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草花を生けることが必要って何だろう

おはようございます。今日もお元気ですか?どうですか?ナオコです。


今朝は雨、大好きな雨です。植物が喜びますね。私の心も潤います。雨音とともに静かなピアノの曲を聴きます。静かな心になって、深いところに降りていきます。


日々、季節がめぐっていますね。気付いたらあっという間に訪れていたり、あっという間に過ぎてしまったり、そんなことの繰り返しです。そうやって生きているのだと思います。


今日は草花を生けることが、必要になるって何だろう、という巡らしになりますが、お付き合いいただけますでしょうか。


私に転機が来たのは、30代終わりころでした。ひと区切りついて、力が抜けた時、急に花を愛でる歳になったのです。部屋でじっとくつろぐとき、そこに花が在って欲しいと求めるようになっていきました。それから今に至ります。

庭仕事を始めたのもそのころです。いろんな面で変わっていきました。自分が新しくなって異分野へ傾いて行ったころです。

草花を生けること、投げ入れですが、ここでは生けると使います。私はとくに生け花教室に通ったわけではないし、通いたいとも思わないし、あえていうなら、師匠は父のようなところがあります。父の背中を見て育ってきました。なんでもです。そして、私がやろうとすることを、いつも後押ししてくれるのも父です。

花を買いに行くより、庭の草花を生けます。以前も川沿いに住んでいたので、ペットボトルに水を入れてハサミを持って、歩いてまわって草花を見つけてはいただいて、日々生けていました。

父といっしょに、花器を買いに行くことが度々ありました。器は、食器より花器から入っていきました。今だに時々花器を買いますが、好みな雰囲気はあまり変わってないようです。それは、私がどちらかといえば、和花と雑草を好きなことがずっと変わらないからかもしれません。


話を今に戻します。

父が入院する前、草花をとても求めていました。そんな気持ちは私にもよくわかります。病んでいると、花の命をいただくことが必要になるときがあります。


「おい、ナオコ。何か生けてくれよ。」そう、頼まれることもありました。

これは今年の夏です。庭の雑草をわさわさと生けました。とても生け花とはいえません。「おー、いいなあ」と言って目を細めて見ています。緑が目にやさしく入ってくるのでしょう。あと、黄色い花は父が元気になります。私も大好きです。気持ちわかります。

草花を愛でて、生きる力をいただいているのだと思います。そんな手助けができたこと、私の喜びです。同時に私も元気をもらいました。またいつか父と暮らせるのなら、同じようにしたいです。


今は、花を受け付けなかった母が、私が生けた花に、「生けてくれたの、ありがとう」と言ってくれるようになりました。正直驚いています。「花なんてどうでもいいわ」という母でしたから。


草花を生けたり愛でたりする行為は、祈りに近いようです。普通目を閉じて手を合わせ祈りますが、ただ草花とつながるその行いが祈りそのものの行為だと感じています。

仏さまも同じですね。日々、ごはん、お水、お茶のお供えをします。手を合わせます。庭の香花も生けてお供えします。


今、庭があるし、隣は空地です。草花を生けるのにいい環境にいますので、恵まれています。いつまで、ここにいられるのかわかりませんが、変化はいつでもしっかり受け入れようと覚悟しています。変化しない人生なんて、どこにもありません。

生きて、生きて、生き抜くのだと、信じています。


今日も私の心にお付き合いいただきまして、ありがとうございます。

感謝しています。
皆さんの一日に、幸がありますように。

それでは、またお会いできますように。ありがとうございました。

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