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短編小説 長い夜最終章

病院の夜間入口の警備室に声をかけ、3人は病室に向かった
聡は祖父の時も祖母の時も臨終に立ち会うことは出来なかった。

病院の入り口を抜けてエレベタ―に乗り込みながら、
そんなことを思い出している自分が、不謹慎に思えた。

母はまだ生きているのだ。自分はやはり冷たい人間なのだろう。
人の死に際して、まだ一度も涙を流したことがない。
泣くという感情が、どういうものか分からないのだ。

茜に言わせれば、
人間の感情の中でいちばん大事なものが欠落しているらしい。

茜の分析が当たっているかどうかは別にして、
確かに聡の中には6年生の夏休み以来
泣いたところで、自分の前にある現実を
少しも変えることはできないのだということはだけは分っていた。
泣く暇あるのならが、体を動かしている方がましだと思った。

エレベタ―は直ぐに、母の病室のある4階産婦人科病棟に着いた。
東は産科・西は婦人科に分かれていた。
エレベタ―の前の椅子に人影がある。
どうやら今夜はお産があるようだ。
真ん前の分娩室のランプが赤く光っている。
ひとつの命がこの世に熟まれ、別の命は消えようとしている。

産まれてくる赤ん坊の家族は気もそぞろで、
ひそひそと話をしながら待っている。

聡と茜と晃は、彼らに気を使いながら、無言で婦人科病棟に向かう。
ナースステーションで名前を告げると、部屋に案内された。
看護師さんがドアをノックして、自分たちが来たことを告げた。
開かれた扉の向こうには、
先ほど正岡順平と名乗った男とその妻。
そしてもう一人。彼らより少し若い女性がいた。
着いてきた看護師が脈を計り、酸素の量を確かめてその場を去った。

みな、お互い小声で自己紹介をした。
弘美の名乗った若い女性は、11歳年下の妹だった。
あの夏、母の背中に負われ、眠っていた赤ん坊だ。

順平の妻が、母親の耳元で
浅井の聡さんと晃さんが来てくれましたよと声をかける。
母は分っているのかどうか、大きな息を漏らした。
もう顔を動かす力は残っていないようだ。
弟の妻はそう言い終わると、
初めて会う義理の兄弟に母の枕もとを譲った。

聡と晃は
ベッドの上で、時折思い出したように息を漏らす母の小さな顔を覗き込み
どうしたものかと、ただ突っ立っていた。
すると茜は迷うことなくその場に座り込み、
母の手を取り、耳元に口を近づけ
小さい声だが、おかあさんありがとうございましたと言った。
順平と彼の妻の嗚咽が、背中から聞こえた。

まず晃が手を出した。弟の手に少しずつ力が入るのが分かる。
母さんと小さく呼びかける。その晃の瞳から涙が一筋流れた。
その後、聡ももう一方の手を触ってみた。
骨と皮だけになった、しわくちゃでカサカサのした手だった。
それでも両の手で包み込むと、母の指もそれに応えるように
少しだけ動いた気がした。

順平が、母の病気の説明をした
最初に癌が見つかったのは3年前。
最初は子宮がんの診断だった。
悪い部分は切除して、化学療法も行い一時は家に帰れたそうだ。

1前前に今度は卵巣への転移が診られ、
それも摘出手術を受けて治療を続けていたが、
ほどなく膵臓へも転移し、
本人がもう手術も化学療法も嫌だというので、
新たな治療はせず、痛みを和らげる緩和治療を半年続けていた。

それが、昨夜から血圧が下がり、呼吸も浅く、
意識も混濁し始めたということだった。

母が父親の違う兄弟の存在を彼らに告げたのは、
彼らの父親が亡くなり、遺産の相続をした時だったそうだ。
母は、以前の嫁ぎ先で、二人子どもを産んでいることを話し、
配偶者相続を放棄したそうだ。

その時、タンスの奥からへその緒の入った箱を2個取り出し
2人の子と別れなければならなかった経緯を簡単に説明した。
最後に、そういう兄たちのいることを覚えていて欲しいと
順平と弘美に頭を下げたそうだ。

以降、そのことに一度も触れなかったので、
今夜の電話は自分と弘美が相談して決めたことだという。
もう少し前に決断できていれば、話すこともできたのに
すみませんでしたと順平は頭を下げた。
でも、来てくれて本当に良かったと、その眼には涙があった。

いつの間にか、日付けが変わったようだ。
弘美が皆に熱いコーヒーを注いでくれた。
その後、ぽつぽつと。誰かがその場を取り繕うように口を開く。
順平の妻と茜は他人だからと窓際の椅子に座り、何かを小声で話している。

明け方、母は静かにこと切れた。
顔も覚えていない母の最期に立ち会った。
みな静かに涙した。それは自然に溢れ出るものなのだろう。
聡の胸の中にも確かに今まで感じたことない熱いものがこみ上げた。
それでもなぜか、聡の瞳から涙が流れることはなかった。

                        了

見出し絵はみもざさんのイラストです
最後までありがとうございました

ながながとお付き合いいただきありがとうございました
走り続けた3か月半
100連続投稿も達成できました
これも読んでくださる皆様のおかげと感謝しております
重ねてお礼申し上げます



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