見出し画像

深夜の東京で桜が降る夜は、雨とともに散るらむ

何も考えることがなく、無気力になると僕は深夜の東京に車を走らせる。

無気力なのにふと心が突き動かされる。深夜の東京はほとんどシャッターで閉ざされており、街に灯りはない。車を停め、川沿いを少し歩く。手を伸ばしても届かない虚空を見つめながら。するとそこに1つの色が視えた。

色彩をもたない東京の街に突如として現れた1つの色だ。ここで僕は少しその色をみつめる。僕は大丈夫。1人でも平気。そう言い続けていくうちにだんだん本当になっていく。うつむいているだけでは何も変わらない。大事なのは上を向いて歩くことなのだ。そう言い聞かせる。

「4月の夜はまだ少し肌寒いね」
そう語り合う微妙な2人

これも夜(を想起させる)曲だ。情景描写は一切ないのに、一撃で風景が思い起こされる。

桜はいつか散るもの、恋はいつか終わるものとわかっていても、せめてもの「あなたの心に雨は降らないで」という恋心が描かれている。

別の曲からもう1つ

遠い遥か彼方の先に
手繰り寄せた想いよ
風がそっと教えてくれた囁きに
心は揺れる

これだけで遠くに行ってしまった恋人に想いを馳せる描写が一気に呼び起こされる。恋人に対する想いを桜の情景に比喩している点において最高の文学だと思う。

桜の花 散り散りにしも わかれ行く 遠きひとりと 君もなりなむ

これは国学者・折口信夫が詠んだ短歌である。

桜を観ているうちはその美しさに、ときめきを潤わすが、散った瞬間一気にセンチメンタルになってしまう。「桜散る」=「人の別れ」を想起させる歌が多い。桜が咲いている美しさより、散っていく桜に想いを馳せるのが好きなようだ。

僕の耳にはそんな音楽がながれ、桜にみとれていると黒い天井から水滴がぽつりぽつりと滴ってくるのがわかった。僕は大急ぎで車に戻る。思いがけないことだったので驚いたが、雨は嫌いではない。雨とともに空の匂いも一緒に降ってくるから好きだ。

いい言葉はふとした瞬間にやってくる

さて、僕は25歳くらいまで、言葉というのは消耗するものだと思っていた。人と話している時、音楽を聴いている時、何か文章を書く時……といろいろあるわけだが、どれも寝て起きたらリセットされるような感覚だった。

何の気の迷いか、僕はnoteという文章投稿サイトを見つける。日記や手帳をつけていてもすぐに辞めちゃう僕だ。でも始めるからには頑張って何か書いてみようと思った。

noteを始めていくうちに、ほどなくして「いい文章を書きたい」という思いが湧いてきた。日常生活や読んだ本の中で出会ったすてきな言葉を、Evernoteに書き留めている。どうせ文章を書くのなら、いい文章を書きたい。いい文章を書くためには、いい言葉を蓄えておかなければならない。そう思って、メモしたり見返したりする。

でも、こういう努力は他人からは見えない。このメモはあくまで自分用なので、誰かに見せるわけでも見られるわけではない。裏の努力はみえなくて当然なので、ここで声を大にして何かを言うつもりはない。

僕がこのエッセイを書き始めたとき、最初「なにも考えずに気軽に書ければいいな」と思っていた。この「noruniruの頭の中」というマガジンもテーマフリーなので何を書いてもいい。

月曜日のエッセイ以外にも気が向いたら記事を投稿するけど、たとえ投稿頻度が落ちても「週1のエッセイは力を入れて書こう」というモチベーションが湧く。

素人が書くエッセイなので、そこまで中身のある内容が書けるわけではない。その中でも投稿するとコメントくださる方もいて、読んでくれている人がいる心強さが芽生えた。

先週投稿したこちらの記事。イマジナリーフレンド(空想の友達)だと思われないように、写真を載せて当時の心情を包み隠さず書いた。投稿した折、「切なすぎて泣いた」というお言葉を頂いた。自分が意図する内容を伝えることができ、読み手に読んだ後の後悔を与えなくてよかったと思って、少しホッとした。

