見出し画像

ひとりぼっち おそれずに 生きる必要はない

疲れてしばらく実家に帰っていた。

「上に、上に」「もっと、もっと」

を求めて走ってきたが、終わりがないこの連続に、心身が疲弊していた。

社会に出ると、何かしらの役割が求められる。

求められた役割を全うし、対価を得て生活する。

友人や恋人すら、お互いにメリットが無ければ会わなくなる。

誰かに求められた「何か」を提供することにうんざりして、1000%自己満足のものを作りたいと思いnoteを始めたが、いつからか、「これは面白いと思われないかもしれない」「こんなことを書いたら批判されるかもしれない」と勝手に感じ、「公開に進む」ボタンを押すのをやめる瞬間が増えた。

「上に、上に」「もっと、もっと」登ることで、満たされると思っていた。

何がどう満たされるかはわからないが、とにかく「何者かになれば、満たされる」と信じ込んでいた。

でも実際は、できることが増え、収入が増え、手にしたかったものが手に入るほどに、もっと欲しくなった。

今あるものには目もくれず、更に上を目指す。満たされるどころか、心も体も渇いていった。


「満たされた状態」とは

何かが爆発して、終電の新幹線に乗って実家に帰った。

2年ぶりに両親や親戚に会い、しばらく連絡が取れていなかった祖母にも6年ぶりに会った。

この人たちは、私の役割や持っているものには何も興味がなく、ただ「私が会いにきた」ことが嬉しい人たちだった。

自分が情けなくなった。

「私が私である」こと以外に何も望まない、そんな人たちに囲まれて育ったのに、何を求めてこれまで走ってたんだろう。

これ以上に満たされる状態なんて、そもそもなかったのに。

何者かになれば、満たされると思っていたが、「何者かになれば」という条件をつけている時点で成り立たないゲームだった。

何者でもない自分をそれで良いと思ってもらえることが、満たされている状態だった。私は生まれる前からすでに満たされていた。

なぜ30になるまでこれに気づかなかったのだろう。

「外に」「何か」を求めている間に、祖母の体は弱っていた。私の6年と、祖母の6年は違う。90近くなった祖母が、久々に私に会って涙する姿に、本当に後悔した。

人生は、大したものじゃない

「上に、上に」「もっと、もっと」を求めてきたが、今回の帰省でこれが何の意味もなさなくなってしまった。

これまでの価値観が崩れ落ちて、何を目標にすれば良いかわからなくなり、途方に暮れてしばらくnoteも休んでいた。

でも今は、こう考えている。

きっと、人生は、大したものじゃない。

私はちょっと大袈裟に捉えすぎていた。

これからは、自分と家族が元気になること・喜ぶことをして生きていきたい。

せっかく生まれてきたのだから、何かの縁で家族になった人たちと、沢山の幸せな思い出を作りたい。

これからも、社会では何かしらの役割を担って生きる。これは死ぬまで続くだろう。

だけど、会社・友人・好きな異性・同僚・道ゆく人・・もう私は誰の評価も興味がない。

どんな良い評価も、「私という存在だけで、満足してくれる」こと以上に私を満たすものはない。

そしてどんな悪い評価も、私の価値を落とすことはできない。

そう思わせてくれる存在がいるだけで、人の目も全く気にならなくなった。とても心強い。

その人たちと楽しい時間を過ごすためには、やはりお金が必要なので、「そのためにお金を稼ごう」と思うようになってからは、仕事にも精が出る。

これまでは漠然と「いつか、満たされるために」働いていた。

「満たされる」ことが何かもわからないまま、それを追い求めていたから、道を見失い、憂鬱だった。

ひとりぼっち おそれずに 生きる必要はない

カントリー・ロードの歌詞のように生きていた20代。

ひとりぼっち おそれずに
生きようと 夢みてた
さみしさ 押し込めて
強い自分を 守っていこ

どんな挫けそうな時っだて
決して涙は見せないで
心なしか歩調が早くなっていく
思い出 消すため

カントリー・ロード
明日は
いつもの僕さ
帰りたい 帰れない
さよなら カントリー・ロード

10代のしずくがこの曲を歌っているのがまた深い。きっと、しずく(耳をすませばの方)もアラサーになったら、また違った感じ方をしていたと思う。

今は、帰りたい時に帰れば良いし、挫けそうな時は立ち止まれば良いと思っている。

20代はこの世から消え去りたい瞬間もいっぱいあった。

だけどそれは、

  • 「外に」自分の価値を見出そうとしていた

  • 「満たされた」状態が何かもわからず、漠然と満たされたいと思っていた

せいだった。

憂鬱で、人生を諦めたいと今この瞬間も思っている人がいると思う。

全てを手にしたように見える芸能人でも、自ら命を断つことがある。

そういう時こそ、「外側」に答えを求めようとしないでほしい。

人は好きなことを言うし、社会や組織も好きに私を評価する。

1000人いれば1000通りある基準に合わせようとすると、そりゃあ壊れてしまう。

それでも私も渦中にいる時は、「自分を大切に」とか「人の目を気にするな」と言われても無理だった。

そういう時はせめて、自分の心が「正しい」・「良い」と言うものだけを信じて進んでほしい。

人の基準ではなく、評価や判断基準を「自分の心」に置く。

心が「嫌だ」「おかしい」「違和感がある」と感じる時は、それを疑う必要はない。ネガティブな感情を否定することは、自己否定することと同じ。

そして、自分が存在するだけで喜んでくれる人が存在することを覚えていてほしい。

社員・友人・恋人・同僚としては代替可能かもしれないが、誰かにとっては唯一無二であり、その誰かは一人でも十分だということを。

当たり障りなく生きることはやめた

これまで当たり障りなく生きてきたが、それが難しくなってきた。

今回の帰省を通して、自分の感情に確信を持てるようになった。新たな自我が目覚めた気分。

違和感を感じることや、嫌なことを嫌と言えない性格だったので、なるべく人当たりよく、当たり障りなく生きてきた。

でも、相手に合わせることが難しくなってきた。

というか、そんな必要が無かったことに気がついた。

これまでの私を好いてくれていた人は、そんな私の変化が面白くないかもしれない。

これから人間関係の変革も起きそうだなと思いつつ、変化する自分の人間関係や環境が楽しみでもある。=)

この記事が参加している募集

サポートいただけると、とても嬉しいです^^