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noteを毎日書いていること

私は2020年の4月の緊急事態宣言の日からnoteを書き始めて、それを今日に至るまで350日くらい連続で毎日書いている。
ただただ、毎日色んな言葉を書いてきて、370本のnoteを投稿したらしいが、今や何を書いたか忘れているものも多い。
思いつくままにその日の気分で書き続けていて、書くのが好きで楽しいし、苦じゃなかったし、などというその程度の感覚でここまで続いてしまったなあというのが正直なところ。
私は仕事でも割と感覚で動いているところがあり、良くも悪くもその感覚がちゃんとこれまで理論的にもずれずに運良く芯をとらえていることが多く、感覚1本でここまで突き抜けてきてしまえたところが大いにある。
いつも厳しいアドバイスをしてくれる昔の職場の先輩(この人です)は、私のそういう部分を20年近く前から厳しく指摘し、「もっと自分のしていること、目指しているものや方向、大事にしていることを言語化して人に説明できるようになれ、知ってもらえるようにしろ」「自分という商品を売る気がなさすぎる」と言っていた。私が別に人に自分のしていることを知られなくていいと思い過ぎているのがもったいない、とのことだった。商品じゃねえし、と若造の私は思っていたが。
「余計なことはひたすらに饒舌に語れるし綴れるくせに、君は仕事を黙って感覚でやっている部分が大きいから、感覚で外さないそのセンスは買うが、感覚や感情だけじゃなくちゃんと理論で裏付けされているということを人に語れ」とも言われていた。そう言われ続けても、私はそれほど人に知ってもらう努力をしてこなかったと思う。つくづく頑固である。


だが、今は、説明を求められれば、今自分がしていることはこういうことだ、こういう考えだ、と説明できるように言葉は用意している。
理論的な言葉だって相当用意している。用意しているだけだが、とにかく言葉は私の心の中にどっさりある。
でも、私のこれまでのような感覚的なところで自由に動く部分をなくしたくないから、あえて言葉で考え過ぎず、自分の感情や考えを説明しすぎないように意図的にしている部分もあったりする。これは私の「THE ひねくれ」の部分とも言えるかもしれない。
何の話や。
何の話かと言うと、私がフォローしている嶋津さんが365日連続note更新を達成された、というのをnoteで読んだという話です。突然の舵切りに戸惑わないでほしい。嶋津さんが、こう書いておられた。

noteの毎日投稿をはじめて、今日で丸一年を迎えました。

コロナの世界になって、とりあえず何でもいいから「一歩でも前進している」という感覚がほしくてはじめたように思います。だから、この一年間に書き続けた文章は、ある意味、ぼくの「COVID-19 diary」です。目に見えない小さなウィルスは、ぼくたちを家の中に閉じ込めました。負けじと、ぼくたちは目に見えない電波を通じてコミュニケーションを密にさせました。この場所で書いたり、読んだり、オンラインCafeBarDonnaで対話をしたり、絶望の中にある微かな光を拾い集めて〝目に見えない〟絆を結びました。

それぞれの一日は飾り気のない、ささやかな揺らぎかもしれません。ただ、その積み重ねには、確かな意味のある一年でした。人の弱さを知り、強さを知った。対話の大切さ、実感の歓び、こころの交流、ことばのギフト、人間の可能性をより深く学んだ。かけがえのない一年でした。

もったいないから全部読んでください。こちら。

なんか、ぐっときた。
同じような感覚で始めた「毎日noteを書く」ということなのだけど、それから嶋津さんが何を感じ、どう行動し、何を得たかをちゃんと説明されていた。日々のnoteでも、例えば「文章を書くために最も有効な手は、(中略)その人の考えに触れ、美意識に触れ、哲学に触れる」だったり、「たくさん書くことは言葉を自在に操れる技術を習得すること」だったり、ノンバーバルな対話のことを書かれていたり、ダイアログデザイナーという肩書きにもぐっときちゃうのである。嶋津さんの言葉から感じ取られるのってまさに美意識だなあと思うし、私も、部屋は散らかっているとしても実は生きる上で自分の中の美意識をとても大事にしている。
嶋津さんのnoteを読んでいると、文章を書くことや人と対話することに対して、自分の考えや思いを、読む人に分かってもらえるように言葉を尽くして説明をされている誠実さをまっすぐに感じる。そんな文章だなあと思う。
こういう言葉を放てよ、と先輩は私に言っていたのだろうなと、今振り返って思う。できなくてごめん先輩。


嶋津さんの言葉は、心にぶっ刺さる。正直、時々まぶしすぎる時がある。人間関係をミニマムにしていこうとしている私の前に、デデーンと太陽のごとく現れて対話の大切さを説く。ああ…対話…、シューーーンッと小さくなりかけることがある。私はこんなにもヤサグレていてダークサイドだから。そのくせ卑屈になる様子がこれっぽっちもないというこの私の開き直り具合。そんな私の闇すら包み込んでくれるような温かさをくれるのが嶋津さんの言葉だ。ありがとうございます。

だけど。
私には私の言葉がある。
私も毎日noteを書くことで自在に軽やかに言葉を飄々と操り、決めつけたりヤサグレたりほろ苦かったりバカバカしかったり曲者感を時々出しながらも、これは私の言葉だ!とはっきりそう言えるnoteを綴っている。
こんなにも毎日自分以外の多数の人が自分の書く言葉を読んでくれることはなかったので、「読み手を意識してない」と書きながらもわざわざそう書くということはちょっとは意識してるやんけ!なTHE ひねくれをしながらも、毎日、自分の外に向けて言葉を放った。
私が感覚だけで動いている部分も、きちんと自分の言葉で説明できるようになってきていると思う。
そして、いろんな言葉を綴る人にnoteで出会えてもっと文章を書くことが好きになったのは確か。
どうしよう、365日達成までまだあと2週間くらい残っているのに、嶋津さんのnoteを読んだせいで、こんな総括的なことを書いてしまった。
365日達成時は特に書くことがなくなってそうである。ピンチだ。そんな時は、大好きなお肉の話でも書くとして。

それと、嶋津さんが私のことを「品がある」と言ってくれたこと。

これはしつこいくらい周囲に自慢をしていこうと思うし、「私の好きなユーモアは裏拍子でリズムをとるようなイメージだから!」と胸を張って言っていきたい。まさにそういうことだからねと。
1000文字の手紙のお返事が遅れましたが、「のりまきさんってそういう人なんだと思います」という嶋津さんのお言葉に対して、「ズバリ大正解!」ということをこの場を持ってお伝えしたいと思います。(品性に関してはいささか疑問が残るけども)
そして、そういう風に「そうそう!そういうことなのよ!」と相手に思わせる説明ができる言葉を持つ嶋津さんのような人間に憧れます。そうなるためにはやっぱり対話なのでしょうね。
文章を書くことも自分との対話なので、私ももう少し続けたいと思います。

何はともあれ、嶋津さん、365日達成おめでとうございます!
これからも素敵な言葉を届けてください。

P.S.今は私の家にはボルンバがいるので、部屋の床はとても片付いています。


写真は優しい色に染まった雨上がりのガンジス川の朝日。

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