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155.カーネル・サンダース物語「ブロークン(一文無し)になってから死ぬんだ!」

カーネル・サンダース物語


「まだまだ自分にできることが残っているのではないか」

1956年、カーネル・サンダースはもうすぐ66歳になろうとしていたこの時、彼は全財産を失なった。

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出典:www.kfc.co.jp

しかし、彼はまったく落ち込んではいなかった。カーネルの頭のなかには、希望だけが残っていた。だから、過ぎてしまったことを振り返る時間も考える余裕もなかったのだ。

「さて、どう生きようか。どう生きてやろうか・・・・・」

カーネルの頭の中は、ケンタッキーフライドチキンの事業化である。
もちろんお金は一銭もないし、店を持つことなんてまったく不可能。だから、
「自分のフライドチキンを他のレストランメニューに加えてもらうようにするには、まず食べてもらい、おいしさを知ってもらうことが必要」。
 どんなに良いものでも知ってもらはなければ話にならない。カーネルは実感していた。
 そのためには、まず一軒一軒のレストランを訪ね歩く以外方法はない。

「さて、また始めるか」

カーネルは中古のフオード車に自分の発明品である圧力釜と調合されたスパイスを入れたビンをのせ、事業を失敗した地、コービンの町を離れる。

たったひとりぼっちで旅に出たカーネルは、まず見込みのありそうなレストランを物色し、直接中に入り、オーナーと交渉する。だが、突然訪れる見知らぬ老人の話を真剣に聞こうと思う人はほとんどいない。

これが現実。カーネルは売り込みに夢中のため、レストランの営業中、特に忙しい時間帯に顔を出していたことにも気づかなかったのだ。そこでカーネルは作戦を変えて、忙しいランチタイムを避け、終わったところを見計らってもう一度訪ねるようにした。

今度はレストランのウエイトレスと話すことはできたが、なかなかオーナーは会ってくれない。なかにはお客と勘違いしてオーナーが出てくることもあったが、売り込みだとわかると態度が変わり、追い返される始末。

それでもようやく店のシェフやオーナーと話す機会が持てるようになり、フライドチキンを試食して、その味を評価してくれるレストランも現れたが、どのレストランも、カーネルの提唱するフランチャイズのアイデアには、なかなか首を縦に振ってはくれなかった。

この間、カーネルは費用を節約するために車中泊をくり返し、食べるものは見本でつくったフライドチキンだけの生活を送っていたという。この時のことを、カーネルは自伝の中で
「神よ、どうか私のフランチャイズのアイデアを成功へと導いてください。そうしたら、あなたの取り分を必ず渡します」と回想している。

生まれて始めて真剣に祈ったというぐらい、当時のカーネルは追いつめられていたことがわかる。


しかし、カーネルにはまったくあきらめる気はない。なぜなら、とても優しかった母の思い出と、自分のフライドチキンの味を信じていた。それに自分に残されている選択の余地が他にまったくないこともわかっていたからだ。


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出典:en.academic.ru

後に、このフランチャイズ契約の第一号の契約者、ソルトレイクシティのピート・ハーマンは、
「カーネルは、ケンタッキー・フライド・チキンのおいしさとビジネスを多くの人と分かち合うことが、自分に課せられた使命と感じているようだった」と語っている。

苦戦、苦戦の連続の中で、カーネルにとって心の大きな支えとなったのが、このピート・ハーマンだ。
ピートは契約後、自分のレストランでフライドチキンを本格的に売り出すために精力的に動き出し、ソルトレイクシティの街に120を越えるケンタッキーの看板を出し、さらに地元のラジオでコマーシャルを流した。


おもしろいエピソードがある。ピートはラジオ局に頼み、当時人気のあった一時間のトークショーに「5分間だけ」という条件で、番組の中でカーネルにインタビューをしてもらうようにした。


しかし、担当の女性アナがカーネルの話を聞けば聞くほど興味を持ってしまい、気がついたら一時間のトーク番組がすべてフライドチキンの話で終わってしまったというのだ。


カーネルにとっては生まれて始めてマイクの前で話す機会だったが、カーネルの今までの人生、そして情熱や夢を考えれば、アナウンサーが夢中になってしまうのもよくわかる気がする。

