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「こうしたらいいのに」コメントをちょっと言いたくなる理由の考察

今日も今日とて月末最終日。あと1時間半でこの記事を書く。

このnoteアカウントで、毎月記事を書き始めて5年近く。ネタ切れに苦しみ、出がらしのようになっても結局、毎月の執筆はやめられないでいる。というのも、小さいことでも言語化は続けていかないといけないと思っているから。
ただし「ノウハウ」っぽい記事までに仕立てるには企画を考える頭も、余裕も、時間も足りない。その時がいつか来るのを待ちながら、小さい言語化をなんとか続けている。

今回は、投稿などにつくコメントで「こうしたらいいのに」みたいな周りの声が、増えたかもしれない理由について考えてみる。


有名人の投稿に寄せられる「なぜそうしなかったのか」

これに気づいたのは、とあるSNSアカウントにて、「行った対応により悪い結果に出て、そのフォローアップに動いてなんとかことなきを得た」ことが投稿されていたのがきっかけ。
有名人のアカウントであることで、コメントの量も数千件と多かった。

普段、私はSNSでコメントもしないし、他の人からのコメントもほとんど見ない。
このアカウントの投稿に書かれた内容の最適解、すなわち「最初に行ったことは悪かったのか」「フォローアップでやったことは適切だったのか」を語れる立場にもない(専門知識も必要な内容だったが、私はその専門性を持ち合わせていない)。

ただ、コメントには「大変でしたね」「とったフォローアップは最善だったと思います」といった声もありながら、
「最初の対応は専門知識に基づくと違ったと思います、なんでそうしたんですか」とか、「有名人なんだから閲覧者のことを考えて気を遣って行動してください」みたいなものまであった。

投稿に寄せられた、起こったことに対する様々なコメントを見ていて、この事象が起こらなければより良かっただろうとも思いつつ、この有名人の方にもいろいろ事情はあっただろうに…と思いを馳せた。


インターネット・多様性・部分情報

どうして、こういう外からのコメントがあるんだろうと思いながら読んでいて、いくつか気づいたことがある。

そもそも、インターネットというチャネルの影響はかなり大きいような気がしている。

どの人も、インターネットを通じて発言できるようになったこと。
どの地域にいても、1箇所に発言が集約されて見えるようになってしまった。リアルしかなかった時は、遠くの人の意見は聞こえなかったのに。しかも小さいつぶやきから、主張の気持ちを伝えたいものまで、ほぼ同じ温度感として伝わるようになった。

皆の発言がネットに可視化されてしまったこと。
これにより、「私もそう思うな」という気持ちを喚起させるようになった。ネガティブなコメントが集まりやすいのは、これが原因の一つにも思えている。
(他の人も書いているから、言いづらさが減って書いちゃおうと言う気持ちになるのではと予想している)

部分的な情報なのに、「まるで全てかのように」得られるようになってしまったこと。
SNSなどでの積極的な投稿は、その人がどのような人なのかを理解するのに十分な情報量がある。
ただ、それをもってしても本当はその人の全てではない、当たり前だが全てなわけがない。けど、それなりの投稿量があることにより「まるでその人の全てであるかのように」見えることとなる。

みんな見ている範囲が違うこと。
コンテンツの種類の大幅増加、パーソナライズがされた情報を見るサービスの発展、「多様性を受容」することが当然の価値観に。
良い世の中ではあるが、こんなにみんな違うものを見ているのに、「みんなそれぞれ違う」ことに気づきにくくもなった気がする。


「情報の抜け漏れがあっても、その中で一貫性があるのなら範囲内で論を作ることができ、確からしいロジックが導かれてしまう」。
背景にある情報の量によっては、結論やロジックが変わる可能性があるということ。
かなり端折って書いたが、通称「ふろむだ本」に詳しく書いてある。


※この本を読んだ時の気づきも当時書いていた(本に書かれていた別の論を取り上げている)


部分的な情報による判断の可能性

要するに、部分的な情報でできあがったそれっぽいロジックでしかなく、その有名人の人の他状況も踏まえるといろいろ事情はありえるのだが
全てを知っているような感覚を持ってその情報の範囲内で判断するので、「こうした方が良かったのに」が起こるのでは、と思った。

また、ここ以降はおまけだが、書いた文章に言葉が足りないかもしれないことも原因のひとつにはありそうに感じる。書いた本人はそのつもりはなくても、違う伝わり方をしてしまうような。勢いで書いてしまうとなおさら。
私も日々、仕事で近い経験をしている。

人の顔を見ずに(ディスプレイを通じて)書くという所作にて、必要以上に感情を乗せてしまっているパターンもありそう。


自分のことをどの期待値で見てくださっているのか、というのはコメントの属性も左右していく。
有名人だったから、色々な人が知っていて、投稿を見ている方の多様性がより高くて、書く時の気持ちも様々だっただけのかもしれない。

一方で、今回のような「なぜそうしなかったのか」コメントを煩わしく見てしまうと、自分の方が感覚が変だった、なども十分あり得る。
自分だけが変で、世の中から取り残されているかもしれず、そうかもと頭をよぎることはよくある。広報活動にあたって自分の常識を、現在地をいつも確認している。

このデジタルの世界でも「コメントを書いているのはあくまで人だな」「みんな同じことを感じているのだな」と感じることもかなりある。
世の中の常識や温度感が比較的そろっているのと、島国ならではの文化の強さや同調圧力などもあるせいかもしれないが。

どちらにしてもSNSなどはコミュニケーションツールでしかない。
広報活動により知っていただくことができ、可能性が広がり、コミュニケーションで生み出されるものは多数ある以上、ツールとうまく付き合うしかない。
今回のようなメカニズムも考えつつ、自分の所作や常識を振り返りつつ、広報活動にあたっていきたい。


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