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書くことが好きな私はライターになれなかった

「Webライター職で選考を受けてみませんか?」

とある企業から連絡をいただき、面接を受けた。その面接は通過と判断されたらしく、次にライティング課題が送られてきた。

字数や注意事項を守りながら、読んでくれる人のことを思い浮かべながら書き上げた課題は、不採用。選考終了となった。それが一昨日のこと。

文章を書く仕事に就きたかったし、社風も自分に合うなと感じてたから、残念ではあるけど、意外なことにそこまでショックを受けていない自分がいる。ショックを受けたら私はずっとずっと引きずるし、「あの部分もっと違った書き方をしてたら良かったのかな…うぅぅ」とぐるぐる考えるけど、私の率直な気持ちは「自分の文章が否定されたような気持ちにもなるけど、あれが私の精一杯の文章だからなぁ」と「まぁ、やれるだけのことやってダメだったからね」なのだ。

この企業の選考を受ける前にもう1社、受けたところがあった。そこは自ら辞退した。ライティング課題を送ってもらい、内容・注意事項に目を通していたら、無性にぐーーーっと苦しくなってしまい、モヤモヤした。文字を打つごとに、考える度に、どんよりした。

「もしここで頑張って超えたとしても、入ってからもこの苦しさが続くだろうな」と感じて、辞退の連絡をした。自分から応募しておいてごめんなさいと思いながら。

なんだかんだ言いつつも、私は感性と感覚で書く自分の文章が好きだったりする。

「求められる文章、伝わる表現、仕事として書く文章を続けたら、自分の感性はどうなるんだろう、私の文章はどうなるんだろう」

この一抹の不安を、自ら辞退した会社は課題を見て私自身が直接感じて、この前不採用になった会社は提出課題からそれを感じ取った、…むしろ伝わってきたのかもしれない。無意識だけど。

文章を書くことは大好きだけど、私はライターにはなれないんだな、と感じた。

文章を書くことが好きな自分は「これが私で、これが自分自身なんだ」という自己表現や、自分の中にあるものを発散・表現する手段として書いていることもあるけど、時々「これは書くより描く方がいいな」と絵を描くことを選ぶときがある。

表現することが好きだし、表現する手段の「書くこと」「描くこと」の占める割合は気持ちやモノによって変化する。自分が表現したいことに届かせるために近いのは、自分の想いに近いのは、と考えるとき「今日は書く方なんだろうか?それとも描く方?」と続く。

自分や気持ちを表現するとき、よりそのまま、100%に近い状態を望む。望んでるんだけど届かない時もある。だから私は思いついた表現や言葉をメモし続けてるし、書かれている方の素敵な表現を写経したりする。絵ももっと描きたいと思ったものを描けるようになりたいし、デザインの勉強もしたいと思うのはそこが根っこになってる。写真を撮るのも好きだ。

自分の感性に結びついてる文章が好きだ。

自分の感性で書くことが好きな私は、ライターになれないのだ。

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