きょろきょろする日本人
「日本人とは何ものか」という問いに対して、今日の人気論客内田樹氏が「ビッグピクチャー」を描いて大胆に論じます。
絵を描く際には、「対象」を捉える「視野」の設定が重要です。
内田氏自身、「はじめに」でも述べていますが、過去にも数々の「日本文化論」が論じ重ねられてきました。が、これほど多くの「日本文化論」が存在していること自体、極めて「日本人的」であると内田氏は言います。
ただ、この点はすでに梅棹忠夫氏が指摘しているところでもあるとのこと。
この回帰性を政治学者丸山眞男氏は「執拗低音」と表しました。「きょろきょろして新しいものを外なる世界に求める」態度です。これが「日本人の振る舞いの基本パターン」であり、繰り返し表れる「回帰パターン」なのです。
こういう「変り身の早さ」が伝統化するには、もちろん必然の経緯があります。
「きょろきょろするナショナル・アイデンティティ」は、辺境に住む日本人にとって、外からの力に抗するための自己防衛的態度だったのです。
こういう辺境人たる日本人の特性は、つい最近まではいくつもの局面で効果的に働いていました。
しかしながら、今はというと
相対思考
「きょろきょろする」ことは、周りを見る、周りの中で自己を位置づけるという行動です。この性癖は、日本のあらゆる場面で顔を出します。「国」「政府」というレベルでも同じです。
著者はこのあたり、アメリカとの比較から立論を進めます。
オバマ氏の大統領就任演説で語られたような「建国の理念」「国民の物語」が日本には欠如しているという指摘です。
こういう思考スキームは、最近も「空気を読む」というフレーズで再登場しています。
「空気」というのはその場にいる人々の「関係性」の態様であり、その関係性を意識して、つまり「空気を読んで」、自己の振る舞いを決めるという態度です。まさに「空気を読む」という所作は「きょろきょろする」ことと同体です。
本書のタイトル「日本辺境論」からは、文字通り地理的な意味で「辺境=周辺」というニュアンスが感じられますが、著者のいう「辺境」は絶対座標ではなく相対座標において自己の立ち位置を測る、「not 中心」という意味でも「辺境」というコンセプトを提示しているようです。
別の言い方をすると、「状況創造」ではなく「状況受容」「状況反応」というのが日本人の基本的行動様式だということでもあります。
ただ、こういう相対性や受容力は、「学び」という観点ではある種の強みを発揮するようです。まわりを見、それをまず受け入れるという態度は「オープンマインド」にも通底しています。
絶対的なものを追求せず、外部からの受けた情報と自己の思考とのつじつまあわせをする、そういう過程から何らかの新たな気づきを得ていくという「効率的」な学びの方法が、日本人特有の「学びの力」となっているとの指摘です。
「学び」はまさに「力」でした。
日本の「学び」の大きな特徴は、「効果が分からなくても、まず学びを始める」というところにあります。
西洋流の、「先駆的な知」はアプリオリなものとして既に「そういうものがある」という前提ではなく、必ず何かが得られるという確信なくして学ぶことができる。これは稀有な強みです。
逆に言えば、この「学びの姿勢」をなくしてしまうと、日本は大きな強みを失うことになるのです。
世界標準
著者は、幕末と明治末年(日露戦争後)の日本がおかれている状況を比較して、「情報と判断」との関係についてこうコメントしています。
幕末においては状況判断を誤らず、明治末期には判断を誤ったと著者は考えています。情報量は、明治末期の方が大きかったにもかかわらずです。
では、何が原因で、こういう判断結果の差異が生じたのか?その考察から、よく言われている日本人の特性に言及していきます。
この日本的思考様式の現出は、思想の如何を問いません。
この点が、ヨーロッパの思想的根本と決定的に異なるところです。
これら無数の先駆者の挑戦的実践の重層のうえに西欧の社会思想基盤が築かれていったのです。
著者は繰り返し強調します。日本人には「フォロワー」としての思考・行動が染み付いています。ここに新たな世界を牽引する「中心」たり得ない決定的な「辺境の限界」があるとの主張です。
確かに、こういう「自分自身を根拠にした判断」というのは私たちにとっては難しい行動です。
現実的には、いくら「未来が証明する」といわれても、それをそのまま信じるという人は稀でしょう。
ただ、「私は自分を信じる」という強い意志は、周りの同調や支持を不要とする覚悟でもあるのです。