こうしてピートは、コロラド、カルフオルニアなどの各州に渡って200数10店を運営することになり、ケンタッキー・フライドチキン最大のフランチャイジーとなっていく。


ピートと知り合ったこと、そして彼が最初の理解者となってくれたことがカーネルにとって「幸運なこと」であったといえるが、この幸運のきっかけは、カーネルの「他の人を喜ばせたい」という思い、そして母に対する思い、希望や情熱が根底にある。カーネルの今までの人生のすべてが味方をしてくれたのである。


それがそのきっかけとなり、出会いが生まれ「幸運」に結びついたのである。もし、カーネルにこの過去の体験と経験がなかったら、このような出会いはなかったといえる。

カーネルは、その後も「もっともっと喜んでもらいたい」という信念と情熱をもとに、レストランへのアプローチを続けた。


さらにカーネルはアプローチに工夫を凝らす。見込みのありそうなレストランを見つけるとオーナーに掛け合い、昼の忙しい時間帯を過ぎた後か閉店後に、従業員の食事のためのフライドチキンを作らせてもらえるように頼んだ。

そして、店のオーナーと従業員が気に入ってくれたら、カーネルはさらに2〜3日滞在し、今度はお客に食べてもらうことをオーナーに提案。このアイデアは多くのレストランで受け入れられたという。


またカーネルは、料理を作り終るとダイニングルームに行き、お客と話をすることをとても楽しみにしていたという。フライド・チキンを注文したお客の前に行き、「お味はどうですか」と聞いて回るのである。この頃からカーネルは、白い上下のスーツに蝶ネクタイというおなじみのスタイルでお客のところに行くようになる。


カーネルは当時をふり返り、
「お金がなかったので、広告などを出すかわりに、自分たちが少しでも目立つようにし、お客を楽しませることにした。喜んでもらえるのなら、どんな格好もした」と語っている。


カーネルのユニークな戦略は、自らが広告塔になったことだ。(カーネルの白いスーツは、十代の頃に働いていたサザン鉄道のユニホームから得たアイデアで、カーネルは清潔さを表す白いユニホームがとても気にいっていたという)

ここでカーネルは、どのようなフランチャイズ契約を結んだのだろうか?

彼はまず、圧力釜、タイマーなどのセットを35ドルでフランチャイジーとなるレストランに買ってもらう。圧力釜は、メーカーや種類によって性能はまちまち、しかし、レストランによってフライドチキンの味が変わらないように統一。

そして、フライドチキンの調理方法を教えるのには、カーネルが直接相手のレストランに出向き、3日間かけてトレーニング。味となるスパイスは、中味を秘密にするために自分の家で調合し、できあがったものだけを渡すようにしていた。

そして、チキンが一ピース売れるごとに、数セントをロイヤルティとして受け取る契約を結ぶ。
どのくらい売れたかどうかは、スパイスの減り具合で検討をつけ、ロイヤルティにはスパイス代も含まれているので相手に納得しやすいようにした。
この「独自のノウハウを提供してロイヤルティを得る」というカーネルの新しいアイデアが当時のフランチャイズ(世界初)のはじまりとなった。


カーネルのフランチャイズが、このように早く世の中に広がっていった大きな理由は、カーネルのようにアイデアさえあれば、ビジネスを広げていくのに多額の資金を必要としなかったことだといえる。


これは個人ではもちろんのことだが、企業でさえチェーン店としてケンタッキー・フライドチキンのように店舗を増やしていくには相当の資金が必要になってくる。


現在でもそれほどの資金力のある企業は少ない。
資金だけの問題でなく、たとえ資金力があったとしても、店舗物件を調査したり、探したり、ビジネスを始める準備や、その後の管理をするには、それなりの時間と労働力が必要になってくる。


さらに、店側だけで新商品の開発にコストをかけられないのも現実のひとつといえる。
一人一人のフランチャイジーがビジネスを始める準備をし、店の経営の責任を持つフランチャイズだからこそ、急速に店舗を増やすことができたのである。


つまり、直営店を自らの投資で増やすことよりも、フランチャイズとして独立採算形式で、それぞれの投資による他店舗展開の方がリスクも少ないということがいえる。

もちろん、フランチャイジー側にもメリットがある、それは個人では経済的に不可能なテレビコマーシャルなどの宣伝ができたり、知名度に便乗できるためビジネスのネームバリューや人々の親近感、安心感を与えることもできる。

