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16.老人はみな、鍛えられた兵である。

「転ぶ人(生きようとする人)」

彼はよく転ぶ。
毎日転ぶ。
そのたびに私は彼を起こす。

彼はそれでも転がる。
ある時、傷口が開き出血が止まらない時もある。
回りにはいつも不安と心配と与える。

しかし、それでも彼は繰り返し転び続ける。

彼はよく転ぶ。
転び続けている。

私の仕事は二十四時間待機して、転んだら起こしに出向く。
夜中でも、朝方でもおこしに出向く。
多い時は、一日に数回転ぶ、それが日課だ。

彼は周りの心配をよそに、それでも転び続けている。
一年の間に何度救急車で搬送され、そのたびに周りは慌てふためき驚く。

彼はよく転ぶ。
転び続けている。

彼は転ぶことを自覚している。
しかし、それでも転び続けていく。

彼は転んでいる時に何を想い、何を考えているのだろう。
もしかすると、転ぶたびに人生を恨むのか、感謝しているのか。
それとも生きている実感を味わっているのか。
彼にも誰にも、その事を理解ができない。

しかし、それでも転び続けている。
転ぶたびに、どこかしら大怪我を負う。
頭部裂傷、脳挫傷、骨折を繰り返す。

彼は周りの心配をよそに、転ぶたびに笑顔を振りまく。
頭部から出血して血が全身に流れているにもかかわらず笑う。
それは照れ隠しなのか、驚きなのか、生きている喜びなのかはわからない。

ただ、転ぶたびに筋力と体力を失っていく。
もしかすると死に急いでいるのか。
生き残ってしまったという恥ずかしさなのか。

誰にもわからない。

彼は転ぶ。
転がり続けている。

一日に一回としても年間三百六十回以上転んでいる。
それでも彼は諦めず転び続けている。

ある時、私は彼に質問した。
「転ぶことがわかっているのになぜ注意しないのか?」
すると、彼はこう答えた。
「歩こうとしているんだ・・」

彼は現在九十四歳、全身の筋力を失い、歩行不能状態だ。

「でも、そのたびに大怪我をしている、生命に関わる時もあるから、注意することができないのなら、もう歩くのはやめてほしい・・」

「・・・」
彼は、押し黙ってしまった・・。

それからしばらくして彼は静かに語り始めた。
「もう一度、歩きたい。ちゃんと、自分の意志で歩いてみたい。もう、皆に負担や迷惑をかけないようにしたい。歩けるようになったら外の空気と太陽の日差しを浴びてみたい。それが少しでもできるなら死んでもかまわない・・。もう一度車も運転したい・・。そのために歩こうと考えている・・」

「・・・・」

もうすぐ、彼は九十四歳の誕生日を迎える。
その翌日から、また彼は転ぶ。
転び続ける。

私は彼を「転ぶ人(生きようとする人)」と名付けた。

普通なら、私も回りの者もそのような我儘は聞かないのだが、その我儘(生きよう)という想いを聞くことにした。
おそらく誰もこの酷い事を理解はしてくれないだろう。

人生には「七転び八起き」という言葉はあるが、
まさに彼は「三六五転び三六六起き」といえる。

視力、聴力、全身の筋力がなく、それでも彼は前を見ている。
彼の見えぬ目の先には一体何が見えているのだろう?

彼が自らの残されたわずかな力で立ち上がり、歩こうとするのは今度こそ歩いてやろうという挑戦のような気がする。
生きようとする挑戦なのかもしれない。
もしかすると歩けるようになるかもしれない、と錯覚するぐらいに・・。

彼は無意識の中で、人生とは「生きて生きて、生き抜いて、生き続ける」、それを最後まで全うしようとしているのかもしれない。
回りはもう諦めてほしいと願っているが、彼の耳にはまるで届かない。

彼は転ぶ。
転び続ける。
しかし、まるで諦めない。
まるで転ぶことが日常の仕事のように。

彼は血だらけになりながらも我々に笑顔を振りまく。
それでも諦めない。
それが九四歳になろうとする、彼の生き様なのだろうか。

最後に、彼は残された我々に何を与えて、何を見せつけようとしているのだろう。転び続けている彼を見続ける我々に心痛を与えながら何を残そうとしているのだろう。
同居している老いた母の力では転んだ場合起こすことができない。そのため私は住まいから転ぶたびに駆けつけてベットに寝かす。もう何百回になるのだろう。しかし、彼は相変わらず笑顔を振りまいている。

ある時、彼の行動を観察していると不思議な現象を感じた。それは、彼の残された九四歳の人生だと思っていたが、彼にとってみると何かの「はじまり」に想えた。彼はこれから死に逝く人ではなくて、これからさらに新しい世界への「はじまり」のためのトレーニングのように思えてきた。

彼には終わりはない。彼には終わりという言葉がない。

彼には「はじまり」しかない。
彼の口癖は、《老人はみな、鍛えられた兵である》という言葉だ。

《人生は生きて、生きて、生き抜いて、それでも生き続ける、永遠なるもの、終わりはない、あるのは「はじまり」だけ》。

彼にとって九四年の歳月は、これからやっと始まる「はじまり」にすぎないのかもしれない。

わが敬愛する父。

今は、もうあの笑顔を見ることができない…。

coucouです。ごきげんよう!スキをたくさん、たくさんありがとう!

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