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流れる星は生きている (藤原 てい)

(注:本稿は、2016年に初投稿したものの再録です)

 一度は読んでみようと思っていた本です。
 作者の藤原ていさんは、作家新田次郎氏の妻、数学者でエッセイスト藤原正彦氏の母です。

 太平洋戦争の終戦当時、満州新京にいた藤原夫妻は夫婦別れ別れとなり、ていさんは三人の子供を連れ日本に向けての過酷な脱出行に赴いたのでした。
 その言語に絶する厳しさを「あとがき」でこう記しています。

(p299より引用) 当時二歳だった次男は、アメリカの大学で、三年間、数学を教えていたが昨年帰国し、いまは日本の大学で教鞭をとっている。この次男は、あまりに当時幼なすぎて、引揚げの苦しみは全く記憶にないと、私は考えつづけて来た。その彼が、
ボクはどうして川がこわいのだろうか、日本でも、アメリカに居たときも、どんなに小さな川でも、一応は立ち止って、考えてから渡るような習慣を持っているのだが・・・」
 つい先頃の話である。私は、彼の顔をまじまじとながめた。
・・・
「やはり、そうだったのか・・・」
 朝鮮の平野を流れる河を渡る時、胸までつかる水をかきわけながら、彼を落とすまいと、私は、横だきにした手に力をいれた。彼は恐怖のためにヒーヒーと泣いた。
・・・
 その時のおそろしさが、今、彼の潜在意識として残っているのだろうか。

 想像もできないような苦難の始まりは夫との別れでした。シベリアに向かう夫に渡した毛布と現金。夫はそれを人に託してていさんに返してきました。
 その時のていさんの心境を表したくだりも印象的です。

(p50より引用) 私は心の中ではげしく夫を責めた。一体シベリヤへ行くというのにどうして一番大切なものを返してよこしたんだろう。まるで自殺行為のようなものだ。夫は私や子供たちのためにこれを残しておいて、気持の上で満足するかもしれない。しかし私はこの毛布を見るごとに毎日毎晩夫の身の上を案じなければならない。そんな精神的重荷を残していった夫をうらんだ。

 ていさんの満州からの脱出の苦労は筆舌に尽くし難いものでした。寒さ・暑さ・豪雨、渡河・山越・・・、そういった厳しい自然との闘いもあれば、極限状況における人間の本性を顕にした軋轢もありました。それらは、すべて3人の子どもとともに生き抜くためのものでした。

(p226より引用) 私はもう一歩も進めない。
「崎山さん、先に行って下さい」
 私は割合に冷静な言葉でこういった、川の黒い黒い面を見詰めた。一歩前にいた、崎山さんは振り返って私の顔を見ていたが、いきなり平手でぴしゃっと私の頬を叩いた。そしてがつがつ歯を鳴らせながらかみつくようにいった。
「気違い女、死にたけりゃ、私の前で死んで見たらいい。さあ川へ入って見ろ、眼の前に開城をひかえて死ぬ馬鹿があるか!」
 崎山さんはぱらぱら涙を流しながら、私の腕を取った。

 そして、遂にようやく日本に向かう船が釜山の港から離れたとき、ていさんは、その時の心情をこう記しています。

(p252より引用) 皆甲板に集まっていた。・・・
 涙を流すもの、あてもなく手を振るもの、なにか叫ぶもの、人により色々の表現はあるが皆一つの生きて来たという感情の昂奮で騒いでいるのだった。私には別に涙を流すような感情は湧き出て来なかった。静かに右足につけていた牛の草鞋と左足にくくりつけてある草履を解いて、ぽんぽんと海の中へ放り込んでやった。
 とてもよい気持であった。

 ていさんと3人の子どもたちにとって、長く苦しい道程の終着駅は信州上諏訪駅でした。
 その「引揚者休息所」に着いて。

(p293より引用) 入口に一歩足を踏み込んで私ははっとして立ちすくんだ。そこには私の幽霊が立っていた。・・・
 諏訪の湯と書いてある大きな鏡に写った私の姿は自分で見てさえ恐ろしいほどのものであった。鏡というものを一年以上見たことのない私はどんな姿か、自分を見ることが出来なかった。そして今見た私は墓場から抜け出して来た、幽霊そのままの姿であった。

 さて、本書を読み通しての感想です。

 出版当時ベストセラーになったとのことですが、さもありなんと首肯できますね。著者自身の実体験に基づくものであり、また舞台が舞台だけに描かれている内容のリアリティは圧倒的です。
 ところどころで垣間見ることができる藤原正彦さんの子どものころの姿、それがまた今を彷彿とさせる点も興味を惹きますね。

 間違いなく、評判どおりの素晴らしい作品だと思います。



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