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私がなりたいのは、学芸員なのだろうか

最近、私がなりたいのは学芸員なのだろうか、と少し気持ちが揺らぎはじめている。

私は、1年半だけ学芸員だった(なぜ、学芸員を辞めてしまったのかは、過去の記事を参照ください)。

そのあと1年間、博物館で非常勤職員として働いていた。そして、今年の4月から大学院に進学し、もう一度学芸員になりたいと思っていた。でも、最近本当にそうなのか迷いが生じているので、書きながら気持ちを整理してみたい。

最近授業を受けていて、先生方は、本物の作品を見てほしいと仰る。その気持ちはよくわかる。やっぱり本物じゃなければわからないことはたくさんある。私は、ヴェネツィアに留学して、実際に目にした教会の祭壇画は、図版で見ていたものとは全く印象の異なるものだった。そして、その絵画は、教会の場所に設置されていることで、鑑賞する角度や、窓から差し込む光が計算されていて、美術館や博物館という本来の設置場所から離れて展示されるときとは格段の迫力の差があった。また、留学中、フランスのジヴェルニーも訪れたが、モネの庭を見るまで、モネが睡蓮の庭をこれほど本物そっくりに描いたとは思っていなかった。でも、留学の際に見逃した絵、行けなかった場所がたくさんあるのに、今は海外に気軽に行ける情勢ではないし、そもそも行くお金がない(留学は、たまたま奨学金のおかげで行くことができた)。

海外に行って実際に作品を見ることのできる人なんてごく僅かだし、国内の展覧会だってほとんどが大都市に集中していて、地方の人が見に行くのには大変だ。高校生の頃、バイトやお年玉を貯めたお金で、ルノワール展を見に東京に行ったことがある。そのとき、東京会場に展示される絵と大阪会場に展示される絵のリストがあり、それを見ながら「大阪会場にも行きましょうね」と話している見るからにお金持ちの夫妻がいて、いいなぁと思ったのを覚えている。

美術はすべての人に開かれたものであるのかもしれないけれど、本物にアクセスできる人はすごく限られてしまっているような気がする。

そして、せっかく展覧会に来ても、図録に充実した解説を載せているせいか、展覧会だけを見ていてもいまいち理解しきれないことが多いような気がする(私の理解力が足りなかっただけかもしれないし、こうやって大きな主語で括るのはよくないことだと思うが)。もちろん、展覧会は文字を見るためではなくて、そのモノ自体を見ることに力点が置かれているのだから、解説は最低限でよいのかもしれない。でも、楽しみ方、見方がわからない人は、せっかくお金と時間を使って、何もわからなければ、展覧会自体を楽しめたとはいえないのではないか。

大学の講義では、先生がときおり展覧会の紹介をしてくださる。先生の場合は、ご自身の知識に、展覧会で得た情報を肉付けして壮大な知の神殿を築いていて、こんな風に鑑賞できたら楽しいだろうなと思う。でも、こんな風に展覧会の情報を整理できる人がどれほどいるだろう。

図録を買うお金だって、一生懸命働いて稼げばいいだけかもしれないし、知性や感性を磨けば、先生たちのように美術展をもっと楽しめるのかもしれない。でも、展覧会がごく限られた人たちのためになってしまっているのは嫌だなあと思う。

私は、美術作品を限られた人たちのものではなくて、もっと開かれたものにしたい。美術にあまり興味のなかった人にも興味をもってもらいたい。とくに、アートが難しいと感じているような人たちに。「美術館女子」がジェンダー論で炎上していたけれど、美術館で映える写真を撮るというのも美術館の楽しみ方の一つとしてはいいと思う。でも、展覧会を主催する新聞社が取りあげてしまうと、美術館ってそれだけの場所じゃないよねと確認したくなる。美術館は教育機関であって、単なる「映えスポット」ではない。だが、美術が高尚なもの、難しいものとして避けられてしまう中で、なんらかのきっかけを作って、美術館に訪れてもらう工夫は求められていると思う。

一度だけ出席した全国美術館会議の学芸員研修会で、なぜ人は展覧会に来るのかという問いに「本物を見たと他の人に自慢するためではないか」という意見があって、そこに居合わせ学芸員は苦笑いしていた。学芸員の口からそれを言っちゃうか~と驚きながら、たしかにそういうスノビズムが美術館に蔓延っていることは否定できないと感じた(私自身への自戒を込めて)。専門家は、わからない奴にはわからなくていいと言い、ちょっと知識のある人はそれをひけらかし、一般の人は、なんだか難しくてわけわかんないという悲しい構図に陥ってしまっている。

そして、私はそのスノビズムの原因が、美術館・博物館側にもあると思う。私は一番初めに学芸員として勤めた場所と、二番目に勤めた博物館の両方で、上司がお客さんを「一般ピーポー」と呼んでいるのを耳にした。明らかに侮蔑の文脈で使われていた。「それは、一般ピーポーには伝わらなくても、やることに意味があるんだ」とか「一般ピーポーにはそれで充分かもしれないけど、ちょっと詳しい人が見ればわかるよね」とか。私が一般ピーポーに過ぎないからかもしれないけれど、すごく嫌な感じがした。来館者から見てわかりやすいかどうかを配慮する必要はあるだろうが、知識があることとと傲慢になることは違うと思う。「学芸員はがん」と言った政治家の傲慢さを私は今も許せないけれど、学芸員が「一般ピーポー」というのも同じく傲慢だと思う。中には、間違った知識をひけらかして、学芸員に訂正しろと訴えてきたりする困ったお客さんがいるのも事実だが、展覧会は、何かを学ぼうとしている人を最大限に尊重するものであってほしい。

そんな体制を変えたいなとは、思うけれど、まだその手段がわからずにいるという…。偉そうに批判しておいて結局わかんないのかい!と思われてしまいそうだけど、わからないからといって黙っていては何も変えられないと思う。だから、まずは無知であることを認める。そのうえでどうしたらいいのか考えていきたい。

学芸員として内側から変えていけるのか。そもそも、学芸員になれるかどうかわからないし、その倍率から考えたら、なれない可能性の方がずっと高い。学芸員や大学教授にならなければ、美術について語る資格はないのだろうか。

美術史の授業を受けながら、私は毎回ぞくぞくする。美術作品を歴史的な文脈に置いたときに見えてくる解釈、過去の先人たちが絵画を通して訴えかけるメッセージ、今まで私は何を見ていたんだろうと放心する感覚、それを限られた人だけじゃなく、いろんな人に味わってほしいと思う。

それに、美術史の知識がなくても、美術作品の楽しむことはできると思う。その一つに、「普段見逃しているものにふと立ちどまらせてくれる」ということがある。たとえば、冒頭で挙げた私の過去の記事のヘッダー画像は、ひなげしの花の写真だけれど、この光景を見たとき、モネの《ひなげし》(1873年)を思いながら、写真を撮った。たぶん、モネの絵を知らなかったら、足を止めて写真を撮ることはなかっただろう。ひなげしを見ながら、その瞬間、淡い草の色の中にふんわりと浮かぶひなげしの花を通して、私は行ったこともないアルジャントゥイユに思いを馳せた。これは、美術史的な絵画の見方ではないし、美術の楽しみ方のごく一部でしかないけれど、そんな風にふだんの生活を豊かにしてくれるものがアートだと私は思っている。

まだ、どうやったらよいのかわからないし見当もつかないけれど、何がやりたいのかは少しずつ見えてきた気がする。私がやりたいことを、実現している本がいくつかあるので、まずは今度それを紹介したい。

勉強を続けながら、少しずつその方法を模索していこうと思う。