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71.わたしは、わたしの人生に「NО!」をする。「NО!」は、わたしの人生を支えてくれた言葉でした。

「All MY Loving」


わたしは人生に「NО」する。
わたしは何も信じないし、誰も信じることができません。
わたしが今日まで生きてこられたのは、わたし自身を否定することができたからです。

「NО」は、わたしの人生を支えた言葉です。

わたしは何度も死のうと考えました・・。

わたしは苦しむために生まれてきたわけではありません・・。

わたしは人を憎み、恨むためにこの世にいるのではありません・・。

もし、わたしがわたしの人生を「YES」と肯定してしまったら、あまりにも苦しく、あまりにも辛い人生だったと認めてしまうからです。
ですから、わたしはわたしの人生を決して認めないために「NО」と叫び続けてきたのです。

わたしは彼と同じように、人生にNОと、わたしを支えてくれた言葉でした。

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「ジョン・レノン」1964年撮影出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

彼が5歳のとき

1940年10月9日18時30分、彼は生まれました。
夫の他に男を作った母ジュリアンが育児をしようとしなかったので、彼は母親の姉メアリーに引き取られ育ちました。

彼は第二次世界大戦中のナチス・ドイツによる空襲下に置かれたリバヴァプールで、ドイツの戦闘機から爆撃を受けたとき、この世に誕生したのです。
1946年に消息不明だった父アルフレッドが帰国し、わずか数週間だけ引き取られて一緒に暮らしますが、母ジュリアンが彼を連れ戻してしまいます。彼が5歳の時のことでした。

彼は見知らぬ父親よりも、わずかな想い出のある母を選んだのでした。

彼は心から喜びました・・。

大好きなお母さんにやっと会えたのですから・・。
彼は泣きながら母の胸にすがりました。

この時の彼は、育ての母メアリーと産みの母ジュリアンのはざまで、喜びと悲しみを同時に味わっていたのです。
しかし、母と一緒に暮らすことはできず、再びメアリーが育てることになりました。

その後、父親もまた蒸発してしまいます。
メアリーには子どもがいませんでした。まるで神様が自分の為に届けてくれたのだろう、と信じるくらい彼を可愛がりました。
彼が生まれた時には、父親がいませんでした。

そして、母親はメアリーに預けたと言いますが、実際は別の男と暮らすために彼を捨てたのと同じです。

この不幸な子どもは、生まれながらに両親を失くしたのと一緒です・・。
母ジュリアンは、彼のほかに三人の私生児を生んでいました。
やがて彼は不良少年となり、喧嘩に明け暮れ、寂しさや孤独感を紛らわせていました。

しかし、彼は育ての親である優しい母メアリーのことを心から信頼していました。
そして、実母ジュリアのことも愛していたのです。


1952年9月にグラマースクールのクオリー・バンク校に入学し、彼は少しばかり落ち着きを取り戻しました。
しかし、1955年に父親代わりだったメアリーの夫が死去してしまいます。

彼の名は、ジョン・レノン

その頃、1956年にエルヴィス・プレスリーの「ハートブレイクホテル」を聴き、彼は音楽に目覚めます。
また同時期に、母ジュリアの音楽を通じてポール・マッカートニーと出会い、ロックンロールに夢中になった彼は、ジョージ・ハリスンとも出会うのです。

そう、もうおわかりでしょう。

彼の名は、ジョン・レノン。

貧乏で不幸の塊の若者たちが演奏活動を始めました。
当時、ポールも母を癌で亡くしていたこともあり、二人は絆を強くしたようです。
「私が13歳のときでした。自分は天才にちがいない、といつも考えていたのですが、私が天才であることに誰も気がつかなかったのです。私は天才だろうか、それとも狂人だろうか、狂人ではないだろう。従って、私は天才なのだ、と考えていたのです」と語っています。

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1958年7月15日、実母ジュリアは警察官の運転する車にはねられ死亡してしまいます。これがジョンの最大で最後の不幸だったかもしれません。

1960年8月、「ザ・ビートルズ」を結成し、1961年8月にリンゴ・スターが加わり、10月5日に「ザ・ビートルズ」としてデビューを果たしました。

スラム街で生まれたリンゴ・スターも、3歳のときに両親が離婚し、母はバーで働きながら一人っ子だった彼を育てました。
生まれた直後に空爆を受け、母親はそのたびにリンゴをおぶって逃げ回ります。
さらにその後、小学2年生で腹膜炎をこじらせ生死の境をさまよい、1年以上も入院生活を送り、中学を進学してからも肺炎をきっかけに2年近くも闘病生活を送りました。
不遇を介して、ジョンとリンゴは互いに共感しあうのでした。

