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3、魏志倭人伝の記述は「魏の使節団の中にいた官僚による証言や記録」をまとめたものではなかった

❍今回の考え方では

今回の考え方では

魏志倭人伝に記載されている方位や距離に関して、魏の使節団の進路とは関係がないと考えています。

なぜならば

魏志倭人伝に記載されている方位や距離は、魏の使節団の官僚による証言、または記録を参考としたものではないと考えているからです。

ひとつの試しとして、この様に考えています。

当然、それでは陳寿は何を参考にしたのかとなります。

❍張政を中心とした魏の使節団が派遣される前に

魏から女王国(邪馬台国)へ、使節団が派遣される。これは、魏と倭、両国にとって一大イベントです。あらゆる危険を廃除したいと考えたはずです。

国同士の外交では、極端な場合、外交文書を携さえた外交官を、殺害してしまったといった事例もあります。魏から派遣された使節団が、邪馬台国の敵国に襲撃を受けてしまった。なんて事も考えられます。

当然、事前に倭国の国情や地理、軍事に関して知っておく必要があります。つまり、張政を中心とした魏の使節団が派遣される前に、調査団が派遣されていたと考えます。

❍事前に倭国へ派遣された調査団の使命

彼らは、身分はそれ程高くないとしても、他国の調査に関する経験豊富な専門家だったのではないでしょうか。彼らはそれぞれ専門の役職に着いており、それぞれの分野に対して自負心があります。

当然、納得がいくまである程度の長期間、調査したと考えられます。倭人のサポートを得ながら、倭国内をくまなく調査したと考えられます。

事前の調査なので、この時、魏の使節団はまだ魏の国内にいます。つまり、専門の調査団の行動は、魏の使節団の進路とは一切関係がなくなります

そして、魏の不安を取り除くには、調査結果も大事ですが何よりも、彼ら調査団がある程度の長い期間を経ても、危険な目に会う事なく生きて無事に帰れる事が重要になります。

それらを確認できてからこそ、重要な使節団を送る事ができたのではないでしょうか。

❍専門の調査団と魏の使節団の違い

魏の使節団は、当然、それこそトップレベルの身分だと思われます。輿にかつがれて移動したとも考えられます。汚ない所を通らせるわけにはいきません。

一方、専門の調査団は、調査のためならむしろ、歩く事を選択すると考えられます。多少の汚れも気にしないと思われます。

松盧国を紹介している箇所に興味深い記述があります。

草木茂盛行不見前人

草木が茂っているので前を行く人が見えません

魏の使節団に、この様な道を行かせるでしょうか。輿に乗っているから関係ない?いやむしろ...。ま、でも身分の低い専門の調査団でもこの様な道を通ら...。

この一事をもってどちらとも言えないかもしれません。しかし、この様な記述をイメージ的に考えると、高貴な方による記述のイメージではないような気もしてきます。

❍魏の使節団の目的

魏の使節団の目的は、当然、邪馬台国の女王、卑弥呼との外交です。つまり、本来、倭国を調査する任務はありません。たとえ、調査したとしても簡単な調査になると思われます。片手間の調査です。

専門の調査団より外交の使節団の方が、知的レベルが高かったとしても、労働を厭わない専門の調査団の結果の方が的確なはずです。本気を出せばわかりませんが。

もちろん、魏の使節団も初めての国に行ったわけです。さまざまな事に興味を持つはずです。風習や風俗については、陳寿が参考にした可能性は十分にあります。

❍決論、今回の考えではこう考えます。

以上の事を総合的に考えると、陳寿は特に倭国の地理に関しては、より詳細な専門家による調査を中心に、参考としたのではないでしょうか。今回の考え方ではこの様に考えていきたいと思います。

❍魏の使節団は邪馬台国へ行ったのか

よく言われる事柄です。魏の使節団は、卑弥呼との外交の為に派遣されました。普通に考えれば、実際に邪馬台国で卑弥呼に会ったと考えます。

しかし、不自然な事に魏志倭人伝の記述では、邪馬台国、投馬国では里数で表記されず、日数で表記されます。他国の記述に較べて距離に関しては、急にあいまいになってしまいます。この2国以外では、必ず里数で書かれています。

この事をもって魏の使節団は実際には邪馬台国へ辿り着いていないとする考え方があります。

❍実際に邪馬台国へ行けなかったのは

今回の考え方でいくと、むしろ邪馬台国と投馬国へ行けなかったのは、専門の調査団という事になります。今回の考え方では、より詳細な調査を行えたのは、専門の調査団と考えています。

つまり、魏志倭人伝の距離表記に関して、里数で表記されている箇所は、専門家による調査結果であり、日数で表記されている邪馬台国、投馬国は調査以外の目的で、実際に邪馬台国まで辿りついた方の証言や記録によるものと考える事ができます。

それ以上の調査はやめてくれと言われたのか、または、専門の調査団がその2ヵ国は、安全と判断して行かなかったとか理由はわかりません。

つまり、邪馬台国と投馬国に関しては専門の調査団は、行く事が出来なかったので記録を残せなかった。よって、陳寿は専門家以外の記録を記述するしかなかった。と今回の考え方では考えます。

❍最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。

もちろん、この様な考え方は一つの可能性にすぎません。次回からもこの様な、誰も考えないであろう発想を紹介していきたいと思います。ぜひ、読んでいってください。

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