#結婚 で「うれしいお知らせです!」が届いた。わーい

いい言葉というのはふとした瞬間に現れる。読んでいる小説もそうだし、冒頭であげた歌の歌詞も短歌もそうである。

魯迅『故郷』も最初は魯迅の作品をしっかり読んでみたいと思って、読み始めていたらスマホのスクショがとまらなかった。

ぼんやりとしている僕の目の前では、一面に海辺の深緑の砂地が広がり、頭上の深い藍色の大空には金色の満月がかかっている。僕は考えたー希望とは未来あるとも言えないし、ないとも言えない。これはちょうど地上の道のようなもの、実は地上に本来道はないが、歩く人が多くなると、道ができるのだ
魯迅著、藤井省三訳『故郷/阿Q正伝』(光文社古典新訳文庫) Kindle版 位置No.808

藤井省三の訳の妙ではあるが、原語のニュアンスをそのままに丁寧な訳語で活き活きと情景が呼び起こされる。これと私生活の中で久しぶりに会った友人に重ね合わせて書いた記事だ。

誰かに話したい、この気持ちを

自分の感情を言葉にしようとするとき、混沌する自分の脳内を整理する。名前なき喜怒哀楽を「あぁでもない」「こうでもない」を考えながら文章を書くのが好きになった。自分の「好き」を理解してもらうのってなかなか難しい。たった1人でもいいので、誰かの心に残る文章が書ければいいなと思っている。このエッセイを読んで下っている方も多く、「ノルニルさんの〇〇の記事、好きです!」とおっしゃっていただけると、恐れ多い。また「ノルニルさんに○○のことについて書いてみてください」と言われるとさらに嬉しい。読みたいと思ってくれている人がいると心強いね。(2回目)

2年続けてきたnoteもありがたいことにフォロワーが100人になった。たかが100人。されど100人。いつまでも、読んでもらえるような文章を書くことを忘れずに、これからもnoteを続けていきたい。

桜は散る時が美しい

このエッセイを書くのだって、なにかきっかけがないと書けない。冒頭の話に戻るが、深夜の東京に僕は車を走らせてたまたま見つけた桜に、僕は「今思っているこの感情を書こう」と決めた。時期的に桜が散り始めた時期で、そこに追い打ちをかけるように雨が降る。桜が1年中咲き続けていたらおそらく「美しい」ものにはなっていなかった。そして「桜は散っていく方が美しい」ことに気づけなかっただろう。

僕たちはこの先ずっと一緒にいることはできないと、はっきりとわかった。僕たちの前には未だ巨大すぎる人生が、茫漠とした時間がどうしようもなく横たわっていた。
『秒速5センチメートル』第1話「桜花抄」より

この時期は新海誠監督『秒速5センチメートル』を思い出す。新海誠作品が好きでとくにこの作品が好きだが、最後がとても切ない。

人と関係を作ることは喜びでもあり、絶望でもあることがよくわかる。脆弱性を孕んだ人間の心に追い打ちをかけるように、散る桜を見るとはなれてしまった友の顔を思い出す。会えない友を想ってこういうことを書くのはやめようとも思うが、どうせ年齢を重ねていくうちに、桜はあっという間に咲き、あっという間に散っていく。膨大とした時間が人生を横たわっていくのだから、たまには誰かのことに想いを馳せる時間に向き合ってもいいのだ。

これから梅雨の季節。いやだなぁ。でも、雨とともに降ってくる空の匂いも好きだから待ち遠しい。

最後に、夜に雨が降っていたら聴きたくなってしまうサカナクション「Ame(b)」をどうぞ。(ラジオ番組っぽくしてみた)


よかったらサポートもしていただければ嬉しいです!いただいたサポートは読書に充てたいと思います!