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雨降る美術館

ひとりで静岡の美術館へ旅をしたことがある。


その美術館は、いつか行ってみたいと思っていた美術館のひとつだった。

クレマチスの丘という、美術館がたち並ぶ丘がある。

その丘の上にある美術館で、須田悦弘さんの展覧会『ミテクレマチス』が開催されていた。


須田さんの作品は、その展覧会以前にも見たことがあった。
はじめてみたときから強く惹かれた。



私が学芸員を務めた市でも、須田さんの作品を所有していた。

クレマチスの丘を訪れたとき、私は学芸員だったけれど、いろいろあって辞めようと決意していた。

学芸員を辞めることを決める前に、須田さんを知りたいと思って計画した旅を私はそのまま決行したのだ。

学芸員を辞めようとしているのに、所蔵品のことが頭から離れなかった。

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須田さんは、木彫で植物を制作する。

本物そっくりに。

本物そっくりだけど、須田さんがつくるのはニセモノではない。

もうひとつの本物なのだと私は思う。

さりげなく、道端で見逃されたり、踏まれてしまうような草花を、須田さんは建物の中に、そっと咲かせる。

美術館の外でもクレマチスが咲いていた。
そして、館内のあちこちに、須田さんのクレマチスは、さりげなく、でも力強く咲き誇っていた。

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その日は、雨が強く降っていて、美術館は、雨の中でしろくぼうっと光り、草花は、雨に濡れていて、きらきらと光っていた。

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晴れていたらもっとのんびりと庭を歩けただろうけれど、雨降る庭は、草木に水が反射して、夢の中の世界のように美しかった。

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展覧会が開催されていたのは、ヴァンジ彫刻庭園美術館である。

ジュリアーノ・ヴァンジ(1931-)は、イタリアの彫刻家だ。

彼の作品は、みていると、胸が苦しくなってくるようなものが多いような気がする。

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決して暴力的な表現ではなく、とても静かなのに、自身の心を覗き込んでいるような気持ちになるのだ。


同じクレマチスの丘の上にある、ベルナール・ビュッフェ美術館へも足を運んだ。

ベルナール・ビュッフェ(1928-1999)は、戦後フランスで活躍した画家だ。

美術館の外は土砂降りだったから、美術館に足を運ぶ人は少なく、私は展示室にひとりぼっちだった。

ビュッフェの絵も、ヴァンジの彫刻のように、観ているとすこし心が重くなる。

黒い線、暗く重い色に覆われた大きな画面が、心の中にも入り込んでくるようだった。

自分自身の将来に対する不安や焦りも、鑑賞には反映されていたかもしれない。

それでも、私は、ゆっくりとひとつひとつの作品を味わった。


二つの美術館を見た私は、頭と心がいっぱいになっているのを感じていた。

疲れ切っていたから、もう帰ろうと思った。

でも、帰りのバスに乗る前に、もうひとつ美術館があることに気づいた。


そこで開催していたのは、星野道夫さんの展覧会だった。

星野さんって、アラスカに行った写真家さんだよな、と思いつつ、それほど興味は湧かなかった。

でも、疲れ切った頭は、アラスカの大自然のような写真を求めていた。

現実から解放されたい、そんな邪な理由で、私は会場に足を踏み入れた。

会場には、私が期待したような、現実離れした写真が並んでいた。

海の上で力強く水飛沫をあげるクジラ、現地住民、野生動物、満点の星空…。


でも、そこで予期せぬ出会いがあった。

それは、星野さんの言葉との出会いだ。

「ぼくたちが毎日を生きている同じ瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは、天と地の差ほど大きい。」
『森と氷河と鯨』(世界文化社)より

この言葉を見て、涙が溢れた。

私は、現実世界で、夢と希望を失っていた。
そのときの私は、働くことができない自分が嫌で、情けなくて、悔しくて、毎日涙を流していた。

そんな私を見かねた母に、すこし遠くに出かけてみたらと提案されたのだ。
静岡への一人旅は、いわば傷心旅行だった。
もっと言えば、あのときの私は死に場所を探していたのかもしれない。
大袈裟に聞こえるかもしれないけれど。

でも、星野さんの言葉に出会って、私がそのとき見ていた世界は、小さな世界に過ぎないのかもしれないと思った。
もうひとつの世界があるのかもしれないと思った。

そして、もうひとつの世界を思い描いて、私は生きようと思った。


会場を出たとき、あんなに強く降っていた雨は止んでいた。
私は、持っていた傘を、会場に置いてきてしまったことに、帰るバスの中で気づいた。


あのときの美術館は、私に降り注ぐ土砂降りの雨が降り止むのを待つ、雨宿りのような場所だったのだと思う。

私は、いつかよく晴れた日に、もう一度クレマチスの丘を訪れたいと思っている。






後日譚