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169.さあ、笑って。ねえ、笑って、心痛むときはね。

〈スマイル(さあ、笑って)〉


あなた、笑って 心痛むとき
あなた、笑って たとえくじけそうなときでも

空が曇っていたってすぐに過ぎていくから
あなた、笑って 心の痛みも哀しみだって過ぎていくから

あなたならきっと乗り越えていけるさ


あなたが笑っていれば、きっと明日には
あなたのために太陽が輝いてくれるよ

だから、あなたの顔に明かりをつけて
哀しみの痕跡を隠して

それでも涙が出ても、そのときは試せばいい
あなたが笑っていれば、きっと明日には
あなたのために太陽が微笑んでくれるよ

あなたならきっと乗り越えていけるさ


あなた、笑って、泣いても仕方ない
どんなに辛くとも決して笑顔を忘れてはならないよ、
笑顔は必ずあなたを大切にしてくれるから

そうすればあなたの人生はまだ価値があるということがわかるから

だから、あなたはただ笑っていればいいさ

だからあなた、素敵に笑って

いつもあなた、素敵に笑って

あなたならきっと乗り越えていくさ


さあ、笑って

ねえ、笑って

            創訳coucou


※「スマイル」(原題:Smile)は、1936年のチャールズ・チャップリンの映画『モダン・タイムス』で使用されたインストゥメンタルのテーマ曲で、チャップリンが作曲した曲。マイケル・ジャクソンなど多くのアーティストにカバーされている。1954年にジョン・ターナーとジェフリー・パーソンズが歌詞とタイトルを加えた。歌詞では、歌手が聴衆に対して笑っている限りは明るい明日が常にあると元気付けている。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より


1889年4月16日、彼はロンドンのケニントンで生まれました。
父と母は旅芸人でしたが、彼が一歳の時に両親は離婚します。
あまりの貧乏に耐えきれなくて、母は精神病院に入ってしまいました。

彼の母は貧しい中でも、子供たちを喜ばせるために、路上を通る人々の物真似をし、舞台女優(大衆演劇)だったころの芸などを見せては、いつも彼らを楽しませていました。
彼が5歳になったとき、突然声が出なくなった母の代わりに舞台に出演することになりました。彼は初舞台を踏むことになったのです。

そして彼は母を助けたいと、生活の糧を得るために舞台に出続けます。
しかし、現実に生活はままなりません。
当然、9歳の兄と5歳の彼らには限界がありました。

その7年後に、父は酒の飲み過ぎでこの世を去りました。
母は精神病院にいたため、彼らは施設に入れられてしまいます。

幼い彼は兄シドニー(異父兄弟)とともに貧民院や孤児院を転々とします。
生きるためにはなんでもしました。床屋、印刷工、ガラス職人、新聞配達や売り子などの職を転々とし、母の入院費用などもそれから捻出しました。10歳になったとき、彼はパントマイムを学びます。14歳になると地方巡業で各地を回りました。

「私の半生は地獄だった。長いの闘い、苦しみ、勇気、そして悲しくも無意味な日々だったことを思うと、次々と想い出が湧きあがり・・・、私は泣いた・・。」
彼は自分の半生そのものを〈地獄〉といいました。


彼の名は、チャールズ・チャップリン。

母の名はハンナ。

彼は様々な映画と音楽を残し、本年度で生誕132年、映画デビュー100年を超えました。100年経った今でも、チャップリンの映画が色褪せないのは何故でしょうか?若者たちにも新鮮に映るのは何故でしょうか?100年過ぎた現代でも心に残る作品群ばかりのような気がします。

冒頭の「スマイル」は、映画〈モダンタイムズ(一九三六年)〉のラストシーンに使用されたチャップリン作曲の音楽です。この曲には歌詞がありませんでしたが、1954年(67年前)にナット・キング・コールが歌って大ヒットし、その後はマイケル・ジャクソンや様々な歌手が歌っている曲です。

「もし下を向いたままならば、虹を決して見つけることはできないだろう。」

「死と同じように避けられないものがある。それは生きることだ。」

「失敗など重要ではない。」
                 出典 チャールズ・チャップリン

ここに掲載している歌詞は私の勝手な創訳(自由訳)です。もちろん、曲は著作権が切れていますので誰もが自由に使用できますが、詞に関しては、まだ歌詞が公開されてから60年(日本では50年)ですので、敬意を表して創訳(オリジナル)にしてみました。

