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130.あなたの人生で、本当の最後の願いって何ですか?

あなたは、もう一度、人生をやり直せるとしたら、

あなたは何を求めますか?

彼の名は周福康。
現在九二歳。

彼の人生の最後の願い、それは「辺見須恵子さん、あなたに逢いたい・・」、というものでした。

昭和二〇年(一九四五年)十一月に台湾で離ればなれになった日本人の恋人の事でした。今から六九年前のお話しです。周さんは現在、中国の抗州市の蕭山(しょうざん)に暮らし、結婚もせず、一人で生活しています。廃品回収のわずかな仕事で暮らしている老人です。

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彼は、ボロボロの紙に日本語を手書きで「辺見須恵子さん、あなたはどこにいますか?」と書かれたプラカードを首から下げて、インターネットで声をかけているのです。 

それを公開したために、中国から日本のネットユーザーたちの関心事になっているのです。

当時、彼は二二歳の軍人で部隊は台湾北部の新竹国民小学校に駐屯していました。丁度その頃は、敗戦の為日本兵は撤収していましたが、この小学校には日本人の教員が残っていました。周さんは仕事がない時は、音楽室に行き、ピアノの音色を聞いていました。

ある日、いつものように音楽室に訪れると、日本の若い女性がおりピアノを弾いていました。彼はその音に合わせてハミングすると、その女性は優しい笑顔で迎えてくれたそうです。


彼の九二年の人生の中で生涯忘れられない最高の時を迎えます。

辺見さんの笑顔にひかれた彼は、彼女の笑顔とピアノ演奏の虜になり、暇さえあれば出向くようになりました。

辺見さんがピアノを弾き、その横で彼が歌います。
お互いの言葉はまったく通じませんが、当時は言葉など必要がなかったといいます。


人生ってこんなにも素晴らしいものなのでしょうか、彼は幸せでした。

しかし、十一月に小学校からすべての日本人の教員は去ることになりました。辺見さんたちは日本に引き上げることになったのです。
二人は、運命を呪い、別れを惜しみながら、基隆(キールン)の港まで見送り離ればなれとなるのです。

もう、一生会えないだろう・・。

彼は通訳に頼み別れの言葉を告げました。
「これからも、あなたを思っている」、辺見さんも涙を一杯ためていた悲しそうな姿を今でも忘れられないといいます。

かん高い汽笛の音とともに、港から船が離れていきます。
多くの人々たちが手を振り、別れを告げます。そして、別れのテープが切れて行きました。

戦争って一体何のために行われるのだろう。

なぜ人々は憎しみ合い、殺し合いをしなければならないのだろう。

何よりも、こんなに愛し合っている、人生でとても大切なあなたと、なぜ別れなければならないのだろう。

勝者と敗者とは一体なんだろう・・。

ああ、このまま海に飛び込んで、追いかけたい。
それとも我が国に留めたい・・。
なぜ、私は軍人なのだろう・・・。
ああ、船が遠くなる・・。

いつまでも手を振り続けるあなたがそこにいる・・。

私はただ泣いていました。

あれから、六九年も過ぎてしまいました。

彼は、その後、昭和二二年(一九四七年)国共内戦のため人民解放軍と交戦し、大敗します。さらに、昭和三〇年(一九五五年)に国民党軍に従軍していたため、「反革命罪」という罪のため、昭和四五年(一九七〇年)までの一五年間に亘り投獄されてしまいました。釈放後、文化革命終了まで内モンゴルから出られず、昭和五八年(一九八四年)に六一歳でやっと辺見さんとの想い出の地、抗州に戻れました。

彼の波乱の人生の中で生きて来た理由は、辺見さんとの生涯忘れられない想い出だけが、唯一の生きる希望でした。どんなに苦しくても、辛くとも、あの一瞬の出来事だけが彼を支え、生かし続けてきたのです。

彼は中国のメディア都市快報において、こうコメントをしました。

「本当は、私みたいな廃品拾いの爺さんに、彼女に逢うことなんかないと思うんですよ。日本人に私がゴミを拾って生きていると知られるのも恥ずかしいことですし・・・。ああ、でも本当は、やっぱりもう一度彼女に会いたい」
「もう、亡くなっているかもしれない・・」


彼は涙で答えていました。

彼の人生最後の願いが中国に報道され、国内で大反響となり、二人の再会を願う声とともに、彼にそのままの生活をさせて良いのか、という批判の声が寄せられ、自治体やボランティアの働きにより、老人ホームに入ることになりました。

しかし、彼は最期の最後までこの場を離れることを固辞していました。

彼は何故、固辞し続けていたのでしょう?
彼は「人生で最後の願い」を公開しました。

彼の人生のすべては、やっと戻れた、この場所、この小学校のあった、辺見さんとの想い出の場所が最期の場所だったと考えていたのかもしれません。もう、六二年間も待ち続けていたのですから。

彼の過酷な人生の支え、それがこの場所、辺見さんへの想いがすべてでした。
彼の「人生で最後の願い」がこれで公表されました。

あとは、生きている間にその願いが届くのでしょうか?

現在、周さんは体力の衰えとともに、この公開がきっかけとなり、老人ホームで手厚く過ごしているそうです。もしかすると、これが辺見さんからの返答なのかも知れません。

「あなた、ごくろうさまでした。
ありがとう、お互いに幸せでしたね・・」

そんな言葉が聞こえてきます。


               参考文献 中国紙 鳳凰「都市快報」より

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coucouです、みなさまごきげんよう!

私たちには誰でも、忘れられない人がいますね。

子どもの頃の初恋の人、学生時代の好きな人、社会に出てから愛した人、そして現在と。誰にでも忘れられない思い出があり、それを懐かしむ。

ても、もう一度、もう一度会いたい。この世を去る前にもう一度だけ会いたい。会って一言だけでも伝えたいことがある。

それは「あなたと出会えて嬉しかった」「あなたと逢えてよかった」「あなたに、ありがとうと一言だでも伝えたい…」

振り返れば、当時は幼すぎたため何もわからなかったけれど、今になって、あのときの素晴らしさ、永遠に忘れられないあのときの想い出。振り返れば振り返るほど、まだまだ鮮明に覚えている。生涯、忘れられないあなたの笑顔。

現実は、年老い、身体も自由に動かない。こんな姿をあの人には見られたくない。顔はしわだらけとなり、髪の毛もなくなり、手足は動かず、目も見えなくなりつつある。何よりも、あと何年生きれるかわからない。

それでも、もう一度だけ一目でいいから会いたい。

こんな想い出のある人はとても素晴らしい。

たとえ、二度と会えなくとも、目を瞑れば、あのときのあなたと、あのときのわたしは存在していたという事実はある。

この一瞬が人生で一番輝いていたときだとしたら、こんなにも幸せなことはない。

私は周福康さんはとても悲しいかもしれませんが、とても幸せだと思うのです。それは、もう一度会いたい人とともにこの世を去ることができるからです。

私もそうしたい…


本日も、ここまでおつきあいありがとう!

また、あしたね。





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