかだった。


他のホームレス仲間は、段ボール、空き缶、ゴミなどを集めて売り、わずかでも生活の糧にして生きるが、67歳のツネコに出来ることといえば知れている。何もない。彼女は何するあてもなく、落ちていた色鉛筆で絵を描いてみた。

すると仲間たちが、
「おばあちゃん上手いなあ!」「これを売ってみたら…」。その言葉がきっかけで高架下で絵を売るようになった。ほとんどが色鉛筆で描いた美人画だった。

しかし、売れない…。


それを見ていた仲間がツネコに、「もっと他にできることはないの?」とたずねた。「小さい頃、短歌を習うてました」と答えた。すると、その人は「短歌を書いてみたらどう!」とアドバイスした。

詩ならもっと簡単に書けるかもしれない…。

そう思ったツネコは毎日のように図書館に通い詩を書き続けて行く。主に自分の心境や過去のこと、見たもの、聞いたもの、感じた物を詩のテーマにし、色画用紙をハガキ大に切り、それに書いた。

すると、通りすがりの人がツネコの書いた詩に興味をもつようになり、1枚100円の詩と1枚300円の絵が少しづつ売れるようになった。

ホームレス歌人ツネコの誕生である。

人には誰にでも過去がある。ツネコ79歳になった。彼女はハワイ移住の子としてハワイで生まれた。幼い頃日本に帰国。幼児の頃頭に大やけどを負い、それを隠すためベレー帽をかぶされていた。今でもかぶっているのは幼い頃の習慣だという。

小学校に入学してまもなく、最愛の母親を病気で亡くす。その後父親は再婚するが、義母になじめず、実母を忘れられず、一切学校に行かなくなってしまう。この頃、学校を休んでは映画館に入り浸り。中学校から「登校およばず」の通知がきたが、これ幸いとばかりにより一層映画館通いに拍車をかけた。当時スケッチブックを片手に絵を描くようになっていったという。


しかし戦争が始まる。ツネコも召集を受け、工場で働くようになった。ツネコは学校よりも働くということがとても楽しかったという。それは頑張れば実績を残せるし、何よりも必要とされているという気持ちが、彼女に自信を取りもどすきっかけとなる。しかし、この時期、最愛の姉を結核で亡くす。17歳だった。


母に続き、姉も失った。それが契機なのかわからないが、終戦直後、実家から離れる。この当時働いたわずかな元手で闇市に小さな店を出す。それはありきたりの今川焼きだが、『ツネちゃん焼き』と名付け、一人しか入れない店だったが、開店から大繁盛した。ツネコは時代がみな甘い物を求めていたからだという。

「もっともっと続けたい。おまけするとみんな喜んでくれて…」

しかし、商売が順調になった頃、結核となり突然入院を強いられるはめとなる。「姉のように、わたしも死んでしまうのか…」ツネコは生きたいと願う。

せめて子どもを産んでから死にたいと思っていた。そして、昭和25年、22歳で退院したが、安静を兼ねてのんびりと日を過ごすことになった。当時、毎日美術館に通うことが日課となっていたという。


結婚は出来なかったが、この美術館で男生徒知り合い恋に落ちる。まるでシンデレラのような華やかな生活だったという。この男性は国会議員の秘書として働いていた。しかし妻にはなれなかった。

「せめて子どもを育てられたら…」。

単調な日々の中で、ツネコの楽しみは家の近くの図書館だった。毎日のように図書館に長時間過ごすことが多かった。そこでもう一人の男性と知り合うようになる。国会議員の秘書の男生徒は正式な妻ではなかったため別れるのにそう時間もかからず、こうして公務員の男性と正式に結婚することになる。28歳の秋のことだった。


しかし、こどもは出来なかった。
「子どもでもおったらねえ、共通の話題も生まれて、もっと会話が弾んだかも知れなかったんですけどねえ…」

それからツネコの暴走が始まる。世間の人は「ソクラテスの妻」と呼んだという。歴史に残るほどの悪妻、そういわれてもおかしくないほど悪妻ぶりが度を越していったという。

「子どもさえいたら…」

そして42歳、子宮に腫瘍が出来、子宮を取り除かなければ助からないと医師にいわれ、この時までかすかに抱いていた最後の希望がこの日を境に完全に切れてしまった。

「子どもさえ生まれたら…」。

さらにツネコを破滅の道に向かわせてしまう。
「夫に甘えてただけなんですね。もっと自分に関心を持ってもらおうと思って…それがエスカレートしていくうちに何が何だかわからなくなって…一体自分は何をしてんのやろ…そう思っていました。淋しかったんですね…」ツネコはそう回想する。