フランチャイズ・ビジネスは、お客、フランチャイザー、フランチャイジー、そこで働く人々を含め、誰にとってもメリットがあるビジネスといえるので、短期間のうちに受け入れられてきたといえる。


このように、カーネルをはじめ、フランチャイズを世に送り出した人の功績は大きい。
後にカーネルは、その功績を称えられ「ファースト・フード・レストランの父」といわれるようになった。


こうしてカーネルは、1年目にして7件のレストランオーナーとフランチャイズ契約を結び、ケンタッキー・フライドチキンの本拠地となるケンタッキー州最大の都市、ルイビルに移ることになる。


カーネルは65歳ですべてを失い、ゼロから始めたビジネスがわずか9年で200万ドルをもたらすビジネスになった。人生の不思議を感じるとともに、カーネルは、「あの時、人生をあきらめないでよかった。このビジネスは私の人生そのものだ」と心から思ったという。


カーネルは特に選ばれた人ではない。特別な才能があるわけでも、特殊な能力が備わっていたわけでもない。

あえていえば、今のわたしたちと何も変わりはない普通の人。それでは何がわたしたちと違うのかといえば、数多くの失敗をくり返してきたという点にある。

そして、常に前を見て生きていること、決して諦めないという心。常にチャレンジし、恐れないという心。


そんなところが小さな子供時代に養われてきたのかもしれない。カーネルは三十代までに次のような職歴があった。

 ●十歳で農場の手伝い
 ●その後ニ回農場を移りかわる
 ●軍隊
 ●サザン鉄道
 ●ノーフオーク・アンド・ウエスタン鉄道
 ●イリノイセントラル鉄道
 ●弁護士(免許はない)
 ●ペンシルバニア鉄道
 ●保険外交員
 ●商工会議所の秘書
 ●アセリンガスランプの製造販売
 ●ミッシュランタイヤのセールスマン
 そしてガソリンスタンド経営・・・・と、わかっているだけでもこれだけ仕事を変えている。


このように、他の人と違う「抜きんでた才能」があるわけではない。さらに、レストランビジネスなどまったく無関係。他の人と異なる点は、ありとあらゆる仕事を変えてきたことぐらい。

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出典:www.kfc.co.jp


カーネルは晩年、
「自分に特別な才能があったとは思えない。成功できた最大の理由は、すべてに全力で、一生懸命に働いたことだ」
と答えている。


挫折と、そこから立ち上がることを、何度も何度も自分の人生で繰り返してきたカーネルの心には、「たとえどんな状況に置かれようとも、決して自分からは諦めることはしない」という不屈の魂が宿っていた。カーネルの人生は、何か自分にできることを見つけて、生涯働き続けると神に誓ったことを守り続けてきた。


1964年、ケンタッキー・フライドチキンの店舗数は600店を越え、3700万ドルの年間利益を上げる企業に成長。( さらに5年後の1969年、フランチャイズ加盟店は3500店となり株式市場の公開を行う)


彼は、74歳にしてすべての権利を譲ることになり、ミリオンオーナーになったが、彼の「生涯現役」、「一生働き続ける」という精神は少しも衰えず、それどころかさらに激しく活動し続ける。第一線を退いた後も、カーネルは世界中のケンタッキー・フライドチキンをまわって歩く。


カーネルは80歳を過ぎても、毎年アメリカ国内だけでも50万マイル以上を旅行し、一年間にアメリカ大陸を東海岸から西海岸まで80回近く往復したことになる。
1980年の暮れ、90歳のカーネルは(フランチャイズの数5000店舗を越える)多くの人たちと最後の別れを告げながら12月16日に、ケンタッキー州でこの世を去った。


「ブロークン(一文無し)になってから死ぬんだ」

「このビジネスを成功させてくれたら、あなたの取り分をお渡しします・・・・」

カーネルは65歳に約束した神との約束を守った。

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coucouです、またまた5434文字という長い文となってしまいました。

これだけの分量を読むのは大変だと思いますが、まとめる側もとても時間がかかりました。

でも、みなさんに伝えたい一心でまとめたものですのでお許しくださいね。

私はカーネルに勇気と生き方を教わり、彼のような人生を送りたいと願っています。

私もカーネルのように神に誓いました!

また、あした!



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