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大担推理「邪馬台国」

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魏志倭人伝を単純比較思考で読み説いていきます。忘れられがちな、学術的根拠の薄い単純な発想を比較、検討する事で邪馬台国時代の謎を解き明かしていきたいと思います。
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大胆推理「邪馬台国」

大胆推理「邪馬台国」

❍みなさま、初めましてのりくろーと申します。今回、私は素人でありながら、魏志倭人伝に興味を持ってしまいました。

そして、いろいろと自分なりに考えた結果、学者の方々では思いもつかないであろう発想が、どんどん浮かんできました。

もちろん、学者の方々の様に、さまざまな書物にあたって研究したわけではありません。ごくわずかな本を読んだにすぎません。ほとんどフィクションに近いとも思われます。

素人として

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1、基本的前提

1、基本的前提

❍学術的思考を廃除した超単純理論単純比較思考で読み説く魏志倭人伝。もうすでに何百年も議論されている問題です。あらゆる学術的思考は試されているはずです。逆に、単純に考えてみました。

私の中途半端な知識は廃除して、なるべく単純にどちらの可能性が高いのかを比較して、消極的選択を求めています。その中でも基礎となるものを選んで紹介したいと思います。

❍標準里を使う多くの方が短里を用いて考えますが、当時、

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2、魏志倭人伝の記述は「魏の使節団がとった進路」とは関係がなかった

2、魏志倭人伝の記述は「魏の使節団がとった進路」とは関係がなかった

❍魏志倭人伝を素直に読むと邪馬台国は九州のはるか南の海上に存在したことになってしまう

邪馬台国の話題になると、一番最初に、必ず言われる事です。つまり、当時、実際に使われていた里数を使って方位と距離を、記述通りの順番に辿っていくと明らかに現代の地理とは合わないのです。

❍なぜ、記述を順番通りに辿るのかこの様な疑問を持つ人は非常に少ないです。誰も彼もが必ず順番通りに辿っていき、結局、同じ様な問題に

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3、魏志倭人伝の記述は「魏の使節団の中にいた官僚による証言や記録」をまとめたものではなかった

3、魏志倭人伝の記述は「魏の使節団の中にいた官僚による証言や記録」をまとめたものではなかった

❍今回の考え方では今回の考え方では

魏志倭人伝に記載されている方位や距離に関して、魏の使節団の進路とは関係がないと考えています。

なぜならば

魏志倭人伝に記載されている方位や距離は、魏の使節団の官僚による証言、または記録を参考としたものではないと考えているからです。

ひとつの試しとして、この様に考えています。

当然、それでは陳寿は何を参考にしたのかとなります。

❍張政を中心とした魏の使

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4、邪馬台国が九州のはるか南の海上に存在したとならない考え方

4、邪馬台国が九州のはるか南の海上に存在したとならない考え方

❍魏の使節団の見た風景から離れてこれまでの考え方では

魏の使節団が邪馬台国まで実際に辿りついた。そして、
その時に魏の使節団と、行動を共にした官僚による証言、または記録を陳寿は入手した。それを基にして、陳寿が魏志倭人伝にその時の進路を記述した

と考えられてきました。

つまり、結果として、魏志倭人伝の記述は帯方郡から邪馬台国までの行き方になります。記述の順番に辿っていけば邪馬台国の場所が、どこ

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5、里数問題の鍵は船上にあり

5、里数問題の鍵は船上にあり

❍陸上での距離計測は標準里を用いて正確だった前回までで、仮に今回の考え方を採用すると、陸行で辿りつく3ヵ国については、標準里で考えても魏志倭人伝の記述通りに、配置できる事がわかってきました。

その他に里数と方位が書かれている国々があります。それらの国々を見ていきましょう。

❍一海を越える国々狗邪韓国から松盧国までは船による移動になります。これらの国々にはそれぞれ方位と距離が記載されています。

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6、倭国内の各国はどこになるのか

6、倭国内の各国はどこになるのか

今回はある形式にのっとって進められてきました。つまり、なぞかけ形式です。

魏志倭人伝
と説きまして

魏志倭人伝の記述が
「邪馬台国への行き方」ではなく「倭国内の各国への行き方」だったと考えます。

その心は・・・

となります。ここで、みなさん、独自の考えを導き出すと思います。

つまり、もしこのように考えるとしたらどうなるのか。ひとつの試みとしての考え方です。正解ではありません。みなさん一人

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7、伊都国がこんなところでいいの?

7、伊都国がこんなところでいいの?

❍伊都国の場所前回、倭国内の各国の存在した場所を導き出しました。この中で多くの人が納得できないのが、伊都国の場所だと思います。ここで、伊都国の場所を人吉盆地のあたりにあったとすることは可能なのか、検証していきたいと思います。

❍伊都国の機能魏志倭人伝には、伊都国について次の様な3つの機能があると書かれています。

1、世有王皆統属女王国郡使往来常駐所

伊都国は、代々王がおり、女王国に従いました

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8、奴国って実はすごい国?

8、奴国って実はすごい国?

❍倭国の中で最初に中国との交易を行った国今回の考え方では、奴国の中心地は吉野ヶ里遺跡だったと考えています。それでは、奴国はどのような国だったのでしょうか。

奴国に関して、後漢書東夷伝(432年)の中に、次の様な記述があります。

建武中元ニ年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬

「建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と自称する、倭国の極南の界にあり

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9、金印を授かりし2大国の攻防

❍古代九州島の変遷ストーリー警告!!
この物語はちょっとだけ事実を基にしたフィクション(空想物語)です。

一万年以上も続く縄文文化から、弥生文化へといち早く足を踏み入れた北部九州。なかでも、その中心となったのは奴国であった。

その奴国は、日本の歴史上初めて海外の資料に登場し、漢という大国から金印を授かりました。

一方、いまだ縄文文化が残る南部九州は、そのような北部九州に対して対立する事はなく

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10、倭国と奴国、名前に隠された意味あい

10、倭国と奴国、名前に隠された意味あい

❍またしてもこれまで、魏志倭人伝の解釈において、通説とは異なり、学術的には非常識とも思われるような事を書いてきました。またしても、そのような事が思い浮かんだので書いてみたいと思います。

❍一般的な事実北部九州は地理的にも、考古学的な発見においても、弥生文化が最も早く、最も栄えた地域であることがわかっています。

弥生文化は中国大陸の影響により発達した文化です。北部九州が日本で、最も大陸に近く、通

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11、縄文人の視点から

11、縄文人の視点から

❍縄文人が考えた“ワ”地域縄文人は国という概念を持っていなかったと考えています。ですので、"倭国"とは呼ばず"ワ"地域と呼びたいと思います。

前回、倭国と奴国の関係について考えてみました。簡単に説明しますと、縄文人と弥生人との関係から始まったのではないかと考えました。

つまり、縄文人は、北部九州に弥生人が入り込み生活を始めた時に、他の民族との接触によって、自らの民族を「ワ」と呼ぶ必要性が生じま

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12、その他に通説とは違った発想

12、その他に通説とは違った発想

❍その他の通説と異った考え方をいくつか紹介したいと思います

通説

「倭国」の倭という漢字は「矮小」の矮という字に似ており
「チビ」という馬鹿にした意味がこめられている

いろいろな本やネットを見てみると、おおむね「倭」という漢字には軽蔑の意味が込められていると考えている人が多いようです。

しかし、以前中国の掲示板を翻訳するサイトを見た時でした。日本のかつての名称である「倭国」について議論をし

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