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パイドロス (プラトン)

ソクラテスのスタイル

 時折、年に1~2回、内容が理解できるわけではないのですが、プラトンの著作を読みたくなります。
 今回手に取った「パイドロス」は、「恋(エロース)」をテーマにした思索と「弁論術」に対する批判が基軸になっています。

 「エロース」に関する思索については、「魂(プシューケー)」の議論も踏まえつつの展開でした。「魂」の説明においてソクラテスは、以下のようなメタファーを用いて説明していきます。

(p58より引用) 魂の似すがたを、翼を持った一組の馬と、その手綱をとる翼を持った馭者とが、一体になってはたらく力であるというふうに、思い浮かべよう。

 このイメージは、訳者藤沢令夫氏の注によると、プラトンの魂の「三部分説」に重なりあうと言います。すなわち「知的部分」と呼ばれる精神の機能が馭者に、「激情的部分」が良い方の馬に、「欲望的部分」が悪い馬の方に相当するのです。

 本書では、このイメージをもって、「恋する者の心的葛藤」を描写していきます。とはいえ、このあたりの概念や論理展開は私には難解でした。

 ただ、形式的な立論において、例のソクラテスのスタイルが当然ながら踏襲されていて、それとしての親近感は感じますね。

(p29より引用) しかしぼくは、自分の無学を承知しているから、それはどれひとつとして自分で自分の中から考え出した事柄ではないということは、よくわかっている。だから、思うに結局、これはどこかよその泉から耳を通してはいって来たものであって、ぼくはちょうど一箇の容器よろしく、それによって満たされたとしか考えられない。

 いわゆる「無知の知」を前提とした「問答形式」です。

 さて、もうひとつの本書のテーマ、「弁論術の批判」については、パイドロスの「リュシアス礼賛」に対する疑義の表明が、批判の皮切りになります。

(p27より引用) パイドロス、失礼ながらぼくの受けた感じを言わせてもらうなら、どうもリュシアスは、同じことを二度も三度もくりかえして話したようだった。まるで、同一の主題についてあまり話の種の持ち合わせがないかのように、あるいはおそらく、この種の主題にはぜんぜん関心がないかのようにね。で、彼の話しぶりは結局、同じ事柄をああも言いこうも言いしながら、どちらからでも誰よりもうまく話せるのだぞということを得意になって見せている、といった印象をぼくにあたえたのだ。

弁論術

 本書での「弁論術」批判の立論は、比較的論旨をたどりやすいものだとの印象です。もちろん、完璧に理解し切れてはいないと思いますが・・・。

 まずソクラテスは、「語ろうとすることの『真実』」について問います。パイドロスの答えはこうです。

(p93より引用) 将来弁論家となるべき者が学ばなければならないものは、ほんとうの意味での正しい事柄ではなく、群衆に・・・その群衆の心に正しいと思われる可能性のある事柄なのだ。さらには、ほんとうに善いことや、ほんとうに美しいことではなく、ただそう思われているであろうような事柄を学ばなければならぬ。なぜならば、説得するということは、この、人々になるほどと思われるような事柄を用いてこそ、できることなのであって、真実が説得を可能にするわけではないのだから・・・

 まさに、「弁論『術』」の本質を突いた台詞です。

 これに対しソクラテスは、例の問答を通して、「真実そのものの把握なしには、真実らしく思われるように巧みに語るということさえ、本来不可能であること」(巻末解説)を明らかにしていきます。

(p100より引用) してみると、君、言論の技術というけれども、もしひとが真実を知らずに、相手がどう考えるかということのほうばかり追求したとするならば、どうやらその技術なるものは、何か笑止千万なもの、そして技術としての資格がないものとなるようだね。

とソクラテスは語ります。リュシアスをはじめとする弁論家の説くところは、まだ「術」にすら至っていないというのです。

(p119より引用) ある人々は、ディアレクティケーの知識がないために、弁論術とはそもそも何であるかを定義することができず、そしてそのように弁論術の何たるかを知らないことの結果として、技術にはいる前に予備的に学んでおかなければならない事柄を心得ているだけで、弁論術そのものを発見したと思いこむものだ。

 ソクラテスにとっては、「技術」といえるものも「物事の本質の追究」を経て完成されるものなのです。

(p120より引用) およそ技術のなかでも重要であるほどのものは、ものの本性についての、空論にちかいまでの詳細な論議と、現実遊離と言われるくらいの高遠な思索とを、とくに必要とする。

 本質の追究にあたっては、ロジカルな「分割法」が採られます。
 まずは、目的を明確にします。目的が明確になると、働きかけるべき対象が明らかになります。そして、その対象を分割し個々に分析していくという方法です。

(p125より引用) そもそも言論というものがもっている機能は、魂を説得によって導くことにあるのだから、弁論術を身につけようとする者は、魂にどれだけの種類の型があるかを、かならず知らなければならない。

 分割・分析により規定された各々の類型に対して、それぞれ適した話を対応させることにより、個々の魂の説得を行うのです。

 さて、「弁論術」についての論考を進めた後、最後にソクラテスは「書かれた言葉」についての議論を採り上げます。

(p136より引用) 言葉というものは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、それを理解する人々のところであろうと、ぜんぜん不適当な人々のところであろうとおかまいなしに、転々とめぐり歩く。

 したがって、言葉はその真意を守らなくてはなりません。パイドロスは、ソクラテスの語る意味をこう理解しました。

(p137より引用) あなたの言われるのは、ものを知っている人が語る、生命をもち、魂をもった言葉のことですね。書かれた言葉は、これの影であると言ってしかるべきなのでしょうか。

 ソクラテスが著した書物は、1冊も残っていないと言われています。



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