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公開!『言語 この希望に満ちたもの』「はじめに」野間秀樹.北海道大学出版会

★野間秀樹著『言語 この希望に満ちたもの』(北海道大学出版会)の「はじめに」をここでお読みになれます。
★このページでは一部抜粋となっています。原著にあるルビは削除されています。
★下記のpdfでは本書のpp.1-11、「はじめに」「目次」の全てを原著と同じ縦組みでお読みになれます。ルビなども原著のままとなっています。
原著については下記をご参照ください。amazonでは読者の方々がお書きくださったレビューなどもお読みになれます:
 https://www.amazon.co.jp/dp/4832934139
 https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784832934139
ISBN 978-4832934139 本体 2,700円  四六判  350ページ

★pdfで読む(縦組みです):

はじめに

しかしいま、やっとわかるときが来た。世界の半分は言語でできている。これは信じていいことだ。
世界の半分が言語でできている――もちろんこれは譬えに過ぎない。けれども本書を共にしていただければ、この譬えの巨大な重圧を感じていただけるであろう。
そうした世界に生きる私たちは、言語をめぐって、今日、次のような切実な問いを発せずには、いられない:

私たちは言語をめぐっていかに生きるのか

世界がウイルスという名の見えない何ものかに、恐れ戦いたとき、宇宙服のような防護服に象徴されるように、人と人とが直接触れ合うことは、禁忌となった。そして人と人との繫がりが、何とインターネット上に求められてゆく。あるいはPCの、あるいは携帯デバイスの、華奢なディスプレイ越しでなければ、人と人とが出会えなくなってしまった。互いの表情を見せてくれるディスプレイは、あたかも私たちのもどかしさを増幅させる装置のごとくである。人が人を求め、共にする、最後の砦は何であったろう。病棟に隔離され、人が人を抱擁さえできなかったとき、最後に残ったのは何であったろう。言語である。そこにはもうほとんどことばしかなかった。私たちはそのことを、嫌と言うほど、思い知らされたのである。言語こそは、私たちが共に在ることの、最後の砦であった。
 
でもウイルス年以前も、実はそうだった。始まりはいつも言語であったし、最後の砦も言語であった。
この地で生きている私たちが、直面してきた様々な困難のうち、言語をめぐる問題、あるいはことばに関わる問題の、いかに多いことか。新聞を見よう、雑誌を見よう、テレビを見よう。井戸端であってもいい、国際会議場でもいい、人々の集まるところで語られる言語を見よう。そこではきっとこんなことが言われている――誰々が何と言った、何を語った。ひどい。こんな発言が許されるのか、こんな暴言が罷り通っていいのか。許し難し。そこはしばしば、傷つき、傷つけられる、茫漠たる言語地帯である。インターネットを見よう、SNSを見よう。そこはさらなる言語暴力地帯である。ことばがことばを切断し、ことばをことばが叩きのめし、ことばがことばの首を絞める。そしてことばが私たちを刺す。ことばに刺される度ごとに、私たちの心が軋む。心が刻まれる。ヘイトスピーチ、フェイクニュースなどという外来語さえ日常語となった。
私たちの日常は、個人と個人の間の、ちょっとした言葉遣いから、国家間の威信を左右するような言語使用に至るまで、およそ言語とは関わりのない問題を探す方が、難しい。世界の半分は言語でできているのであるから。
世界を生きる私たちの息苦しさの底には、往々にして言語についての息苦しさが蠢いている。日本語と呼ばれる言語を〈母語〉とする人々にとっても、息苦しさは母語たる日本語にだけ感じられるのではない。日常のあちこちに聞こえる、「英語を学べ」などという進軍喇叭もまた、言語をめぐる私たちの苛立ちを駆り立てる。この〈母語〉という概念をめぐっても、大切な問題群が蹲っている。
 
今日、言語は私たちにとっていかなる姿をとって、立ち現れているのか? 私たちを繫いでくれる最後の砦であったはずの言語は、真に私たちのものなのか? 反対に、いつしか私たちはあまりにも言語に苛まれているのではないか? これは単なる意思疎通の不十分さなどといった、生易しい事態ではない。コミュニケーションなどという、実験室から取り出してきたような単語で、語りきれる事態ではない。
ことばを学ぶということにあってもそうだ。「国語」教育? コミュニケーションのための「外国語」教育? これらもまた、あまりにも空疎な号砲である。コミュニケーションになど辿り着きもしない、「外国語」への劣等感の巨大生産装置たる、公教育の累々たる屍を見よ。何か間違っているのではないか? 「外国語」教育の、目標も、方法も、あるいは出発点さえ間違っているのではないか? 
日常のありとあらゆる局面で、言語がまるで私たちの脳を締め上げ、私たちの感性を すり潰すかのごとくである。原発が崩落し、ウイルスが蔓延する、そうした危機に乗じて、〈国家の言語〉が、〈差別の言語〉が、〈抑圧の言語〉が密やかに、時には公々然と襲いかかってくる。しばしば〈戦争する言語〉さえもが飛び交っている、これは、錯覚なのか? 杞憂なのか? 
深いところから考えるとき、間違いなく言えることは、私たちの生のうちを、人類の歴史にかつてなかったほどの、圧倒的な量の言語が、恐るべき速度をもって蠢いているということである。ことばが私たちの生のあらゆるところに溢れている――言語のパンデミック。

