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自分らしさを開放したい

最近まで自分が何にむかつくのか分からなかった。むかついてはいけないと思っていたから。達観した人間になりたかったから。いらつくというのは才能だという言葉を聞いて改めて自分が何にむかつくのか考えてみる。私が特にいらつくのは嘘と言葉だ。わたしが勧めたエッセイを読んでハッとしたという知り合いに「うそつけ」と感じたときにいらついた。(その知り合いからはその後も特に何か変化を感じなかった)
会社の同僚の言葉の語尾がきつく感じる、言い方に腹が立つ、自分の価値観を押し付ける(これは少し違うか) など自分以外に明確に腹が立ったのは中学生ぶりだろうか。怒りは喜びや楽しみに比べればうそ偽ることのできない純粋な感情だと思う。怒りを押し殺してはいけないのだ。

わたしは周りに自分の価値観を受け入れてくれるような人が少なかったように感じる。幼稚園児のときにおままごとをしていておもちゃのたべものを口にほおばり先生に怒られたことがあった。わたしは「たべものなのになぜ食べてはいけないのだろう」と本気で思った。また、私はそのときクラスがりんご組とバナナ組に分かれていて当の私はりんご組に所属していたが私はバナナが好物だったので自分がバナナ組だと本気で信じていた。先生から君はりんご組だと言われたときは本当に意味が分からなかった。

どれもしょうもない話ではあるが当時の私からしたらカオス放り込まれたようなものだ。何が言いたいかとというと私は自己表現を大事にしたいのだ。周りがりんご組だと言っても自分はバナナ組だと言える人でありたい。周りから軽蔑されてもおもちゃのたべものを本物の食べ物と信じて口の中にほうばりたい。自分の正解を外に開放したい。折り合いをつけるのはその後でもいいのではないか?繊細だからこそそれを外に出さないと自分の本音や感情が分からなくなり、常識や理屈の混ざった嘘の自分に作り替えられてしまう。そんな自分で生きるのはいやだ。

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