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老荘思想の心理学 (叢 小榕)

(注:本稿は、2013年に初投稿したものの再録です)

 ちょっと前に、加島祥造氏の「荘子 ヒア・ナウ」を読んだのですが、それに続く“道家入門”的な著作です。
 巷間で耳にする老子・荘子を元とした言葉を材料に、その背後にある思想をわかりやすく解説していきます。

 ここでは、いくつかの「老荘のことば」とそれにまつわる著者の解説・コメントの中から、ちょっと気になったものを書き留めておきます。

 まずは、『荘子』(内篇・逍遥遊)にある「小知は大知に及ばず」という言葉について。

(p50より引用) 小知では大知は想像もつかないものと述べているが、小知とはこまごまとしたした智慧で、大知とは世間一般の常識にとらわれない無限の智慧を指す。

 叢氏は、これを、心理学的視点に立つと次のように解釈することができると説きます。

(p51より引用) 小知に縛られた考え方は、心理学でいえば「機能的固着」で、そこからは「近い連想」しか生まれてこず、創造的問題解決を妨げる要因とされる。大知につながる思考パターンは、心理学でいう「創造的思考」で、アイディア同士が柔軟に結びつく「遠い連想(遠隔連合)」によって独創的なアイディアが生まれる。

 ただ、こうコメントされても、「では、どうやって『大知』を得ることができるのか」というと、そこで止まってしまいます。

 もうひとつ、こちらは意識の持ち方次第で実行できそうなもの、「人の評価」に関する教えです。材料は、『列子』(黄帝)、『荘子』(外篇・山木)にある「美醜二妾」

(p57より引用) 人の評価は、見た目のよさなど資質だけで決められるものでもなければ、善行などの行為だけで決められるものでもない。資質や行為を当の本人がどのように受けとめているか、その態度こそが、その人を評価する最も重要な条件だと、楊朱は宿屋の主人の話からその寓意を見いだし、弟子たちを戒めたのである。

 外見的に美しい女性がいたとして、「美しい」ということのみでその人の評価はくだせない。「自分は美しい」ことを彼女自身どう受けとめているのか、分かりやすくいえば、それを「鼻にかけているのか」、それとも「そのことを意識せず謙虚に振舞うのか」、その態度で評価が決まるという考え方です。

 さて、本書では、これらのほかにも多くの道家思想が心理学との係わりの文脈で紹介されていますが、その中からもうひとつ、「メタ認知」について。

(p107より引用) 自分の認知活動について一段高いところから眺めること(モニタリング)を「メタ認知」というが、外物にばかり心を奪われている時は、この視点がとれない。特に動機づけが高い場合は、直接の目的達成に心的資源を集中するため、自分を含む場面全体に注意が行き届かず、視野が狭くなり、情報処理に偏って、メタ認知ができなくなる。

 こういった状況にある人に対して、異なる視点からの指摘を行うためには、ちょっとした工夫が必要です。

 そのひとつが、寓話・寓言の活用です。直接的にアドバイスするのではなく、たとえ話をヒントに相手の自発的な気づきを惹起させるのです。
 たとえ話という「アナロジー」による論理展開(A:B=C:X)により「メタ認知」を促す(人のふり見て我がふり直せ)といったスタイルは、叢氏によると、道家の書物のひとつの特徴だということです。

 最後に、本書を読んでの感想ですが、「老荘思想」の入門書的な内容を期待して手にとると、あまりしっくりこないかもしれません。
 たとえば、“タオ”のような老荘思想の基本概念について学ぼうとしても、本書の構成や内容ではもうまく理解できないでしょう。

 企画の着眼としては面白いのですが、解説の質に関してはちょっと物足りないですね。



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