質的な存在である言語が、今日、文字通り圧倒的な量と速度とを備えて、やって来る。重く、速い、言語の巨大な濁流が押し寄せる。今日の言語の圧倒的な量と速度が私たちを、ことによっては、巨大な津波のように飲み込みかねない。言語をめぐるこうした視座から照らすならば、私たちは人類史的な〈言語危機の段階〉へと立ち至っていることが、見えて来る。私たちは既に言語危機段階のただ中に在る。言語危機とは、人類史においてこれまで私たちが経験したことのないような言語のありようがもたらす危機である。言語パンデミック。ことばのパンデミック。そして世にことばが溢れているにもかかわらず、一方では人とことばを交わすことができない失語空間に追いやられる、老いの孤独。私たち一人一人が言語の前で日々壊れかねないありようである。私たちは言語危機をいかに生き得るのか?

私たちは〈日本語〉と呼ばれる言語のただ中に日々生きている。そして私たちが生きる言語のありようは、猛烈に変容し続けている。上古の言語は、もはや辞書なしでは何が語られているか、今日の私たちには解することさえ、覚束ない。古い言語を前にするのは、「外国語」と呼ばれる言語を前にするのと、何ら変わりはない。それは同じく「日本語」などと呼び得るのか。語彙、文法、表現といったことばそのものが、これでもかと、その姿を変えて来たし、間違いなく、これからも変えてゆく。
ことばそのもののみならず、実は、そうしたことばが現れる様々な場――言語場――こそ、その姿を留めない。今日に至るまで言語場のありようは激変し続けている

  (中略)

かくして言語が実現する場、言語場のありようも、激変し、言語場のありようの変容は、言語そのものの変容をも手繰り寄せる。ことばが変わっていく。
〈話されたことば〉と〈書かれたことば〉の相互変換、相互浸透も加速する。電子の暗箱の中で言語音は文字へと搗き固められ、文字はまた言語音へと解き放たれる。掌の中のデバイスでは〈話されたことば〉が〈書かれたことば〉へと、そして〈書かれたことば〉が〈話されたことば〉へと、あたかも自在なごとくに、その姿をたちどころに変えて見せてくれている。ヒットチャートを駆け巡るvocaloidの歌声には、人の声には不可欠であった、横隔膜の運動も、両肺からの気流も、声帯の振動も要らない。人が踏み入ることのできない闇の中で、〈話されたことば〉は〈書かれたことば〉となり、また〈書かれたことば〉が〈話されたことば〉としても立ち現れる。これは既に禁断の領域である。

言語は紛れもなく動態である。「言語は生きている」というような生半可な比喩を拒むほどに、言語はただ生きているのではなく、激しく、生きている。今日の私たちは人類史上かつてない、言語の危機段階にあって、圧倒的な量のことば、それも速度を持ったことばのただ中に、私たちは生を得る。動態としての言語の激流に、私たち一人一人は、しばしば息もできずに、なす術を知らない。
私たちにはどうしても言語を生きる〈構え〉が必要である。言語を発すること、言語を学び、教えること、言語を問うこと、言語にとってのそうしたあらゆる局面に〈構え〉が必要である。何よりも、言語そのものと、言語場をめぐって、いったい何が変わって、何が変わっていないのか、その見極めは不可欠である。
本書はこう名づけられている:

 『言語 この希望に満ちたもの』

そう、言語は何よりも私たちの生きることの根幹を動かしている。言語を生きていると言ってもよい。ことばによって疎外され、ことばによって抑圧されるなど、人の生きる姿ではあるまい。繰り返すが、世界の半分は言語でできている。言語のパンデミックの時代を迎えているなら、何よりもその言語とは、生きるための言語でありたい。よりよく生きるための言語。その根幹から照らすなら、言語とは実は、希望に溢れたものである。書名に焼き付けられているのは、本書の希いである。

