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中川啓太:なりたいものはない、ありたい自分はある。そんな彼が手がける「パリが恋した」野菜のお寿司

本を起点に京都に暮らす人にその人生を語ってもらう「キョウノホン」。
第二回目のゲストは35歳の中川啓太さんです。

 上京区に住んでいる中川啓太さんは、中性的でつるりとした顔立ちをしており、腰まで伸ばした髪の毛と暖色が中心のアクセサリーも相まって若々しい印象を受ける。話してみると、物腰は柔らかく、外見とは裏腹に老成した雰囲気を醸す。
 一見して職業、性別、年齢不詳に見える彼の肩書きを一言で説明するのはなかなか難しい。現在はwebデザインの仕事を中心にフリーランスとして活動をしているが、他方で占い師、ミュージシャン、落語家、写真家、シェフという顔も持つ。

 18歳まで北海道、札幌市でのびのびと育った中川さんの幼少期は「とにかく大人たちから可愛がられていた」という。35歳になった彼と話す中でも、人懐こい少年の片鱗が色濃く感じられる。高校生の頃は意外にも体育会系で、ラグビー部のキャプテンを務めていたそう。
 大学は愛知県立芸術大学の彫刻科に進学、卒業後は東京で数年を過ごす。東日本大震災をきっかけに、東京を離れる決意をし、旅先の京都にそのまま居着いて今年で7年目になる。

 そんな彼にとって、代表作とも言えるのが、自身が所属する寿司アート集団「hoxai kitchen」が生み出した「VEGESUSHI(ベジ寿司)」だ。VEGESUSHIは野菜本来の彩りを活かし、ケーキのようなデコレーションが施された押し寿司。魚を使わないお寿司は、日本国内のみならず、ヴィーガンが多いヨーロッパからも注目されている。

 中川さんが選ぶ「キョウのホン」は、自身も著者の一人として名を連ねる『VEGESUSHI パリが恋した、野菜を使ったケーキのようなお寿司 (veggy Books)』。マルチな才能を活かし様々な分野に活動を広げる彼がなぜVEGESUSHIを作るに至ったのか?その経緯を探ると共に中川さんの生き方について伺った。

目次
・のびのびとありたい自分であるために行動する
・そこにないはずのものを提供することで価値を生む
・トントン拍子で住むことになった京都、すべての縁はここで繋がった
・ヨーロッパでも受け入れられるお寿司を。重ねた試行錯誤
・パリで暮らした4ヶ月、実感した京都の求心力

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のびのびとありたい自分であるために行動する

 物覚えもよく、大人との間の取り方もうまい子供でした。小中学校の頃は何もしなくても成績が良かった覚えがあります。けれど、高校に入るとガーンと成績は落ちて、部活のラグビーに打ち込むことにしました。
 高校三年生の時には、センバツのメンバーに選ばれたこともあったのですが、「監督が怖いし、めんどくさい」という理由で辞退しました。昔から「のびのびできないと頑張れない」という自覚があったんです(笑)
 大学は、自分の性格や好きなものを考慮しつつ消去法で考えていたら美大しか思いつかなかった。ずっとラグビー一辺倒だったんですが、高三の秋に頭を切り替え、一浪して愛知県立芸術大学の彫刻科に合格しました。

--彫刻はずっとやられていたんですか?

 いや、全然やっていなかったですね。実は僕、絵がめちゃくちゃヘタで。でも、美大に行きたかったし、彫刻は面白そうだと思ったので、受験を機にはじめました。
 昔から、僕にはやりたいこと、というのが特にないんです。自分はこうなるんだろうな、こうありたいなというイメージが先行してあって、そこを目指して行動をしていますね。

そこにないはずのものを提供することで価値を生む

 美大に行った後は、彫刻はほとんどやらず、写真を撮っていました。あとは、バイト先のカフェで働いたりしていましたね。
 学生生活の中で記憶に残っているのは学園祭である芸祭で天ぷら売ったこと。
 友人が家に遊びに来た時に天ぷらを振舞ったら褒められて。それがきっかけで天ぷらを売ってみたらすごくウケたんです。好評だったので3年連続で出品しました。芸祭に来ていた奈良美智さんや大学の学長まで食べに来たのは驚きましたね。
 人気の秘訣は、「芸祭で天ぷらが食べれる」という意外性にあったんじゃないかな。
 強く意識したことはないですが、そこになかったもの、ないはずのものを提供することで喜んでもらえる、という原体験は、VEGESUSHIに通じるところがあるかもしれません。

 大学卒業後は、上京して、カフェでバイトしたり、ゴールデン街でバーテンダーをしていたりと主に飲食関係の仕事をしていました。しかし、なんとなく東京にしっくりこないと感じはじめたタイミングで震災が起こって、東京から離れようと決意しました。

トントン拍子で住むことになった京都、すべての縁はここで繋がった

長いものに、というより面白いものに巻かれるがまま流れ流され漂着した体で暮らしてるわりには、よくやっているほうなんじゃないかと思っている。
hoxai kitchen『VEGESUSHI パリが恋した、野菜を使ったケーキのようなお寿司 』p27

