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手紙の重さ

金があってよかった。

ポケットから2万5千円が出てきた。
この作業着は僕が中学生の頃に、あいつから買った古着。
あいつも古着屋で買ったロングコートで、そこを含めると、もっと古い歴史があるロングコートになると想像する。重い。兎に角、重たい服だ。

僕は財布を持たない。理由はあるけど、とにかく財布は持たない。
カードは持たない。作らない。現金だけ。現金主義だ。

だから服のポケットから、思いもよらないお金が出てくる。
でも僕はお金を落としたり、失くしたりはしない。

週単位か月単位で支出を計算してみている。
だから今月も今の所、悪い誤差はない。

子供の頃や学生の頃は落とし物や無くし物、忘れ物は多かったけど。
今は違う。

逆に思いもよらない(計算より)多いお金が残ったり、出て来てくれると本当に嬉しいし、結果論にはなってしまうけど、今の僕のお金の周り(使い方、貯め方、稼ぎ増やし方)はそこまで大きく間違っていないと思う。

長時間風呂に入るのを止めようと思った。
朝夜、あるいは一日のどこかで僕は風呂に入る。
その浴槽の中で携帯で一日のスケジュールを把握したり、新しい情報や、仕事の管理をしている。
当然そこで、僕の好きなネット徘徊やネットの闇に沈んでいる。


風呂を出て、今月も良い流れで進んでいると思ったので、ガソリンを入れに行く。そして洗車をした。珍しく洗車機を使った。洗い終わるとタオルで吹くのが基本だと思うけど、僕はしなかった。タオルが置いていなかったからそのまま走って乾かすことにした。

大学生の頃、髪を洗って朝。誰かが迎えに来たので、そのまま髪を乾かすのを面倒くさがりタオルドライで生乾きのまま外に出ていた事を思い出した。
僕が原付なら、迎えに来た奴を後ろに乗せて、片道5分。
僕が先輩の単車の後ろに乗せてもらう時は、片道15分くらい。
風を感じながら、生乾き(半乾き)の気持ち良さを感じながら颯爽と。

あの頃の若気の至りや痛々しさや青々しさ。
髪が長かった頃。まだまだもっともっと髪が長かった頃。

派手な格好で、個性を異様を履き違えていた頃。
今でも僕らは鉄風鋭くなって。

今でも僕らは迷子の衝動徘徊中。


週刊誌のゴシップ記事に「家出少女、神待ちの現在 コロナ禍の闇」という記事が流れて来て、「ああ、今でもいるのか、この手の奴。出会い系か」と思いながら見て見る事にした。

実際は違うとも思う。 実態と実際、現実と虚像みたいなモノ。

人の見方の問題、多面性と個性は違うけれど、見え方、見方の話。

僕らも年を取ったとはいえ、まだまだ若い。
けれど、この風呂場の浴槽の中からの眺め。
きっと十年、二十年と過ぎ去った時にどんな事になっているのだろう。
きっと壁にはカビが生えていたりするのだろうか。
僕はちゃんと大人になって幸せになれているのだろうか。
この家は、その時どうなっているのだろうか。

僕は金持ちではない。力持ちでもない。けど、遊んでいるように見えるのだろう。実際(実体)と現実と、虚像と理想と虚構だ。虚無感だ。

何かを解ったような気になって。それでもそれでもと解ったような口をきいて。知ったかのような顔をして。
そんな風を吹かせてのぼせながら、耽っている。

一万円を簡単に使う人間は、一万円を貰う事に躊躇いも、ありがたみも、簡単に易々と安易に「ありがとうございます」の一言で飛び交う奴らを眺めながら。

僕がしている遊びも、そう対して変わらないのかもしれないなと思った。
だからって僕は何も言いたい訳でもない。自分が正しいとも誰かが間違っていると言いたい訳でもない。

ただ、同じ一万円や、一万円を当たり前に思い考えるようになると、5千円のありがたみや、価値や、その金の重みを分からなくなる。感覚が麻痺するのだ。

当たり前に5千円を貰い、一万円と比べると、自分の時給と比べて考えると、たかだか5千円、所詮は一万円と思うようになるのだと僕は想うよ。

君は僕から貰った、その5千円、一万円を何だと思う?

僕は後悔しないお金の使い方をしたい。そう想い考える。

人生や生き方を言っても過言ではない。

僕が生み、僕が使う金は、僕の中では生きたお金でありたい。


そういえば僕の今月は、仕事ばかりだ。
あまり音楽を聴いていない。

「半分空気 」

「半分空気?」

「透き通って 」

「透き通って、何?」

「教えない。」


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