1963年8月23日、ジョンはシンシアと結婚し、長男が誕生しました。ジョンは両親と生活したことがないため、息子にどう接したらよいのかわからなかったといいます(その後、離婚)。

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息子のショーン・レノン出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ヨーコとの出会い

そして、1966年11月に2度目の妻となるオノ・ヨーコと出会います。
それがジョンの「YES」の始まりでした。

1980年12月8日、スタジオ作業を終えたばかりのヨーコの眼前で、ジョンは銃に撃たれ、41歳の若さでこの世を去りました。この時、ジョンが収容された病院内で流された曲は「オール・マイ・ラブソング」でした。

1966年6月29日、「ザ・ビートルズ」は初来日して、日本武道館公演を成功させました。私が13歳の頃でした。その後、日本の音楽界の流れは大きく変わり、現在に至っています。

私が、ビートルズに出合った1966年13歳の時の衝撃と、1980年37歳の時にジョンの訃報を受けた衝撃を、私はいまでも忘れられません。

私は1974年(今から43年前)に起業しました。

当初は無名で力もなく、特定の技術もなくお金もありませんでした。あるのは大きな夢と希望だけ。そう、ジョンを気取って、まるでビートルズのように。
ビートルズが初めて出したレコード会社が「アップルレコード」だったので、私は社名を「プランニング・オフィス・アップルハウス」と名付けました。やがて、その小さなオフィスは、やがて「株式会社アップルハウス」という会社に成長していきました。

わたしたち同志は、ジョンとリンゴに共鳴していました。
おそらく世界中の貧乏な若者たち、アーティストたちも同じだったでしょう。自分たちの世界を創りたい、新しい世界を築きたい、のし上がって行きたい、世の中に認められたい、愛されたい、という集団でした。

わたしたちも、彼らと同じ、社会に「NО」を突き付けていました。
このままではいけない、何かを生み出し、何かを遺さなければ、と・・・。
胸に抱く夢は志であり、願いであり、祈りでもありました。

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「NО」はわたしたちの合言葉でした。

仕事が苦しければ「NО」、負けそうになると「NО」、すべてに「NО」というように、「NО」はわたしたちの合言葉でした。

子どもの頃はかわいそうだった、などと思われるのは「NО」。大変だったね、といわれれば「NО」。苦労したのですね、といわれれば「NО」…と叫び続けてきました。

それは自らの過去を否定し、自分を否定するためのものでもありました。

わたしたちは今の自分に自信がありませんでしたし、すべてを否定することで成り立っていたような気がします。そうやって、わたしたちは地位や名声、お金を手にしていきました。

そして、最終的には、わたしたちもビートルズのようにバラバラになっていきました。結局、わたしたちは会社と人生と仲間たちに「NО」するようになってしまったのですね。

今はもう、あの時の成功体験、失敗体験、成功、失敗の繰り返しの想い出しか残されていません。互いに、大切な仲間とすべてを失ってしまいました。
しかし、支えを失った私に、新しい支えが生まれました。

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2004年、オノ・ヨーコは「未完成の絵画とオブジェ」という展示会を日本で開催しました。この展示会の中に、ジョンとヨーコが出会ったときの作品があったのです。

わたしはこの展示会で二人の作品を目にして、まるで人生が変わってしまうのです。

白い梯子と天井のYES

そこには、白い梯子と天井に貼られた白い小さなキャンパスだけ。
オブジェの白い梯子を上り、天井から吊り下げられた虫眼鏡でキャンバスをのぞくと、そこには肉眼では見えない、ちいさな、とてもちいさな「YES」の文字がありました・・。

そう、「YES」でいいんだ・・と。

ジョンがその虫眼鏡から覗いた「YES」の文字に驚き、人生が変わってしまったように、私にもジョンの気持ちが手に取るようにわかりました。

私にも「NО(否定)」ではなく「YES(肯定)」という考え方に、私が切り替わった瞬間です。


戦争や争いはもちろん「NО」です。

私は、今の世の中に「YES」して、何かをして、何かを遺さなければならない・・そんな願いで再出発をしました。
仕事が苦しくても「YES」、負けそうになっても「YES」、悲しくとも「YES」。「YES」は「NО」の道を歩んできた私の新しい合言葉になりました。

子どもの頃かわいそうだった、と思われても「YES」。大変だったね、といわれても「YES」。苦労したのですね、といわれても「YES」…なんだと。

人が思うほど人生は悪いものじゃあない、

それが「YES」だということを知りました。


©Social YES Research Institute / coucou

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