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石巻に行った時のこと①

6年前、宮城県の石巻に行った。
東日本大震災の被災地の支援活動の現場を知るため、職場から業務の一環として派遣されて、石巻で少しお手伝いをすること、また、帰ってきてみんなに伝えることが目的だった。たった一週間程度だったが、石巻で働く担当者Yさんが色んな所に視察の名目で連れて行ってくれて色んな人と会って話を聞いた。

石巻には、私の遠い親戚が暮らしていたのだが、東日本大震災の時に津波でさらわれてしまった。
石巻には行ったことはなかったし、その親戚にも会ったこともなかったが、まだ当時生きていた私の祖母が、石巻の親戚の住む住所を書いたメモを手にして、テレビのニュースやものすごい量と速さで流れていく被災者の情報などをずっと見ていた。
数日後、テレビの上の方に、そのメモに書かれていた遠い親戚の名前が、たくさんのその他の人の名前とともに流れていた。新聞にもその名前が書いてあるのを私の父親が見つけた。死亡者の欄だった。その切り抜きを祖母に渡すと、「そうか」とだけ祖母は言って、住所のメモと切り抜きを自分の日記帳に挟んだのを見て以来、石巻は私にとって、ただの見知らぬ被災地ではなくなった。

職場で、石巻へ派遣するメンバーを募る紙が回ってきたので、自分で希望し、向かった。私一人だけしかいなかったが、一人旅好きな私としては、旅行気分になり嬉しかった。


仙台から石巻へは、全線再開になったばかりのJR仙石線に乗って行った。石巻駅に迎えにきてくれた初めて会うYさんは、私の小さめのバックパック姿を見て、「みなさんスーツケースで来られますよ」と笑っていた。年中、各地の協会から派遣された人たちを受け入れて対応しているYさんは珍しがっていた。そうか、つい、いつもの旅気分でリュックで来てしまったが、仕事だった。こっちの方が動きやすくていいんですよ、と弁解した。おかげで割とすぐ打ち解けて助かった。
大阪に住む私には、いざ自分が実際に石巻の町中に立っていても、ここに津波がやってくるなんて、想像もできなかった。
Yさんの車で石巻の仮設住宅に住む方々の訪問に連れて行ってもらったのだが、車で走っていると、所々に「ここまで津波が来ました」という印が信号機よりも高い位置にあるのを見かけて見上げる。やたらと綺麗に整備された新しい道だった。

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仮設住宅の訪問に付き添うと、必ずそこにいない誰かの写真が飾られていた。壁中に子供たちの写真を飾っている女性の家にも行った。
仮設住宅の騒音トラブル、自殺、認知症などの問題。復興住宅に当選する人しない人、道を挟んですぐ隣に一般の住宅がある格差。復興住宅にも被災者と普通に暮らしている家庭とが混在している格差。
味気ない無機質な仮設住宅を何とか少しでも明るくしようと花を植えたり壁画を描いたりする取り組みなどもあり、そこには生活があった。
漁師の多いこの町で、漁師たちの飲酒量は以前から多い傾向があったが、震災によりアルコールの問題があぶり出されてしまったという話をYさんから聞いた。私が訪れたその当時の石巻で、メンタルヘルスの分野で最も深刻な問題というのが、中高年の独居の男性のアルコール問題だということに驚いてしまった。肝疾患の人も多く、心も体も蝕むアルコールの問題に、被災者の支援においてYさんが一番尽力されているというお話をされた。

「のりまきさんは、麻雀と釣りとどちらかできますか?」とYさんから聞かれ、「麻雀はチートイツしかできないけど釣りはしたことはあります」と答えると、「じゃあ明日は釣りに行きましょう」と言われ、被災者の一人とYさんと私の3人で一緒に釣りに出かけた。
一緒に並んで釣りをして、いっぱいおしゃべりをし、キヌバリを釣ってはしゃいだりした。
釣竿に餌をつける際に、「あんたはバックパッカーという割には虫とか苦手なんだね」ともう一人の人に笑われて、「バックパッカーである前にただの都会育ちの都会っ子なんですよ」と言い訳してみんなで笑った。
黙って釣りに集中している時に、「海はいいねえ」とその人がぽつりと言ったが、「まだまだそう言えない人も多いけどね」と付け足すように言っていた。その人は、家族を津波で亡くしていて一人で仮設住宅で暮らしている人だった。
釣りをしていたら突然の土砂降りが来て、強風も吹いて、釣りを終えたのだが、大急ぎで片付けて車に乗った途端に晴れて、自然の気まぐれさを感じた。

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そういえば、2011年の秋にインドを旅していた時に、インドの夜行列車で向かいのベッドで寝ることになった人たちが、インドの軍関係者だったことを思い出して、釣りをしながらその話をした。

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その中の一人、クマールさんは、東日本大震災の直後、しばらく日本の宮城県に派遣されて、津波の復興作業を手伝っていたのだと私にそう言った。
「Dr.イチハラに世話になった、ありがとうと伝えて欲しい、日本の人たちに早く元気になって欲しい」とクマールさんが言っていたことを思い出して話した。
震災以降、私が世界を旅していると何人もの外国人が津波のことに心を痛めて心配してくれたことが、単純に日本人として嬉しいと思ったりしたのだが、実際に被災地の人はそういうのを聞いてどう思うのだろうと遠慮しながらそのエピソードを話した。
話しながらも、私なら見ず知らずの外国人から心配されても嬉しくも何ともないな、という気持ちがわいてきていたが、なぜか最後まで話し続けてしまった。
「へぇ!インドで?そんな偶然もあるんだねぇ」「海外でもニュースでやってたんだねぇ」と感心されていたが、それ以上の感情は読めなかった。余計な話をしてしまったなぁと少し後悔した。
後日、その話を一緒に聞いていたYさんが「Dr.イチハラってこの人じゃないですか?」と、とある資料を見せてくれた。Yさんが気になって調べてくれたらしく、被災地の支援活動の資料で市原さんという名字を見つけたらしい。
被災地の活動をしていた災害医療センターの方で、過去にJICAでパキスタンやバングラデシュに行かれたことがある市原さんという人だった。ヒンディー語を話せたんじゃないか、という勝手な想像に至り、「きっとこの市原さんがそのDr.イチハラに違いないよ」と盛り上がり、「そうかも知れないですね」と私も言った。
「何かの機会で市原さんに会うことがあったら、クマールさんの伝言を伝えますね」とYさんは言ってくれた。
だからどうしたということではあるが、インドの夜行列車で私の隣に眠ることになった人が、ここで、この市原さんと活動をしていたかも知れないことに、何か繋がりを感じた。
「一緒に釣りをしたあの人にもこの市原さんのことだよって今度この資料を見せて教えてあげようっと」と言ってYさんは微笑んでいたので、私の話は余計な話ではあったが、してはいけない話でもなかったのかも知れないと思うことにした。

被災地の支援活動の一環で来たはずが、釣りをしたり、牛タンを食べたり、旅で知り合ったインド人の伝言ゲームをしたり、私は一体ここに何をしにきたのだろうと思いつつ、石巻に住む人たちとの交流を1週間ほど続けた。


長くなったので後半はまた次回に。




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