私の大好きなチャップリンの作品を3本挙げろと言われれば、街角で出会った盲目の花売り娘に無償の愛を注ぐ、〈街の灯〉。貧しくとも逞しく生きることを伝えた、〈キッド〉。大不況の中で苦しむ労働者たちに、幸福とは何かを問いかける〈モダンタイムズ〉です。彼の映画、芸のすべては幼い頃に母アンナが教えてくれたものです。(チャップリン最後の作品ライムライトも)


この素晴らしい作品たちを私は喜劇として面白いとは感じませんでした。子供の頃観た街の灯、キッド、モダンタイムズなどすべてに涙が溢れ、どうしてこれが喜劇なのか、疑問を持ち続けてきました。大人になってからも何度も見直しましたが、やはり同じです。

©NPО japan copyright association Hiroaki


あまりにも哀しい物語なのです。チャップリンはいつも笑顔で語りかけます。ふざけたり、おどけたり、しかしすべての動きに哀しみがあります。母から学んだパフォーマンスをまるで母と一緒に踊り演じているような気持になるのです。映画〈独裁者〉の中では、母アンナに愛を語りかけます。チャップリンは母のために、母のことを忘れないために、映画や音楽を作り続けたのかもしれません。

母ハンナがこの世を去る時、彼は自分の責任だと感じていたようです。もし、もっと自分が頑張っていたならば、母に美味しいティーを飲ませる事ができた・・。

彼にとって唯一の後悔でした。

チャップリンは音楽家を夢見ていました。1916年、彼が27歳のときに音楽事務所を設立し自作3曲を発表しましたが、現実は3部しか売れず挫折します。チェロを弾き、ピアノ、ヴァイオリンの演奏もし、オーケストラまで雇ってレコーデングしましたが、これも頓挫してしまいます。

残念ながら、チャップリンは音楽教育を受けておらず、すべて独学でした。さらに、譜面の読み書きができませんでした。チャップリンの音楽手法は、思いついたメロディーをピアノで弾いたり、口ずさんだりしたものを専門家に写譜してもらうのでした。

「意味を求めたってはじまらないよ、人生は欲望だ。意味なんてどうでもいい。」

「人生は願望だ、意味じゃあない。」

「必要なのは知識ではなく思いやりである。思いやりがなければ残るのは暴力だけである。心に愛を知らぬ者だけが憎しみ合うのだ。人生はもっと美しく、もっと素晴らしいはずだ。」

「そうだ人生は素晴らしい、何よりも大切なのは勇気だ、想像力だ。」

「人生には三つのものがあればいい、それは希望と勇気とわずかなお金。」
                  出典 チャールズ・チャップリン  

チャップリンは天才と呼ばれましたが、こんなに苦しい天才は、この世に存在していないのではないでしょうか?まさに波乱万丈の人生でした。
1914年、彼は25歳となり、その年に36本(週給150ドル)の映画に出演します。
1915年には14本(週給1250ドル)に出演し約10倍近い収入となりました。
1916年(27歳)、わずか3年で15万ドルという契約金のもと、12本の映画製作をします。
1918年(29歳)にハリウッドに進出し年間100万ドルの契約を結びます。
1921年(32歳)〈キッド〉が全米で大ヒット。その後、〈黄金狂時代〉〈街の灯〉は勢いを増し世界中で大ヒットとなりました。
1936年(47歳)に〈モダンタイムズ〉〈独裁者〉が生まれましたが、第二次世界大戦が勃発しアメリカが参戦したため映画製作は停止となります。
1952年(63歳)のとき、アメリカから国外追放となりました。彼は映画作りを止め、スイスのブドウ園に移り住み晩年を過ごします。

1975年(86歳)、彼はアカデミーの受賞式に呼ばれ、20年ぶりにアメリカの地を踏むことになりました。ハリウッドはアメリカの罪を謝罪したのです。舞台に登場した年老いたチャップリンを会場にいるすべての人達が涙と笑顔のスタンディング・オベーションで迎えました。

私はこの時の映像をテレビで見ていて涙がとまらなかったのを覚えています。

喜劇王チャールズ・チャップリンは、1977年(88歳)のクリスマスの朝に亡くなり、スイスの村のはずれの墓地に静かに眠っています。
 
「人生には、死よりも苦しいことがある、それは生き続けることだ。
人間が生きるためには少しばかりの勇気と、少しばかりのお金があればいいんだよ。」


        映画〈ライムライト〉より出典 チャールズ・チャップン

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