 京都に来た理由は特にないんです(笑)仕事でたまたま訪れたことがきっかけ。京都で初対面の人に誘われて泊まった先が今、僕が住んでいるシェアハウス、お結び庵なんです。

 そして、お結び庵でたまたま出会ったのが、hoxai kitchenで一緒に仕事をしている壮玄(市角壮玄氏)。彼もその時、お結び庵に宿泊していたんです。
 居心地いい場所と面白そうな人がいて、自転車で市内を回ってみると街の雰囲気も悪くない。さらに、ふらっと入ったカフェで部屋探してるんですよね、って言ったらあっさり部屋も紹介してもらって、トントン拍子で京都に住むことになりました。
 思い返してみると、京都に来たのは結構運命的なものだったんじゃないかな。
 それからは、webデザインの仕事をしたり、占いを学んだり、カフェをやったり、といろんな経験を重ねました。

ヨーロッパでも受け入れられるお寿司を。重ねた試行錯誤

 3年ほど前、壮玄に「webの仕事を手伝ってくれ」と頼まれたことが転機になりました。彼とはお結び庵で出会って以来あっておらず、連絡を取ること自体が久しぶり。お互いの近況を話すうちに一緒にケータリング事業をやろうという話になったんです。

 VEGESUSHIのアイディアを出したのは壮玄です。ヨーロッパによくいっていた彼は、参加者がそれぞれ料理を持ち寄る欧州式のホームパーティで寿司を出しにくい、と感じていたそうなんです。
 ヨーロッパでは、生魚を食べる習慣がある地域もありますが、生ものを食べる文化が一般的ではなく、さらにヴィーガンが多いので、魚自体を食べられないという人もいる。
 ホームパーティには異文化交流の側面もあるので、日本料理の代表格の寿司を出せない、ということが彼にとって悩みの種でした。
 ヨーロッパでも受け入れられる寿司、を考えた時、野菜で寿司を作ったらどうだろう、という発想につながった。

--野菜のお寿司を作るぞ、となっていきなり作れるものなんでしょうか?

ひとは、身体の中に取り入れるものを丁寧に考えることが、より良い表現に結びつくのではないか
hoxai kitchen『VEGESUSHI パリが恋した、野菜を使ったケーキのようなお寿司 』p28

 簡単ではなかったですね。僕自身がヴィーガンの食生活をしていたので、ヴェジタリアン料理についての知識はあったのですが、寿司、となるとなかなか難しくて。2016年5月には、身内のホームパーティでVEGESUSHIのプロトタイプとなる野菜の押し寿司を出したのですが、味はよくても見た目のクオリティーが伴わなかった。
 実際に台湾に出向かい、ヴェジタリアン料理である台湾素食を学んだり、いろんな押し型を試してみたりする中で、今の形に近づいていったんです。

 繰り返し試作品を作り、野菜ソムリエのJunもメンバーに加わることで、パリとベルリンでVEGESUSHIのケータリングが実現しました。
 実際にヨーロッパで作ってみると、野菜の種類も多く、彩度も高いので、味、見栄え共に日本で作る以上のクオリティーが出せました。パリジェンヌたちに「セボン(おいしい)!」で「トレビアン(最高)!」だと言われた時は嬉しかったですね。

パリで暮らした4ヶ月、実感した京都の求心力

京都とパリは似ている。
近所を散歩している時、Pont des Arts からシテ島を見ると既視感が半端なくあった。鴨川デルタだこれ。私は鴨川デルタが好きで、特に春夏になると、昼からビールを飲んで適当にその辺で昼寝をするというゴミのような生活をするのが好きだった。
hoxai kitchen『VEGESUSHI パリが恋した、野菜を使ったケーキのようなお寿司 』p29

↑初夏、筆者が娘と共に鴨川で散歩をしていると、
河原にはビールを飲む中川さんの姿が。有言実行です。

 VEGESUSHIがきっかけとなってパリで知り合ったマダムの紹介で、4ヶ月間パリに住み、現地のレストランで働きました。この時、様々な縁が繋がって、パリで人気を博したレストラン「Restaurant Sola Paris」の吉武広樹シェフと一緒に仕事ができたことは本当にいい経験になりました。

 パリの街はどこか京都に似ていました。街並み、人、文化、どこをとっても既視感があって暮らしやすかったですね。
 けれど京都に戻ってきた。最近も北京で料理人をしないか、という依頼を受けて北京に行ったのですが、やっぱり京都に帰ってきてしまいました。
 京都の求心力が僕を離さないのかな?(笑)

○○○

 啓太さんと初めて会ったのは5年ほど前、左京区のバーだった。学生ばかりが集まるバーで、みんなと仲良さそうに話している謎のロン毛、として彼はそこにいた。
 それから、時に出町柳の居酒屋で、時に木屋町の酒場で、彼を見かけた。どこにいても彼はみんなと仲が良さそうだった。その一方で一体どういう繋がりでそこにいるのか、親しげに話している人々とどういう関係なのか、皆目見当がつかなかった。
 気がつくと、私も彼と当たり前に話すようになっていた。けれどやっぱりその関係を形容することは難しかった。

 個人と強い繋がりを作る、というよりはその場にいる人となんとなく話して、繋がっていく、啓太さんの人間関係の作り方はコミュニティ作りに近いものがあった。私は普段、特定の誰かと強い繋がりを作って、その繋がりの紐をたぐって、なんとか新たな人間関係に繋げていく、というタイプの人間だからこそ、啓太さんを取り囲む円のようなコミュニティは不思議で魅力的だった。

 5年という歳月を経て、1時間半に渡るインタビューを行ってなお、啓太さんはみんなと仲良さそうな謎のロン毛で、私たちの関係は形容不可能なままで、それが心地よいのだ。

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