中学時代に知らず知らずのうちに麻雀のルールを覚え、この頃から賭事に強い関心があったようだが、それ以来していなかったがあるきっかけで麻雀をはじめとするギャンブルの世界に没頭してしまうことになる。いつのまにかツネコ57歳となる。


そして、泥沼にはまり込み、抜き差しならない状態になるほど追い込まれ、とんでもない借金を背負ってしまう…。
59歳、夫婦生活は破綻した。

その後、夫は64歳で突然この世を去った。

「ツネちゃん、私が死んでも路上で寝るような生活だけはしないでくれよ…」と、最後の死ぬ真際まで夫はツネコのことを心配し続けていた。

もう、この世に頼る人は一人もいない。ツネコは実感した。
その晩、ツネコは布団の中で身体を丸め、激しく泣いた。生まれてはじめて大声を上げ、泣いた。


67歳、ツネコはホームレスとなった。


「我が仲間
  人は底ぬけ
   良いけれど
    我が不如意
     隣りも文無し」


平成7年1月17日。阪神間、神戸、淡路を中心に死者6千人を越す未曾有の阪神淡路大震災が発生した。街には家を失った人たちがあふれ、職を失い、路頭に迷う人たちが多く、かつてこれほど数多くの悲劇を生んだときはなかった。

大震災を境にして、ツネコの元を訪れる人もなくなり、本の売れ行きも止まる。

人の心は移り気。ツネコもじっとしているわけにはいかなかったが、生活の糧を失ってしまう…。

ツネコは高架下のこの場所におり、ただ座っているしかなかったという。


「苦しさから
  抜け出す街を
    知らぬ我
  人間止めたい
    時がある」


ツネコはホームレス仲間に対して特別な愛情を持つのは、同じ仲間という意識が強い。ホームレスは立場が弱い、誰も助けてはくれない。追い立てられ、捨てられ、放り出されてそのまま。だからせめて、同じ境遇に身を置く仲間同志だけでも助け合って生きて行きたい…。一緒に生きていこうという思いが強い。

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朝日新聞https://www.asahi.com/より


ツネコはある高校に依頼されてホームレス問題について講演した。

これは、ホームレスに対する攻撃が日常化し、殺人まで起こっていたときのことだ。

「人にはそれぞれやむにやまれぬ現実というものがあります。背負いきれない現実を抱えてそこから逃げてホームレスになる人もおれば、社会に順応できなくてホームレスになるしかないという人だっている。また、信じられないでしょうけど、好んでホームレスになる人もいるし、一時的にホームレスに身を移し、再出発の機会を待っている人だっています。身寄りがなくて誰の援助も得られず、仕方なくホームレスになる人もおれば、世をすねてホームレスしている人もいる。ホームレスといっても千差万別で、一口で語ることはできません。だけど、一つだけ知ってほしいことは、ホームレスも人間だってこと。路上で生活していても、あなた方と同じ。切られれば赤い血も出るし、時間がきたら腹も減る。それに生きたいという気持ちもあなた方と同じです。ホームレスだから何時死んでもいいわけじゃあない。生ある限りどこまでも生き続けたいと思っている。どんなにみじめな状況であっても、生きて生きて生き抜きたいと願っているんです。生きていたら、違った明日に出合えるかもしれませんからね…。」      

                (「生きる」倉元瞬著より引用)

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幸せってなんだろう? 

高架下の阪急東通商店街で、ツネコさんはその日、その日を暮らす。相変わらず金はない。本の印税などみんなホームレス仲間にあげてしまった。何もない。

しかし、それでも幸せな時もある、それは詩や絵を通した人との出会い。この年になると出会いはいつも嬉しいもの。

懐かしい人がたまに訪ねてくることもある。

声をかけてくれる人もいる。

手を握って笑顔で迎えてくれる人もいる。

ガンになり死にかけたツネコ。

その時浮かんだのは高架下の仲間たちのやさしさ。

それがツネコの大切な財産。

いつまで生きれるか、生きていさえすればまた明日逢える。

ツネコの幸せここにある。



とても、とても長いお話でした。お許しください!おつきあい心から感謝申し上げます。


また、あした!


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