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呪いの時代 (内田 樹)

(注:本稿は、2012年に初投稿したものの再録です)

 内田樹氏の著作は「街場のメディア論」以来久しぶりです。今回手に取った本は、ちょっとインパクトのあるタイトルです。

 内田氏によると、「呪い」の言説は、1980年代半ばのニュー・アカデミズムといわれる批評あたりから際立ち始め、昨今、過激なスタイルを売りにした討議番組やインターネット上の「炎上」サイト等において、さらに攻撃的・破壊的になっていったとのことです。

(p16より引用) 「壊す」ことも「創造する」ことも、今ある現実を変えるという点ではよく似ています。ですから、「Change」という威勢のよいかけ声を挙げて興奮している人は、自分がものを壊しているのか、作り出しているのかということにはあまり興味を示しません。

 もちろん、Changeを訴え壊し続けていると社会は成立し得なくなります。しかしながら、「呪い」は破壊を目指します。創造より破壊の方が圧倒的に簡単だからです。

(p18より引用) 新しいものを創り出すというのはそれほど簡単ではありません。創造するということは個人的であり具体的なことだからです。

 本書のタイトルは「呪いの時代」ですが、本書を通して「呪い」について論じているわけではありません。「呪いの時代」である現代を内田氏的視点で切り取った小文集といった趣です。

 その中で「経済」について語っている『日本辺境論』を超えて」の章に、興味深い指摘がありました。

(p150より引用) 経済活動は、有用な商品を手に入れることが目的であるのではありません。商品なんか何だっていいんです。何でもいいから、ぐるぐるとものが回れるように社会的インフラを整備すること。それが経済活動の第一目的だろうというのが僕の考えです。

 「ものをぐるぐる回す」即ち円滑な経済活動を実現するためには、「言語」「法律」「移動手段」「運搬手段」「製造手段」「関連学問」・・・、さらには、それらに適した「人間的資質」も要求されるとの考え方です。

 もうひとつ、この論でのポイントは、回すものは「もの」だということです。近年の「金を金で買う」金融経済、すなわち「(ものではなく)金を回す」活動は、何も生み出してはいないわけで、その意味では経済活動ではないとの指摘です。

 この考え方は、内田氏の「交換経済」から「贈与経済」へという主張の一部であり、この考え方の延長線上に、今回の東日本大震災を契機とする国民の価値観の変容に向けた見通しも述べられています。

(p259より引用) 21世紀の日本、東日本大震災後の日本社会は「金以外のもの」を行動準則に採用する人々によって担われてゆくことになるだろう。それは・・・市民たちの経済的な行動がローカルに、あるいはパーソナルに「ばらけてゆく」ということであり、それは東京一極に資源が集中し、国民全体の価値観が「東京規格」に準拠するといういまの社会のあり方のラディカルな再編をもたらさずにはおかないだろう。

 さて、本書を読んで、最も面白いと感じた主張は、「『婚活』と他者との共生」という章における「結婚」の意味づけについてのくだりでした。

 著者は、現代日本社会の深刻な問題は「他者との共生能力の劣化」だといい、その共生能力を開発する上で、「結婚」という制度は優れていると説いています。

(p120より引用) 配偶者が示す自分には理解できないさまざまな言動の背後に、「主観的に合理的で首尾一貫した秩序」があることを予測し、それを推論するためには、想像力を駆使し、自分のそれとは違う論理の回路をトレースする能力を結婚は要求します。・・・一見するとランダムに生起する事象の背後に反復する定常的な「パターン」の発見こそ、知性のもっとも始原的な形式だからです。

 おそらく、結婚しているすべての人はこの著者の説に同意するのではないでしょうか。
 しかし、ほとんどの人は何度となく配偶者の主観的論理回路のトレースに失敗していることでしょう。もちろん私もその中の一人です。



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