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支援されるということ──支援者を目指していた人がクライエントになったときの話

いつかどこかできちんと言語化して残しておきたかったことを書こうと思う。
今しか書けない、今だから書けることを、文章としてここに残しておく。

私は、「支援者」になることを志して福祉系の大学へ進学し、社会福祉学や心理学などを学び、社会福祉士国家試験に合格し、その後、精神疾患を発症して「クライエント」になった。

今見ている景色は、支援者になることを目指していたときとは、少し、いや、だいぶ異なっている。
クライエントになったからこそ見えた景色というものか。

精神疾患になれて良かった、とは思わない。
でも、クライエントの立場になる経験をできていることは、この先もし支援者の立場に立つとしたら、きっとかけがえのないものになると感じている。

(ここから先の話は、私個人の経験と体験に基づく考えであり、全てのひとがそう感じるとは限らないことを付記しておく。)


クライエントになって、一番に感じたこと。今でもずっと感じ続けていること。

それは、「支援されることはつらい」ということだ。

支援を要する状態になること自体がつらいものであることは間違いない。
私の場合だと、精神疾患になり、治療を要する状態であること自体がつらい、ということになる。
それはそうだろう。至極真っ当な話である。
病気であったり、生活に困窮したりしていたら、つらくなるのは自然なことだ(全員が全員そうなるわけではないが)。

でもそれ以外に、支援されること、そのものがつらいのだ。

自分の生きる手綱を他者に握られている感覚ともいうべきか、自分は他者からの支援がないと生きられない状態にあるのだ、と日々感じる。

支援を受けたくなくても、支援され続けないと生命をつなげない。
通院していなければ、カウンセリングを受けなければ、今の私はまともに生活できない。まともに生活できなくなれば、究極的には死につながる。
だから、支援と、支援者と縁を切ることは今はできない。

主治医に理解されていないと感じて苦しくても、カウンセラーと話すのがしんどくても、彼・彼女らに会わなければいけない。

まるで、彼・彼女らが私の生きる手綱を握っているようだ。事実として、そういう一面はあるのだと思う。

その感覚は、とても痛くて、怖いものだ。



支援者になる勉強をしているときによく、「クライエントの立場に立って」や「クライエントと同じ目線で」、「クライエントと対等な立場で」という言葉を耳にした。


クライエントの立場になって思う。

無理だ。


同じ立場になんか、立てっこない。
そこには、明確に支援者─クライエント(被支援者)という構造が存在する。
どれだけ支援者が対等な立場であろうと意識しても、同じ地平には立てない。
構造的に不可能なのだ。

私を支援してくれている人たちは、きっとクライエントの立場に立てるように、寄り添えるように知恵を絞ってくれている(と、信じている)。
上下関係ができないように、支配─被支配の関係に陥らないようにと考え、行動しているだろう。
それでも、やはり明確な違いが、壁が、そこに生まれてしまう。

支援というのは、権力構造と無関係ではいられないものなのだと思う。


逆説的だが、だからこそ、「クライエントの立場に立って」や「クライエントと同じ目線で」、「クライエントと対等な立場で」という考え方は非常に大切なのだろう。

できないからこそ、しようとする必要がある。
しようとしてもできないけれど、それでもしようとし続ける必要がある。
その努力がなければ、容易に上下関係や支配─被支配の関係性を深めてしまうから。
本当に簡単に、その構造を堅固にできてしまう。

支援している側は気付かないかもしれないが、自分の一挙手一投足でクライエントを左右できてしまうという、とても危うい側面があるのだ。
支援者が思っている以上に、「支援者」という立場の力は強い。

先に述べた、自分の生きる手綱を他者に握られている感覚は、この権力構造の産物(遺物)なのだと思う。

自分の生きる手綱を他者に握られていると感じることは、とてもつらい。
これが支援を受けるつらさの一要素である。


加えて、支援を受けるつらさとして、クライエントは自分の弱さを他者である支援者に、そして何よりも自分自身に対して曝け出さなくてはいけない点があると思う。

支援を受けるに当たって、クライエントは自分の見せたくない部分を支援者に見せなくてはならない。
例えば私の場合は、思い出したくない幼少期や、底なし沼のような希死念慮などが、これに当たる。

クライエントは、たとえ意図せずとも、自分の弱くて脆くて汚い人間味の溢れる柔らかい部分を差し出しながら、露呈しながら支援を受けることになる。
それは、自分でも見たくないような部分を、自分も直視するということとイコールでつながっている。
自覚のある弱さを他者に伝えるには、弱さを直視して言語化しないといけない。
また、自覚のない弱さを支援者から指摘される場合もある。

自覚のない弱さの指摘は、未知であった自分の弱さを自覚し、直視することになるから、かなりきつい。
「こんな深い傷があったなんて」、「なんで自分はこんななんだろう」、そういう瞬間の繰り返しである。


つらい。
本当につらい。


こんな思いをするなら、もうひとりで闇の中の闇、底の奥の底に沈んでいくほうが楽だと、そうしたいと何度思ったか。

でもそれはできないから、ゆるされないから、支援につながり続ける。
つらさと闘いながら、葛藤しながら。



支援者になる勉強をしているとき、ほんのりとどこかでずっと、「支援してもらえるっていいな」と思っていた。
自分もずっとつらかったから、でもそのつらさにひとりでうめいていたから、支援につながれることが、他者に助けてもらえることが、羨ましかった。

正直にいえば、今もそう思うことが度々ある。
私ももっと早く支援されたかったな、苦しみに気づいてもらいたかったな、と。


ただ、今はその気持ちと同時に、それより強くはっきりと、「支援を受けているこの人はすごいな」「頑張っているな」と感じる。
支援されることは、つらさを緩和する営みであると同時に、その過程で大きな大きなつらさを伴うことを知ったからだ。
だから、「クライエント」の立場で踏ん張れる人のことを、心の底から尊敬する。


20代、人生ではじめて、支援らしい支援につながった。

精神疾患になりたくなかった。
支援者になりたかった。
つらいから支援してほしい。
つらくなるから支援されたくない。
この一年で何度となく感じた気持ちたち。


支援者を目指していた人間がクライエントになって、もうすぐ一年が経つ。

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