歯の浮くようなセリフを噛みしめて
ある映画で、イタリア人の男が言う。
”I thank God for fear…”と。
直訳すれば、「恐怖をありがとう」だ。
男はこう続ける。
男が恐れているのは、彼の隣にいる女がいつか自分の元を去ってしまうかもしれないということ。そんな恐怖を抱くのは、彼にとっては初めてのことだった。
大切な人を失うのは、怖い。
怖いというのは、ネガティブな感情のように思えるけれど。
その怖さは、彼が本当に彼女を愛しているからこそ知りえた感情で。
だからこそ、彼はありがとうと述べているのだ。
この映画を初めて見たときは、いかにもイタリア男の言いそうな、甘ったるいセリフだと思った。イタリアは、街を歩いていれば、”Ciao, bella(やぁ、美しい人)”と話しかけてくれる国。
だけど、近頃、そんな甘いセリフが、身に沁みるようになった。
私は、先月末に夫ぺこりんの暮らす街に引っ越してきた。
昨年の5月に入籍したけれど、一緒に暮らしはじめてからまだ数週間。
今の暮らしが始まってから、醒めない夢を見ているような、不思議な感覚がつづいている。
ひたひたとしあわせが押し寄せてきて、一瞬一瞬を大事にしたくて、どうかこの時間が長く続きますようにと願う日々。
今なら、私も、”I thank God for fear”と口にできそうな気がする。
これまでも実家で家族からの愛を感じながら生活していたけれど、どこか満たされない部分があった。
実家は、私の家でもあるけれど、やはり父と母の家だったから。
大人になるにつれて、「住まわせてもらっている」という感覚が強くなっていくような気がした。
現在私は仕事をしていないから、養ってもらっていることに変わりないし、むしろ昨年は働いていたから、いまのほうが肩身の狭い立場かもしれない。
だけど、ここには私の居場所があると感じるのだ。
つい先日のこと。
スーパーで200円で売られていたデルフィニウムを、花器がなかったから焼き肉のタレの空き瓶に活けた。
仕事から帰ってきたぺこりんは、すぐ花に気づいてくれた。
ぺこりんは「かわいいお花だね」と言いながら、キラキラした目で花をじっと見ている。花よりも、花にすぐに気づくキミがかわいい。
ぺこりんは、毎日「お弁当、おいしかったよ!」と言って、ハグしてくれる。
ぺこりんの、にこにこの顔を見るのがうれしくて、朝が苦手な私も、お弁当を毎日つくっている。
平日は、朝は味噌汁と納豆ごはんが定番。そのぶん、夕ごはんは、少し手間をかける。
休みの日には、ぺこりんが朝ごはんをつくってくれる。
noteの勉強会で今井真実さんのトークイベントを一緒に見ていたぺこりんが、レシピ本を買おう!と言ってくれて、そのレシピ本が届くと、「旨味たっぷり野菜のポタージュ」(今井真実『毎日のあたらしい料理』KADOKAWA、2022年、pp.60-61)をつくってくれた。
しみじみとおいしいスープは、ぺこりんが作ってくれたから、一層やさしい味わいに感じられた。
休みの日は、自転車で、少し遠くのスーパーまで買い出しに行く。
そして、昼過ぎからワインを開けて、料理をしつつ、ワインを飲んで、ももぺこバルを開店する。
休みの日は、桜を見に行ったり、温泉に行ったりもした。
二人とも、学生の頃には同じサークルでフルートを吹いていたから、休みの日には、フルートを吹ける場所を見つけてフルートを吹いたりもする。フルートは私の楽器しかないから、交替で吹く。
本当は、二本のフルートで二重奏をしたいけれど、久しぶりにフルートを吹くと息切れしてしまうから、交替で吹くぐらいが今のところちょうどいい。
これから、おでかけ日和の季節になっていくから、少し遠くにも足が伸ばせるといいなと思う。
社会的に見たら、いまの私は役に立っているとは言い難いけれど、
私は、ささやかで穏やかなしあわせをつくっているいまの自分のことも好きだと言いたい。
これまで、私の人生における「仕事」の部分には、ぽかりと穴が開いていると思っていた。
学芸員の仕事を辞めてから、自身の仕事を天職だと話す人や、仕事が楽しいと言っている人を見ると、羨ましさよりももっと醜い感情を覚えてしまっていた。
私は、そんな穴を塞ぐように、文章を紡いできた。
私がこれまでnoteに文章を綴ってきた原動力は、「どこか満たされない気持ち」だった。
完成しない人生のパズルを、どうにか自分で埋め合わせようとしていた。
でも、探し求めていたパズルのピースを、夫がふわりと嵌めてくれた。
そうして、私がほしかったピースは、「仕事」ではなく、「居場所」だったのだと気づく。
私は、仕事もしたいと思っているけれど、それは自分のためではなくて、誰かのためにできたらいいな、と思うのだ。
ただ、実を言うと、これまで書く原動力としていたものがなくなって、ここ最近は、どうやって文章を書いたらいいのか少しわからなくなっていた。
書きたいことも、書きたい気持ちもあるのに、なんだか筆が進まなかった。
でも、満たされない思いを埋めるために書くのではなく、満たされているからこそ書けるものもあるのかもしれない。
そう思ったら、書ける気がした。
いまの私は、こんなにもしあわせでいいのかな、と不安になるくらいしあわせだ。
でも、私自身が、他人のしあわせを喜べないことも多い、小さな人間だから、私のしあわせが誰かを傷つけるんじゃないかと怖くなった。
だけど、本当のしあわせをひしひしと感じているからこそ、描けるものがきっとある。
本当に愛する人がいるからこそ、知り得る感情があるように。
これは、最近私がまるすけさんのために描いた絵だ。
100の叶えたいことの一つ「私の作品と、だれかの作品を物々交換してもらう」という夢を、まるすけさんが一緒に叶えてくれた。
まるすけさんの絵は、淡い色の中に、じっと見つめているとその奥には濃い色彩も滲んでいて。私のイメージだと言っていただくのが、なんだかこそばゆく感じるほどステキな絵。
この絵を受け取ってから、これに見合う絵を仕上げるというのは、なかなかのプレッシャーだった。
紙をボロボロになるまで塗りつぶして、三枚目の紙に描き始めたとき、ちょうどフルートを吹く場所の予約時間だったから、筆をおいて出かけた。
フルートを吹きに行く場所まで自転車で向かう途中に、タンポポが咲いている畦道があった。
まるすけさんが好きだと言っていた花だ。
春の陽気に満ちたその光景に、いつも優しく言葉をかけてくれるまるすけさんのイメージが重なった。
フルートを吹き終えて、家に着いてから、私は一気にこの絵を描き上げた。
絵を描き終わって、ぺこりんに見せると、
ぺこりんは、「わぁ!」と歓声を上げて、「きっと、喜んでもらえるね」と顔を綻ばせる。
絵を贈ってくれて、受け取ってくれる人がいること、そして絵を描く私を側で励ましてくれる人がいること、そんなしあわせな気持ちをこの絵に詰め込んだ。
長閑な春の陽気を感じられるような、半抽象のような絵。
この温かな絵は、まるすけさんがいたから描けた絵、そして今の私だからこそ描けた絵だと思う。
これからは、自分のしあわせを噛みしめながら、だれかのしあわせを願えるような、そしてだれかにしあわせを分け与えられるような、文章や絵をかいていけたらいいな、と思っている。
4/14 追記
まるすけさんも、絵に込めた想いを綴ってくださりました。
ずっと、この絵を大事にします。