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Waltz For Debby⑧

残されたのは…彼女のレコードとグランドピアノ。
写真の中のデボラは笑っている。でもあの快活な笑い声はもう聴こえない。
それでもジョンは生きている。生かされている。
彼は毎日、あてもなく自らの店に立っている。彼らの子供が手がかからなくなったのをきっかけに、数年前にレコード店を開業した。デボラの新作や彼の趣味であるジャズメインのレコードをそろえて、気ままに営業していた。ここにアップライトピアノをおいて、地元の子供たちにピアノを教える拠点にもしていた。しかしそれもデボラが亡くなってからは、苦しくて辞めてしまった。
抜け殻なのに、生かされているのはなぜだろう。
ジョンは毎日そう思いながら生きている。
心の中に空いた穴がどうにも埋まらない。
悲しい、さみしい、そして…愛おしすぎる…
まるでルーティンのようにジョンは店に立つ。その顔には生気がない。それでも彼は立ち続ける。それしかできないから。
デボラが亡くなって1年後…彼の店に一人、客が来た。
「いらっしゃ…」
酷く痩せて、薄汚い丈の合っていない服を着て、穴のあいた靴を履いた男の子が大きなギターケースを抱えてそこに立っていた。
おずおずと、ジョンの様子をうかがうような、叱らないでと懇願するような目をしていた。
捨てられた子犬が、いい子にするから、捨てないでと言うかのように。
それは今のジョンに重なった。
―俺もきっとこの子のような顔をしているのだ…いい子にするから、いかないでと…デビーの亡骸に懇願している…―
無表情になれなかった。この子は自分だと思うと、突き放すのはあまりにも辛すぎた…
だから、ジョンは思いがけなく笑って見せた。デボラが亡くなってほとんど笑うことのなかったジョンだったが、この時ばかりは微笑みかけたのだ。
「ぼうや。どうしたんだい?」
「あの…ジャズのレコードを聴かせてください!」
勇気を振り絞ったかのような男の子の引き締まった顔がある。
デボラに初めて会った時の彼女のセリフを思い出す。
―私を弟子にしてください!―
彼女には、それだけしか見えなかったのだ…だからまっすぐにジョンに飛び込んだ。
ジョンは気が付けば頷いていた。ギタージャズということで、ウェス・モンゴメリーをかけた。そのことに男の子の顔が一気にキラキラと輝いた。彼は一心に手にしたアコースティックギターでレコードをコピーしようと奏で始める。幼いながらもなかなかの腕を見せる彼をジョンはしばしじっと見つめる。
ピアノの脇に立ちデボラのピアノを聴き、アドバイスしていたころが古い映写機から映し出されるかのようだった。
―デビー。君はあちこちにいるんだね…―
ジョンは思わず涙ぐんだ。
その涙を隠すかのように、いったん店の奥に引っ込んだジョンに、満面の笑みのデボラの写真が目に入った。
―そうか、君は俺のやろうとしてることがわかるんだな…―
ジョンは自然に旧知のジャズギタリスト、ノエル・キーツに電話していた。
そして、また店に戻る。
ジョンはカウンターに座る。
彼らの息子たちは音楽を志すことなく、巣立っていった。子供たちの人生だ。仕方のないことだとわかってはいるが一抹のさみしさはどこかにあった。
大きなギターを弾き続ける小さな男の子はどこの誰とも知らない子だ。客が来ても全くわからないほどの集中ぶりが他人には思えなかった。
再び、ジョンはひっそり笑った。少し自嘲気味に。
デビー、君のいない世界など何の未練もないはずだった。
だけど、もう少し、生きてみようと思う。
もう少し時間をくれないか。
君が好きだった俺のピアノ、いつか弾けるように生きてみるから。
ジョンはギターの音に耳を傾けながら、デボラに胸の内で囁いた。


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