本書の構成をごく簡単に書き留めておこう。第1章では〈言語はいかに在るのか〉という、原理論的な問いを確認する。第2章では言語が実際に実現する場=言語場の今日的な変容を見る。第3章において、ことばが私たちの生の隅々に溢れるさま、言語の環境パンデミックから身体パンデミックに及ぶさまを見据える。TAVnet(タブネット)という今日のことばの生態空間についてもここで見る。私たちが造っているはずの言語が、逆に私たちに襲いかかり、私たちを抑圧するという、言語疎外のありようも確認できるであろう。言語のパンデミック、言語のメルトダウンとも呼び得る、今日の言語の姿をしっかりと確かめよう。第4章では自らの内から、第5章は自らの外から、それぞれことばへの構えを築く総戦略を考え、明るく楽しい展望を得たい。第4章は既存の言語論でしばしば見落とされてきた、言語の同席構造、言語による存在化機能という問題、今日の言語教育を支配する言語道具観、言語は本質的に教え=学ぶというありようをしているのだ、といった問題を考える。第5章では次のような課題を扱う――自らの言語を他者の言語に照らすということ、差異と対照、他者の言語と翻訳という言語場、多言語や言語間言語を歩くこと、ことば以前とことば以後、そして自らの外にあることばから、自らのことばを造るためになすべきこと、電子書籍やSNSが日常となった今日の言語場において〈書物を読む〉とはいかなることかも、位置づけ直すこと。

なお、本書の記述はごりごりのアカデミック本のような書き方はしていない。ちょっとだけ感性のフットワークを軽くしていただければ、中高生くらいの皆さんでも本書を充分に共にしていただけるだろう。モチーフは言語をめぐるいろいろなことがらに及ぶので、まず目にとまったページからお読みいただいたのちに、最初に戻っていただいて構わない。そんな構成になっている。
 
本書は動態としての言語の最も深き底を緩やかに流れる海流を見据え、言語を生きることを、考える。言語をめぐるありようを見据える〈構え〉がほしい。〈構えを作る〉であきたらなければ、〈武装する〉と言ってもよい。無論これは、貨幣と交換が可能な、銃弾や砲弾などといったものによる武装ではない。徹頭徹尾、〈知の武装〉であり、〈心の武装〉である。
私たちが生きるための言語を問う。その問いは、言語を単に記号論的な平面で眺めたり、単なるコミュニケーションの道具などに貶める、既存の言語学や言語思想とは、大きく異なった問いとして問われることになるだろう。一言で言うと、〈言語はいかに在るか〉という言語存在論的な問いとして、問われることになる。問いを、共にしてくださらんことを。言語を生きるために。                                        

  野間秀樹

■目次

はじめに
第1章 ことばを最も深いところから考える――言語はいかに実現するか
 1-1 言語はいかに在るのか――言語ハ夢デアルノカ
 1-2 ことばには〈かたち〉がある――音の〈かたち〉と光の〈かたち〉
 1-3 言語の存在様式と表現様式を区別する
第2章 ことばと意味の場を見据える――言語場の劇的な変容への〈構え〉を
 2-1 言語は言語場において実現する
 2-2 ことばは言語場において、意味となったり、ならなかったりする
 2-3 言語場は猛烈に変容している
第3章 世界の半分は言語でできている――ことばのパンデミック
 3-1 言語が私たちの生の隅々に襲いかかる
 3-2 言語が私たちを造形する――知性も感性もイデオロギーも
 3-3 言語が私たちを抑圧する――物象化することばたち
 3-4 言語のパンデミック、言語のメルトダウン
第4章 ことばへの総戦略を――内から問う
 4-1 〈問い〉が全てを変える――従順な仔羊から羽撃く鳳凰へ
 4-2 拡張の言語――同席構造の言語学
 4-3 反撃の言語――存在化機能の言語学
 4-4 学びの言語――言語道具観との闘い
 4-5 対峙の言語――〈話す〉ことを学ぶ
 4-6 連帯の言語――言語は教え=学ぶものである
第5章 ことばへの総戦略を――外から問う
 5-1 照射の言語――自らを他に照らす
 5-2 展開の言語――翻訳という言語場
 5-3 共感の言語――多言語と言語間言語を逍遙する
 5-4 創造の言語――ことばを〈かたち〉に造るために
終章 言語 この希望に満ちたもの――やはり、生きるための言語
おわりに
文献一覧
事項索引/人名索引/図版索引                   

 ●装丁・装画・扉の書・本文組版デザイン・図=野間秀樹

原著については下記をご参照ください。amazonでは読者の方々がお書きくださったレビューなどもお読みになれます:
 ★amazon:
 https://www.amazon.co.jp/dp/4832934139
 ★紀伊國屋書店:
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784832934139
ISBN 978-4832934139 本体 2,700円 四六判 350ページ

北海道大学出版会
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